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盲目彼女  作者: 弘前三郷
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第二話 彼女と罪

第二話を投稿します。

思えば一話では特に話が進展してなかったですね(笑)。


 篠田さんから始めての着信が来たのは、その日の夜自室でベッドに横たわっていた時だった。なんだか携帯電話の着信音を聞くのがずいぶん久しぶりに感じた。

 結局、あの一時間の後は、いつものように時間が過ぎ去っていった。しかしあの出来事は、いつまでも頭の中をよぎっていた。僕は元々勉強熱心ではなく、大学の講義もさほど真剣に受けていなかった。それでも、講義の内容はある程度頭に入れるようにしていた。しかし今日は本当に何も頭に入らなかった。あの出来事が、一日中海馬を独占しているような気がした。頭が正常に働かない一日だったが、先ほど入浴したことで心身を少しリフレッシュできた。ようやく心の整理がついてきたところで先程に至る。

 静寂を打ち破る着信音の不意打ちに、苦心して組み立てたトランプタワーを眼前で破壊されたような気分になった。動揺を抑えつつ、画面の通話アイコンをフリックすると着信音は止み、代わりに彼女の声が聞こえてきた。

「もしもし、こんばんは」

「こ、こんばんは。咲良裕太です」

 先程までの独り相撲を悟られない様に挨拶をする。

「ああ、よかった。無事連絡できました」

 僕の声を聞き、篠田さんはほっとした様に話した。そういえば、僕は電話番号を口頭でしか伝えなかった。ということは、彼女は今まで僕の電話番号を暗記していたことになる。僕には到底真似出来そうにない。自分の電話番号ですら怪しいのに。

 まあそれはさておき、電話の本題を聞くことにする。

「それで、何か用があるのですか」

「ああ、そうです。今日のことでお礼をしたいと思いまして」

 確か、朝も同じようなことを言っていたな。

「それで、ご都合がよければ今週の土曜日、裕太さんを私の家にお招きしようかと考えていまして。そこでお礼をさせていただこうかと」

 なんだって?

 今の言葉を頭の中で反芻する。ふむふむ、なるほど。つまり僕が篠田さんのお宅にお邪魔すると。…いやいやいや、ちょっと展開が早すぎやしないか?生まれてこの方、一度も女性の家に行ったことがないのに。よりにもよって、僕と年が同じ位の女性の家に…しかも、お礼つきで。

 脳のインプット処理が追いつかず、完全にショートしてしまう。返答がないことを拒否と受け取ったのか、篠田さんが少し残念そうに話しかけてくる。

「あの…嫌なら無理に応じる必要はありませんよ?私も裕太さんの予定を考えていませんでしたから。いきなりで困惑させてしまいましたね」

 頭の整理がつかないままに、無我夢中で答える。

「あ、あの、嫌じゃないというか、少し驚いただけで。喜んでご好意に甘えさせていただきたいと思う所存でございます」

 滅茶苦茶な日本語だったが、なんとか本意は伝わってくれたらしい。篠田さんは明るい声で答えた。

「よかったです。それでは詳しいご予定はまた明日、連絡させていただきます。ではおやすみなさい」

「お、おやすみなさい」

 何とか別れの挨拶を伝えて通話を切ると、僕は今度こそ静寂を手に入れることができた。そして、この静寂こそが今日という激動の日が終わったことを物語っていた。

「疲れた。もう寝よう」

 一度崩れたトランプタワーを再び組み立てるような気力は、流石にもうなかった。


 翌日の夜、約束通りに篠田さんからの着信があった。結局あの後も心の整理はつかないままだったが、一日経てば普通に話せるようになっていた。全く、慣れというものは恐ろしい。その日は篠田さんの最寄り駅を教えてもらい、それから電車時間などの簡単な確認をして通話を終えた。

 そして、その日から流れるよう土日曜日になった。週末までがこんなに早く過ぎた感覚は初めてだ。いつもは週末が待ち遠しくて堪らなかったが、その分喜びも大きかった。しかし、今日は日曜日だというのにあまり嬉しくない。そもそも日曜日という感じがしない。その原因は言わずもがな、この後に控えている再開のせいだ。休日を女性と過ごすというリア充展開を素直に喜べないのは、やはり女性に免疫がないからだろう。これだけは、抗体ができるのを待つしかない。

 そんな事を考えながらいつものように流れる景色を眺めていると、目的の駅に到着した。篠田さんの話では、母親の車で送迎してくれるらしい。予定通り改札を出て駅の北口に向かう。篠田さんの車は青色らしいが、駅前に車は一台しかなかったので探す手間が省けた。

 車に向かっている途中で、ある問題に気付いた。そういえば篠田さんも彼女の母親も僕の顔が分からない。一体どうやって車に乗せてもらおうか。話が通っているとはいえ、他人の車に近づくのは少し億劫だ。

 どうするべきか困っていると、僕の存在に気づいたのか運転席から四十代位の女性が下りてきた。

「すみませんが、咲良裕太さんですか」

 助けに船とはこのことか。顔を綻ばせながら答える。

「はい」

 それを聞いた女性はゆっくりと最敬礼をした後、少し笑みを浮かべた。

「私は琴音の母親の篠田洋子と申します。琴音から話は聞いています。その節は御世話になりました」

 お母さんも琴音さんと同じように礼儀正しい。いや逆だな。この親にしてこの子ありというわけか。

「さあ、立ち話も何ですのでどうぞ乗ってください」

 お母さんはそう言いながら後ろのドアを開けた。お言葉に甘え、失礼しますと言い後部座席に座ったところで、助手席に篠田さんがいることに気が付いた。気配に気づいたのか、篠田さんはこちらを向き挨拶した。

「こんにちは、裕太さん」

「こ、こんにちは」

 電話だと普通に話せたが、いざ会うとなるとまだ少し緊張してしまう。お母さんは再び運転席に座ると、では、とだけ言い車を発車させた。篠田さんの家に着くまで十分程かかったが、誰も話題を振ることはなかった。仲が悪そうなわけでもないので、恐らくこれがこの親子のいつも通りなのだろう。しかし会話が全くないのは、第三者の僕からしたらかなり気まずい。だからといって僕には自分から話しかける気概もなく、ラジオから流れてくる曲名のわからない歌をただ聞いているしかなかった。車の中というクローズドサークルに、親子と他人の僕が取り残されている状況がなんとも可笑しく思えた。

「到着しました」

 気が付くと、車は駐車場らしき所に止まっていた。駐車場の隣には篠田さんの家らしき建物があった。だがそれを見た瞬間、固まってしまった。豪邸というと誇張しすぎているが、近隣の住宅とは明らかに一線を画すような外観だった。まるで西洋の城を日本家屋のサイズに縮小したような印象を受けた。

「どうぞ、お上がりください」

 お母さんに催促されるがまま家にお邪魔する。外観からも予想できた通り、篠田さんの家はかなり広かった。そして掃除に疎い僕でさえも、室内は目を見張るほど清潔だった。しかし内装は和洋折衷といった感じで、どこか落ち着ける様な雰囲気であった。

 想像以上の家屋に呆気にとられている内に、リビングに案内された。

「どうぞお座りください」

 お母さんはそう言って、リビング中央にあるテーブルの椅子を引く。

「あ、失礼します」

 僕はお言葉に甘え、差し出された椅子に座る。続けてお母さんは、篠田さんを僕の向かい側に座らせる。テーブルには僕たちが座っている椅子も含めて三脚ある。三人家族なのだろう。お母さんは僕たちにお茶を差し出すと、静かにお辞儀をしてリビングを後にした。僕たちが話をするのを気遣ってくれたのだろう。お母さんがリビングを後にしたところで、篠田さんは口を開いた。

「本日は遠路遥々お越しいただき、ありがとうございます」

 篠田さんは、やはり礼儀正しい挨拶をした。僕は今まで社交辞令とは無縁の生活を送ってきたので、こういう時何と返せばいいのかわからない。

「まあ、休日はいつも暇しているので大丈夫ですよ」

 何が大丈夫なのか。何だか会話のキャッチボールができていない気がする。

「そうですか。それは良かったです」

 篠田さんは少し嬉しそうに笑った。ある程度曖昧でも会話が成立してしまう日本語は、なんと偉大なのだろう。

「それで、今日はあの日の事のお礼をしたくてお越し頂きました」

 そう言うと、彼女はずっと持っていたハンドバッグから封筒を取り出した。その封筒には金一封と書かれている。

「これはせめてもの気持ちです。どうぞお受け取り下さい」

 まさか、現金とは。確かにお礼と言えばお礼だが。これではまるで金目当てで人助けをしたような感じがする。

「僕は感謝の気持ちがあれば十分です。このお金は自分のために使ってください」

 僕がやんわりと受け取りを拒否すると、篠田さんは少し顔を赤らめて話した。

「実は私、男の人に贈り物をするのが初めてで。何をプレゼントすればいいかわからず、結局現金という方法しか思い浮かばなくて」

 そう言われると受け取らないことに少し罪悪感がある。しかしこのまま受け取るのも気が引ける。うーむ、どうしたものか。

 とここで、頭にある妙案が浮かんだ。

「そうだ。だったら一緒に買い物に行きませんか。そうすれば僕は篠田さんの満足できる形でお礼を受け取ることができます」

 我ながら中々の得策だと思ったが、心の靄が晴れた僕とは対照的に篠田さんは俯いてしまった。

「あの…それは所謂デートと言うものですよね。わ、私男の人とデートするのは初めてで、その…」

 そういえばそうだ。男と女が共に出かけるという行為はデートとしか呼びようがない。そこのことに気づいた途端、顔が赤くなっていくのが分かった。

「そ、そうですよね。すみません、変なことを言って。その、今言ったことは忘れてください」

 よく見ると篠田さんも顔を赤くしている。思えば僕たちが会ったのは今日でまだ二回目だ。少し強引すぎる提案だったか。僕の不用意な発言のせいで会話が止まってしまった。この気まずい空気を取り繕うため再び会話を試みようとするが、気の利いた話題が浮かばい。この状況を打破しようと思案を巡らせていた時、彼女の小さい声が均衡を崩した。

「すみません、少し恥ずかしくなってしまって。良ければ、この話の続きは私の部屋でしませんか」

 ここでは恥ずかしいのに、自分の部屋だと大丈夫なのだろうか。いや、そもそも僕を部屋に入れることに抵抗はないのだろうか。

「え、僕を部屋に入れて大丈夫なのですか」

 しまった。この聞き方では、まるで僕がやましいことを考えていたように聞こえてしまう。しかし僕の心配は稀有だったようで、篠田さんは小さくはい、大丈夫ですと答えた。

「では、行きましょうか」

 どうやら篠田さんの部屋に行くことが決定したみたいだ。こうなってしまっては断ることもできない。僕も覚悟を決めて立ち上がる。僕は当然ながら部屋の場所を知らないので、篠田さんに案内されながら、彼女の手を引く。そういえばあまりに普通に会話していたので、彼女が全盲だったことをすっかり忘れていた。

 篠田さんの部屋は緩やかな階段を上った先の突き当りにあった。彼女の部屋は綺麗に整理されており、彼女の性格がよく表れていた。しかし僕が女性の部屋ということ以上に興味をひかれたのは、部屋に置かれている多くの楽器だった。

「この楽器は?」

「それは私の仕事道具です。私は作曲家として活動しています」

 作曲家。予想外の答えに返事に詰まってしまう。

「そ、そうなんですか。音楽が好きなんですね」

 なんとか差支えのないありきたりな返答をすると、篠田さんはなぜか寂しそうな表情になった。

「私には、音楽しか無かったから。私は小さいころから目の病気で、あまり目が見えなくて。こんな私にも出来ることは音楽くらいだったから」

 途端に空気が重くなった気がした。まさか楽器の話題からこんな空気になるとは思わなかった。何か言おうとしても言葉が出てこない。

「す、すいません、変な空気にしてしまって。私のことはお気になさらないでください」

 篠田さんは取り繕う様に笑った。しかしその笑顔がやせ我慢であることは僕でも分かった。篠田さんの意図を汲み取り、本題に入ることにする。

「ところで、この部屋で話したいことって何ですか」

 僕の言葉で篠田さんもそのことを思い出したのか、はっとしたように話し出した。

「そうでした。あの、デートの件ですが。ひとつ裕太さんにお願いがあります」

 お願い?何だろう。篠田さんはリビングの時と同じように顔を赤らめた。

「先程も言いましたが、男の人とお出かけしたことがなくて。でも裕太さんとならいいかなって思っていまして。それで、その…もしよろしければ私とお友達になっていただけませんか」

 そう言うと、篠田さんは一世一代の告白を終えたように座り込んだ。

友達か。そのフレーズを聞いたのはいつ以来だっただろうか。僕には友人と呼べる人間はいない。僕は一人でいる方が好きだからだ。しかし、篠田さんと友達になれるのならそれも悪くない

「実は僕も女性の友達は初めてで。僕なんかでよければこれからよろしくお願いします」

「あ、ありがとうございます。嬉しいです」

 それを聞いた篠田さんは満面の笑みを浮かべた。


 あの後買い物の予定について相談したが、お互い明日の予定が空いていたので急遽翌日に決定した。会話がひと段落したところで、ふと時計を見ると四時を回っていたためそろそろお暇することにした。帰りもお母さんが送迎してくれたが、篠田さんは車には乗らなかったので玄関で別れの挨拶をした。

 帰りの車では何故か助手席に座ることになったため、行き以上に気まずかった。駅が近づいてきたところでお母さんが話しかけてきた。

「咲良さん」

「は、はい」

 不意に名前を呼ばれ、声が少し裏返ってしまった。かなり恥ずかしかったが、お母さんはそのことを気にもせず続けた。

「琴音は目が悪いこともあって、昔から人見知りで。お友達もあまりいないみたいです。特に男の子が遊びにやってきたことは一度もありません」

 お母さんの言葉を静かに咀嚼する。篠田さんも同じことを言っていたな。

「咲良さん、どうか琴音と仲良くしてあげてください」

「はい、もちろんです」

 今度は落ち着いた声で返事をすることができた。

 翌日、僕は再び篠田さんの最寄り駅に来ていた。ここで琴音さんと合流し、近くに百貨店がある駅に向かう予定だ。今日の目的は篠田さんからプレゼントを買ってもらうことだが、思えば今特に欲しいものはなかった。そこで百貨店なら何か適当なものがあるだろうと考え、今日の予定を立てた。それにしても、休日の二日とも外出したのはいつ以来だろうか。

 僕が駅の入り口に到着してから五分ほどすると、昨日乗った青い車がやってきた。今日は抵抗なくその車に近づいていくと、僕が声をかける前に車から篠田さんが降りてきた。

「こんにちは」

 僕の声を聞いた篠田さんは、こちらを向き挨拶をした。

「ああ、裕太さん。こんにちは」

 突然話しかけたのに、篠田さんはまるで目が見えているかのように躊躇いなくこちらを向いたので少し驚いた。疑問に思った事を素直に聞く。

「よく僕の場所が分かりましたね」

「ふふっ、私耳はいいんですよ」

 篠田さんはそう言って少し自慢げに笑った。そんなやり取りをしていると、運転席のガラスが下がり篠田さんのお母さんが顔を出した。

「今日は琴音をよろしくお願いしますね」

 お母さんはそれだけ言うと、再び車を走らせた。車は近くの信号を左折して、建物の陰に隠れていった。僕はそれを見届けると、篠田さんの左手をそっと握り改札へ向かおうとした。

「では、行きましょうか」

 しかし、篠田さんは僕を引き留めるように喋った。

「あの、こんな話し方しか出来ない私がお願いするのも筋違いなのですが…私たちはお友達なので、せめて裕太さんだけでも砕けた話し方をしていただけると嬉しいです」

 確かに敬語は他人行儀な感じがするな。篠田さんが敬語だったから僕もつい敬語で話していたけど、慣れない言葉を使うことが如何に神経を擦り減らすことなのか身に染みて実感した。敬語縛りから解放された所で、改めてデートを始める。

「わかった。それじゃあ、行こうか。篠田さん」

 その言葉を聞いた篠田さんは少し笑いながらようやっと歩き出した。

 駅のホームにたどり着いた時、タイミング良く電車がやってきた。昼間ということもあって席は空いていたが、目的の駅には十分ほどで着くため座らなかった。下手に屈伸運動をするくらいなら、立ちっぱなしの方が楽な気がしたからだ。

 百貨店の二階と駅の出口は歩道橋で繋がっていた。二階は服売り場がメインとなっていた。僕はお洒落には無頓着なので、衣服類には興味がない。それに販売されている衣服は高価なものが多く、こんなものを買ってもらうのは申し訳なってくる。

 何か適当なものはないかと思い、店内を徘徊していると装飾品売り場が見えた。装飾品ならプレゼントとして遜色はないし、安価なものもある。飾られてある様々な種類の装飾品を眺めていると、三日月のペンダントたちに目が留まった。別に三日月に何か思い入れがある訳ではないが、三日月をモチーフにした装飾品は他に見当たらなかったので少し特別に感じた。値段もお手ごろだ。

「決めたよ、篠田さん。三日月のペンダントを買うことにするよ」

 それを聞いた篠田さんは嬉しそうに笑った。

 買い物を終えた僕たちは百貨店を後にした。帰りの電車が来るまで少し時間があるので、今はホームのベンチに並んで座っている。篠田さんは少し疲れた様子だった。やはり人が多いところでは神経を使うのだろうか。篠田さんのことを考えながら少し会話をしていると電車がやってきた。僕は駅の出口まで見送ろうとも考えていたが、篠田さんはホームまでで十分です、と言ってくれた。どうやら僕の手間を察してくれたらしい。ならば渡すチャンスはここしかない。

「篠田さん、これを」

 僕は琴音さんの左手に手の平サイズの箱を握らせた。

「これは?」

「ペンダントだよ。実はもう一つ同じものを買っていたんだ。」

 篠田さんは訳が分からないといった様にきょとんとしている。

「どういうことですか?」

「篠田さんと出会うまで、僕には友人と呼べる人間はいなかった。だから、これは僕の初めての友人になってくれたお礼なんだ。このペンダントは僕たちが友人になった記念にと思って。ど、どうかな」

 我ながらあまりに大胆な告白だったため、恥ずかしさから急に身体が熱くなってきた。篠田さんの返事にやきもきしていると、彼女は手渡した箱を強く握り答えた。

「ありがとうございます。とても嬉しいです。これは一生大切にしますね」

 篠田さんの返事に胸をなでおろしている時、電車が駅に突入して行くところだった。やがて電車は止まりドアが開く。

「ではここでお別れですね。今日はありがとうございました。また遊びに来てくださいね」

 篠田さんはそれだけ言うと、電車を降りて前と同じように丁寧なお辞儀をした。


 その日を境に、僕は毎週の休日に篠田さんの家にお邪魔するようになった。ただその日以来、篠田さんと外出することはなかった。篠田さんがあまり外出を好まない事を鑑み、家で会話をして過ごした。話題は主に音楽に関することだった。一口に音楽と言っても、例えば流行の楽曲やクラシック音楽の歴史、果てには音楽が生物に与える影響等々本当に様々な話をした。僕は音楽自体は好きだが、語れるような知識がないため基本的に聞き手に回ることが多かった。それでも篠田さんの話はいくら聞いても飽きなかった。僕にも理解できるほどわかりやすかったというのもあるが、一番の理由は篠田さんがとても楽しそうに話していたからだ。僕はそんな彼女と過ごす時間が好きだった。そしてその時間は、僕の中で最も大切な時間になっていた。気が付けば、篠田さんと出会ってから二か月が経とうとしていた。

 その休日は大学から出されたレポートの作成に追われていた。一日半を費やし何とかレポートを完成させたが、時計は午後三時を回っていた。今日も遊びに行く約束をしていたので急いで支度をする。自宅から篠田さんの家まで三十分ほどかかる。今から出発すれば四時前には着けるだろう。

 電車を乗り継ぎ、二十分ほどで篠田さんの最寄り駅に到着する。ここから篠田さんの家まで徒歩で二十分ほどかかる。少し遠いが毎回迎えに来てもらうのも悪いので、いつも徒歩で向かうことにしている。それにこれくらいの散歩はいい運動になる。

 少し急ぎ足で向かったため、到着した時には息が少し切れていた。この程度で息切れとは、運動不足が祟ったみたいだ。家の近くで呼吸を整えていると、篠田さんの家から女性が出てきた。僕と年齢が近く見えるので二十台前後だろう。ということは篠田さんの友人である可能性が高い。その女性は派手な服装ではないが、お洒落に力を入れていることくらいは僕にも解った。正に、年頃の女性といった感じだ。だからこそ篠田さんと交友があることに驚いた。女性がこちらに歩いてきたので声をかけることにした。

「あの、すみません」

「ん、なーに」

 女性は軽い返事をした。いきなり声をかけられても、ここまでフランクな対応ができることに素直に感心する。慣れているのだろうか。

「あの、今そこの家から出てきたところを見たのですが、貴女は篠田琴音さんのご友人ですか」

「うん、琴音はあたしの友達だよ。高田凛子っていうんだ。キミは?」

「僕も篠田さんの友達です。咲良裕太といいます」

 僕も名前を聞いた高田さんは満開の笑みを浮かべた。

「あっ、じゃあキミが琴音の彼氏なんだ」

 彼っ…予想だにしなかった言葉を投げつけられ絶句する。

「か、彼氏って、何を言ってるんですか」

「だって、琴音がキミの話をするときすごく嬉しそうだったから。てっきり彼氏だと思って」

「ち、違いますよ。僕はただの友達です。」

 高田さんはつまらなさそうに、なぁんだと呟いた。それにしても彼氏とは、今まで意識したこともなかった。一度意識してしまったら、この後どんな顔をして篠田さんと話せばいいのか。なんとか心を落ち着かせ本題に入る。

「ところで、二人はどういう関係なんですか」

「あたしたちは音楽学校の同級生なんだ。そこで初めて会って仲良くなったんだ」

 音楽学校か。二人が出会ったきっかけは分かったが、同時に新しい疑問が生まれた。

「二人はどうして仲良くなったんですか」

「んー、普通にあたしから琴音に話しかけていたら、気が付いた時には仲良くなっていたんだよね。あたし学校に入るまで、音楽の才能がそれなりにあると思ってたんだよね。でも学校で琴音と出会って、そんな自信粉々に打ち砕かれたよ。本当の天才は琴音のことを言うんだって思った。それが琴音と話すきっかけだったかな。今思うと、天才にはどんな景色が見えているのか知りたかったのかも。でも琴音と話して、この子はただ純粋に音楽を愛していることが解ったの。それで私が琴音に惚れちゃった、みたいな」

 高田さんは冗談交じりに笑った。しかしその笑顔に屈託はなかった。その笑顔を見て、二人が仲良くなれた理由が何となくわかった。自分の信じた才能や努力が誰かに否定された時、その相手を純粋に認められる人間が一体どれくらいいるのだろうか。天才とはいつまでも純粋でいられる人を言うのだと思った。そういう意味では高田さんも天才だ。

「じゃあ、今度はキミと琴音の馴初めを聞こうか。私だけだと不公平じゃない」

 高田さんは悪戯っぽく笑った。確かに僕も話さないと不公平だ。

「僕が篠田さんと初めて会ったのは二か月前でした。駅で彼女が男に絡まれていたところを仲裁して、それから交友が始まりました。」

「白馬の王子様じゃない。琴音いいなー、あたしにもそんな出会いないかなー」

 僕は白馬を飼ってないし王子でもない。それに高田さんの頭の中では既に美談化されているみたいだが、それほど運命的な出会いでもないと思う。ひとしきり妄想に浸った後、高田さんは少し真面目なトーンで話を切り出した。

「ところで、これから琴音に会いに行くんだよね」

「はい」

「じゃあ、あたしからお願いがあるんだけど。実はあたし、今は県外の大学に通っているの。今日は音楽学校を卒業してから初めて遊びに来たんだ。それであたしは大学生活のことについて話したんだ。その話を聞いていた琴音はずっと笑っていたんだけど、無理して笑顔を作っているような気がして。そのことを聞いてほしいの」

 高田さんはどこまでも友達思いだった。僕にもこんな友人がいればよかったと少し思う。

「分かりました。これからも篠田さんをよろしくお願いします」

「うん。彼氏君も琴音のこと、よろしくね。じゃあ電車の時間があるから。バイバイ」

 高田さんはそう言って駅に向かっていった。結局、僕は最後まで彼氏ということになってしまった。

 

 インターホンを押すと、篠田さんのお母さんが出迎えてくれた。

「ああ、咲良さん。こんにちは」

「こんにちは」

 いつものやり取りを行う。この二か月間、毎週お邪魔しているのでお母さんともすっかり仲良くなってしまった。

「どうぞお上がりください。琴音なら自室にいます。」

 それを聞き、お母さんに会釈をして二階に向かう。篠田さんは基本的に自室にいるため、僕が彼女の部屋に行く行為も当たり前になっている。篠田さんの部屋の前に着き、ドアをノックする。

「こんにちは、篠田さん。咲良裕太です」

 暫くの沈黙の後、ドアが開く。

「こんにちは、裕太さん。どうぞ入ってください」

 促されるまま部屋に入る。

「今日は遅くなってごめん」

「いえ、今日も来てくださって嬉しいです」

 そう言って篠田さんは笑った。色々話したいことはあるが、あまり時間もないので単刀直入に話す。

「実はさっき高田さんと話したんだ。親友らしいね」

「はい、凛子は私の一番の親友です」

 篠田さんが人を呼び捨てる所を始めて聞いた。本当に仲がいいのだろう。

「さっきまで高田さんと会ってたんだよね」

「はい、凛子とは半年ぶりに会いました。お互いの近況報告をしていました。」

「それで、高田さんが自分の大学生活を話した時、篠田さんが無理して笑っているみたいだって言ってたんだけど」

 篠田さんの顔から笑顔がすうっと消えた。そしてもの悲しげな表情でとつとつと話し始めた。

「やっぱり、凛子は鋭いですね」

「よかったら、聞かせてもらえる?」

「私、凛子とは今まで音楽の話しかしてきませんでした。だから、凛子も私と同じだと思っていたんです。でも、凛子は大学生活で音楽以外にも様々な事を学んでいて、色々なことを体験していて。私には出来ないことが凛子には出来る。そう思ったとき、凛子は私とは違うってことに気付いたんです。そうしたら、凛子が羨ましくなって、悔しくなって…」

 気が付くと篠田さんは涙を流していた。

「私は凛子の友達なのに、その友達に嫉妬して…目が見えない自分が嫌になって…」

 そこで篠田さんの言葉は途絶えた。部屋には鼻をすする音だけが響いた。

「そのことを高田さんには」

 篠田さんは少し落ち着いた後、首を横に振った。

「そっか、じゃあ篠田さんはまだ罪を犯してないんだね」

「罪?」

 僕から予想外の言葉が出てきたためか、篠田さんはさっきまで泣いていたことを忘れたように尋ねた。

「人間、生きていれば必ず他人に嫉妬するし自分が嫌になることもある。だからそれ自体は罪じゃない。でもそれを相手に言ってしまうと罪になるんだ」

「どうしてですか」

「口に出さなければ、それらの感情を自分のこととして捉えられる。でも言葉というのは不思議なもので、どんどん転移していくんだ。それらの感情を相手に伝えてしまうと、それを相手の所為にしてしまう。即ち、それは自分から逃げることになるんだ」

 篠田さんはただ黙って聞いていた。もう涙は止まっていた。

「考える葦という言葉を知ってる?人間は最も弱い生物だけど、唯一考えることができる生物であるという意味なんだ。逆にいえば、思考をしないことが人間にとって最大の罪なんだ。人間は弱い。他人と比較することでしか自己を評価できないほど弱い生物なんだ。だから、その弱さを克服するためには自分の感情と向き合うしかない。自分から逃げるということは、思考を停止することと同じだ。だから、自分の感情を人の所為にするという行為は、人間にとって最大の罪なんだ。と思う」

 自分の考えを一通り述べたら、無性に恥ずかしくなってきた。今まで自分の考えをこんなに話したことは無かった。篠田さんは僕の言葉を反芻するように目を閉じている。そこまで真剣に聞かれると余計に恥ずかしい。恥ずかしさを紛らわすように、総括に入る。

「だ、だから篠田さんは大丈夫です。それに、篠田さんは自分と高田さんが違うと言っていたけど、僕から見れば二人は似ていますよ。なので…篠田さんはもう大丈夫です。だから、この話はもう終わりにしましょう」

「はい、わかりました」

 そう言って篠田さんは涙の跡を拭いながらいつものように笑った。しかし、その笑顔は今までのどの笑顔よりも輝いて見えた。


 あの一件以降、篠田さんは外の世界に積極的になった。休日は篠田さん自ら外出を希望した。音楽の話題以外にも様々な事を話すようになった。また作曲家としての活動にも変化が現れた。SNSを始めたらしく、自分が手掛けた楽曲を積極的にアピールするようになった。初めはSNSが出来るのか心配だったが、音声読み上げソフトなるものがあるので大丈夫らしい。そして全盲の美人作曲家という人物像はネットで一躍話題になり、彼女が手掛けた楽曲も多くの人に注目されるようになった。

 今日は篠田さんが前から行きたがっていた遊園地に遊びに来ている。遊園地に来るのは幼少期以来らしく、僕よりもはしゃいでいた。様々なアトラクションに乗ったため、よりにもよって篠田さんを誘導する僕が先に音を上げるという失態を犯してしまった。なんとか篠田さんが乗りたがっていたアトラクションを制覇したころには、夕日が顔を照らしていた。時間的に乗れるアトラクションはあと一つだろう。

「最後に何に乗ろうか」

「それでは、観覧車に乗りましょう」

 確かに観覧車は遊園地の締めとしては定番だが、篠田さんが楽しめるのだろうか。まあ、彼女がそれを望むならこちらとしても断る理由はない。

「じゃあ行こう」

 観覧車乗り場は結構空いていたので、すぐにゴンドラに乗り込むことができた。僕は篠田さんの隣に座ることにした。

「今日はとても楽しかったです。ありがとうございました」

 全体の四分の一に達したところで篠田さんがお礼を言ってきた。

「楽しめたのなら良かったよ」

「はい」

 篠田さんの笑顔を見た後、再び上昇していく景色に目を移した。

「あの」

 不意に話しかけられた。篠田さんは神妙な顔で話し始めた。

「いつか裕太さんに話したいと思っていたことがあります。今がその機会だと思うので聞いていただけますか」

「うん」

「あの日のことについて、改めてお礼を申します。ありがとうございました」

 あの日とは篠田さんが変わるきっかけになった日のことだろう。

「私は裕太さんの言葉で自分と向き合うことができました。今まで私は目が見えないことに対する劣等感から、自分の世界を狭めていました。でも今は目の見えない私だからこそ、私だけに見える世界があることに気が付きました。もし裕太さんと出会っていなかったら、私は今も自分の殻に閉じこもっていたと思います。私、裕太さんと出会えてよかったです。」

「僕は特に何もしていないよ。篠田さんが変わろうと努力からだよ」

「ふふっ、そう言うと思っていました」

 篠田さんはそう茶化すが本当に何もしていない。僕は自分の考えを話しただけだ。篠田さんは楽しそうに笑っていた。やがて篠田さんは瞼を開き、まるで目が見えているかのように僕の顔を捉えて話した。

「あの、裕太さん。一つお願いがあります。これからは私のことを名前で呼んでください。私だけだと不公平です。」

 その意味を理解するのに時間はかからなかった。琴音さんも覚悟を決めたように、目を閉じて顔を上げた。

「じゃあ、するよ。琴音さん」

 僕たちが友達以上の関係になった瞬間だった。

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