こんな異世界に用はない
「ようこそいらしてくれた、勇者殿。突然のことで戸惑っているとは思うが、貴殿に頼みがあってこちらの世界に喚ばさせてもらった」
高い天井、壁の繊細な装飾、やたら広い部屋。
気がついたとき、自分の周りに広がっていた光景はそんなものだった。
「実は、今この世界は未曾有の窮地に陥っておる。彼の大魔王、ウォマイダが目覚めてしまい配下の魔物どもが次々に各国に攻め入り始めたのじゃ」
ちょうど目線の先で、何段か高い位置にある豪奢な椅子に座った、これまた綺羅びやかな衣装をきたおっさんが喋っている。正直なところ、内容はあまり頭には入ってこなかった。
「元々、この辺りの国々は領土を巡り各々が戦力を削りあう日々。そんな中で魔物の大群が押し寄せてきては……恥ずかしい話、魔物どもの勢いを殺すのが精一杯でのう」
よく見ると、部屋にはおっさん以外にも大勢の人がいる。全員似たような模様の、民族衣装のような服を着ていた。
「そこで、我々は違う世界の、この世界を救ってくれるような力の持ち主を探しておった。そして選ばれたのが……貴殿じゃ」
右から左へと流れていく話は、一応断片的に耳に入ってくる。でも、全く興味が湧かなかった。
「急ぎで喚んでしまったため、残念ながら貴殿を元の世界に返す方法はない。しかし、貴殿の生活は補償するし、可能な限り望みも聴こう」
ピクッ、と自分の体が跳ねたのがわかった。
一瞬の深い絶望ののち、自分でも驚くほどすぐに気持ちは凪いだ。
「下世話なことを言うが、具体的には……金、地位、望むなら女も、貴殿の希望があるならば用意させよう」
僅かな情報から、自分の中である二つの重要なことがわかった。
「あまりにも失礼なことを言っているのはわかっておる。しかし勇者殿、我々には時間がないのじゃ。どうか、力を貸してくれ」
不思議なくらい穏やかな気持ちの中、俺は自分がするべきことを自然と理解することができた。
「貴殿の手中にある聖剣、ホーリーソードこそ勇者の証。大魔王すらも滅せられる大きな力を秘めた我が国の宝じゃ」
やや呆とする中で、俺の手中にはちょうど良く大きな刃物があった。
「……勇者殿?どうなされたか?」
鋭さも重さも申し分ない。洗練された見た目のそれは、持っていると不思議と体に力が湧いてくる。
「……いきなりのことで混乱なさっておるのか。無理もない。今、部屋を用意させよう。今晩はゆっくりと休んでくれ」
手元のそれは、初めて見たとは思えないほど手に馴染み、これならば俺のやろうとしていることも充分に果たせるな、という確信を抱いた。
「ゆ、勇者殿!?何を……!?」
俺は迷うことなく、その刃物を、
「勇者殿!?まさかお主……やめるのじゃ!!」
自分の喉に突き立てた。
「だ、誰か医者を!医者を呼べ!!急げ、早くせんか!!」
俺が今いる世界には、大切な大切な、それこそ世界で一番大好きな恋人がいないのだ。
そして、俺があいつに会う方法もない。
だったら、
俺が呼吸をする理由なんてない。
「……あ、目が覚めた?」
蛍光灯の灯る天井、無機質な白い壁、カーテンで仕切られた空間。
気がついたとき、自分の周りに広がっていた光景はそんなものだった。
「もー、引かれたってきいたから焦って来たら、引かれたんじゃなくて事故現場の近くで転けて気絶したんだって?何ともないみたいだから、思わず笑っちゃったじゃない」
ちょうど目線の先で、パイプ椅子に座った、俺の恋人が喋っている。相変わらずの鈴のような佳い声は、俺の状況を教えてくれていた。
よく見ると、部屋には俺と彼女以外にも何人かの人がいる。全員似たように簡素な、病院で貸し出されるパジャマのような服を着ていた。
「……って、呆けちゃってるけど大丈夫?おーい?」
目の前で、俺の大事な恋人が俺の顔を覗きこんでいる。どうやら俺は、気絶して病院に運ばれたらしく、彼女が来てくれたらしい。
「大丈夫?息苦しいとか、どこか痛いとかある?」
不安そうに問いかける彼女に、笑ってほしくて慌てて否定の言葉をかけた。
「心配かけて悪いな……息苦しくはねえし、体も大丈夫だ」
ほっとした表情を浮かべる彼女に、俺もほっとする。彼女が心配に胸を痛めることより、その分笑顔でいてくれるほうが何万倍も嬉しい。
「でも、喉がちょっと痛えかな」
「え、風邪?……君、寝相悪いからお布団剥いじゃったとか?」
「……かもな」
可笑しそうに笑う彼女に、俺の頬も自然と緩んだ。
ああ、俺は今日も、
彼女がいるから、呼吸ができる。