18.さよなら
18.さよなら
月曜日、また部活があって。
でもその日は、モモちゃんは来ていなかった。
菊池くんと顔を合わすのが少し怖かったけれど、菊池くんはいつもと同じようにに接してくれて、少し安心した。
菊池君に、返事はまだしていない。
正直、土曜日の翔ちゃんたちのことが気になって、このことを考えることができなかった。
もしかすると、それ自体が答えなのかもしれないけれど。
でも、まだ菊池くんに伝えることはできていなかった。
「あ」
ジャガイモをごしごしと洗って、手を拭こうとしたときに気がつく。
お手拭、教室に忘れた。
「ん、どしたの?」
隣でジャガイモの皮を向いていた友達が首をかしげる。
「お手拭、教室に忘れてきちゃった」
いいながらジャガイモをおけの中に戻す。
「あ、じゃあ私の使う?」
「いい、いい。この後も結構使うだろうし。ちょっと取りに行ってくる」
部長に断って、調理室を出る。
もうすぐ七月も終わりで、校内にはほとんど誰もいなくて。
私の廊下を歩く足音だけが、ぱたぱたと響く。
二階に上がって廊下を真っ直ぐ進む。
教室の前まで来て、ドアを開けようとしたとき、中に誰かいることに気がついた。
でもあまり気にせずに、がらりとドアを引く。
そして、窓際に軽くもたれて立っているその人が誰なのかわかった時、私は思わず足を止めた。
「中村・・・くん」
真昼間の白い光を背中に浴びて、翔ちゃんは優しく笑っていた。
「よう」
「どう、したの?誰か待ってるの?」
「うん」
翔ちゃんの目が、きゅっと細くなる。
「相模、待ってた」
優しいその笑顔は、あまりにも整っていて。
いつもの翔ちゃんじゃなくて。
「え・・・」
なんだか少し、怖かった。
足が、動かない。
翔ちゃんが、表情を崩さずにゆっくりと近づいてきて。
私の後ろのドアを、静かに閉めた。
「・・・中村くん?」
「相模、」
いきなり、腕をぎゅっと掴まれる。
まるで、菊池くんがしたときのように。
全く同じ場所で。
同じことを。
「菊池に告白されただろ」
そのときの翔ちゃんは、もう、笑っていなくて。
「こうやって腕掴まれてさ」
私の腕を掴む手に、力が入る。
「いた・・・!」
振りほどこうとするけど、全く離れない。
「相模、菊池のこと好きなの?」
その言葉に、またぎゅっと胸が痛くなる。
「そんなこと・・・!」
無いって言おうとしたけれど、そのときの翔ちゃんの表情があまりにも険しくて。
その言葉はのどに引っかかって、出てきてはくれなかった。
「ねえ、相模」
翔ちゃんが顔をすっと近づけてきて、
「最後にお願いがあるんだけど」
私の耳元で囁く。
「ヤラセろよ」
その言葉が聞こえた瞬間に、どん、と床に押し倒される。
「え、なに?!」
状況が飲み込めない。
今翔ちゃん、なんて?
――ヤラセろよ――
頭の中に、響く、翔ちゃんの低い声。
「え、いやだ!やめてよ、はなして!」
上に被さる翔ちゃんを押し返そうとしても、ビクともしない。
「中村くんにはモモちゃんがいるじゃない!」
「あんなの、ただの遊びに決まってんだろ」
その声はあまりにも冷たくて。
「やだやだ!中村くん!」
ぷつん。
ボタンが一つ外される。
「やめて!いやだよ!」
ぷつん。
怖い、怖いよ。
もちろん、その行為自体も。
だけど、私には分かってたから。
「中村くん!やめて!」
ぷつん。
この行為が終ってしまったら、もう本当に、前の楽しかったあの時には、戻ることができなくなるって。
私には、わかってたから。
ねえ、いやだよ。
そんなの嫌だよ。
翔ちゃん。
「翔ちゃん・・・!」
その声に、びくりと翔ちゃんの手が止まる。
「お願い・・・怖いの、翔ちゃん。お願い・・・」
もう涙でぐしゃぐしゃな私の顔を見て、苦しそうに眉間にしわをよせる。
「ごめん・・・もう、しないから」
言いながら、さっき外したボタンを留め直していく。
「だから、もう泣くなよ」
優しく私の涙を指で拭う翔ちゃん。
私が少し落ち着くと、すっと翔ちゃんは立ち上がった。
ゆっくりと歩いて行って、ドアの手前で立ち止まる。
「俺さ、父さんの仕事の関係で、明日神戸に引っ越すんだ」
え?
今、なんて?
ゆっくりと上半身を起こす。
翔ちゃんは外を向いたままで、顔が見えなかった。
「どういう、こと?私、何も知らな」
「お前のおばさんやおじさんに、お前には知らさないでほしいって、お願いしておいたから」
「そんなの!」
「明日俺があのマンションから出て行くまで、俺の前に現れないでほしい」
「え・・・?」
「見送りも、しなくていいから」
「何言って」
「お前の顔なんか、もう見たくないんだ」
翔ちゃん。
「さよならだよ、俺たち」
一瞬振り返った翔ちゃんの顔が、なんだかものすごく苦しそうで。
廊下を走っていく翔ちゃんの足音だけが、ただ響いていて。
追いかけることなんて、できなかった。
「相模先輩?」
「菊池くん・・・」
まるで入れ替わるようにして入ってきた菊池くんが、私の涙のあとに気がついて、慌てて走り寄ってきた。
「戻ってくるのがあまりにも遅かったから、少し心配になって。どうしたんですか?何かあったんですか?」
そう言って、優しく私の肩を支えてくれる。
でもね、ごめん。
ゆっくりと、菊池くんを押し返す。
「菊池くん・・・ごめんね・・・。私、やっぱり菊池くんの気持ちに応えられない」
菊池くんがかすかに息を吸うのがわかった。
「私、翔ちゃんが好きなの」
私にはもう、何も恐れるものなんて無いじゃない。
だって、翔ちゃん。
もう私たちは、元には戻れないんだから。