僕がここから出て行く理由
「ねぇ、いつまでそうやっているつもり?」と、彼女が気怠そうに尋ねてくる。
白いタンスと、白い丸机と、白いベッドが置かれている部屋。部屋の中は全体が白くて、窓の外からは弱い光が入って来ている。
「……」
ベッドの上に寝転がり、膝から下をベッドの縁からだらんとぶら下げて、僕は彼女のその質問の返答にはなり切らない、唸り声のような音を出す。しんと静まりかえった部屋の中の、白い天井にくっついている火災検知器の周りを、僕の視線がうろうろと、外敵を察知したオタマジャクシのように泳いでいる。
「……今さ、またこの前言ってたのと同じことになっちゃってて……どうにもならないみたいなんだ」
仰向けになった姿勢のまま、僕は単語と単語の間でゴロゴロと喉を鳴らしつつ、どうにか彼女に僕の思考を伝えることができるだけの言葉を発する。
「いや、そんなことは見れば分かるから」
僕よりも何倍も早く言葉を連ねて、彼女が呆れた調子でぴしゃっと言い返してくる。まるで僕が出した唸り声が空中にいつまでも漂い残っていて、羽虫のように飛び回っているのを、叩き落とそうとするように。
窓際の白い床の上に座り込んで、彼女はどんな顔をしながら僕にそう言ったのだろう。 火災検知器から目を離せないでいる僕は、彼女の声の調子をぐるぐると頭の中で何度も再生させながら、彼女のことを想像してみる。彼女は別に怒っているわけではないのだろうというところまで整理することができた辺りで、天井を映している僕の視界の中に、一匹の蜘蛛がそろそろと入って来る。そのせいで僕の、彼女に対する考察は、そこまでのところで止まってしまう。
「また『ネコが出て行った』んでしょ? 君の表現をそのまま使うなら」
停止した僕の思考の中に、彼女の声が聞こえてくる。
「……ええと……うん、そう。そういうことになるね」と、僕は呟く。
僕はようやく彼女の方に視線を向けることができるようになる。床に座った彼女の姿を視界に捉える。僕の視界の中に彼女と一緒に飛び込んできた窓の向こうの景色は、奥行きの無い灰色で埋め尽くされていて、どんよりとしている。ガラスには雨水が伝ってできた不規則な模様がいくつも浮かび上がっている。
「……日曜日の午後っていうのは、こうなりやすくて……雨の日とかだと特に」
「でもそれって、ただそうやってじっとしてても治らないんでしょう?」
僕が窓の外を見るともなしに見ている視線を追って、彼女も窓の外に目を向ける。そして僕が特に何を見ているというのでもないということを理解すると、彼女は僕の方へ視線を戻して、あの気怠そうな声音で、もう一度僕に尋ねてくる。
「ねぇ、いつまでそうやっているつもり?」
僕が(彼女と僕が)陥っているこの状態について、僕は自分の言葉で説明しなくてはならないのだろう。彼女のことと、僕のこと。説明と言っても、この二つのことはどちらも大した内容というのではないけれど。
まずは彼女のことについて。彼女と僕が知り合った頃の思い出について。
彼女とは学生時代に所属していたサークルで知り合った。新入生の入学式が終わり、学内サークルの勧誘活動が盛んになる時期になっても、僕が所属していたサークルは別段そこまで積極的に勧誘を行ってはいなかった。構内に何枚かのポスターと、部室の扉の前に「新入部員募集中」という貼り紙を貼るぐらいのことだけをして、時間のある部員が部室の中で待機して、誰か見知らぬ人たちがやって来るかもしれないという状況に向けて、それなり未満の準備を整えて臨んでいた。そして「それなり未満の準備を整えて、新入部員と思しき誰かがやって来るかもしれないのを待機して迎える」番が僕であった時に、彼女がたまたま部室を尋ねて来たのだ。細かな説明を加えるなら、僕が部室に一人で居た時に、彼女が彼女の女友達数人と一緒に、部室のドアをノックしたのだ。
女性と会話するというのが中学の頃から苦手になって、それをいつまでも引きずっているような僕であったから、当然初対面のその日はどうにも救いようのない空気が部室の中にはあったのではないかと思う。僕自身がそういうことを鮮明に覚えているという意味ではない。僕というような人間を、僕という価値観を持った別の視点から観察したときに、あの日のあの部室の中はきっと、そんな具合に居心地が悪かったんじゃないかなと想像してみたという意味で、である。
それまでの僕の人生の小さな経験則にこの世界が従うのであったとしたなら、彼女や彼女と一緒にやってきた彼女の女友達との接近はこの日がピークであり、そこからの僕と彼女たちとの距離感は、それぞれの居場所がはっきりしてくるに連れて遠くなって、僕は元居た場所に独りで居たことだろう。それが僕のそれまでの人生の小さな経験則だった。平々凡々、世は常に事も無し。それぞれの個人の人生を別々の神様が作るのだとしたら、僕の神様は大体そんな性格をしているのだろうと、そんな風に思っていた。
だから、たまたまサークルを訪れて来た彼女が、僕が所属している学部に新たに編入して来た同級生であったというのは、事なかれ主義の僕の創造神様にとっては、なかなか刺激の強い事件だったろうと思う。
同じ学部の編入生ということだったから、始めの頃は、サークル内で顔を合わせることがあるとその手の話題で無難に会話を成立させることが多かった。編入前はどこの学校に居たのかだとか、今日は講義をサボってしまおうとか、そのせいで積み上がった英語の論文の翻訳をどうにかしなくちゃならないだとか。
夏になるまではサークルの部室の中でそういうやりとりをすることがほとんどだったけれど、梅雨が終わって本格的な暑さがやって来ると、冷房の付いていない部室は快適な環境とは言えなくなった。だから夏を境にして、彼女は僕の借りているアパートを訪ねることが多くなった。
夏には急に食べたくなったからと、スイカの大玉を抱えて、彼女と彼女の友人達が突然僕の所へやって来た。
秋にはゼミで溜まったストレスを晴らすために、彼女と彼女の友人と僕との三人で登山に出かけた。
冬には特に行く当ても無いまま電車とバスを乗り継いで、寂れた渓谷を彼女と二人で散歩した。
そういう彼女を見ていると、僕はネコをよく連想した。彼女の仕草や性格がネコのようだというのではないのだと思う。そもそも僕はネコを飼ったことがないから、ネコがどういう仕草をしてどんな性格をしているのかなんて分からない。ただ彼女を見ていると、漠然としたイメージとしてネコを想像することがよくあったというだけのことだ。
だから僕が『ネコの居る部屋』について彼女に話そうと思ったのは、そんなに不自然なことではなかったのだと思う。
僕のことについて。僕と彼女の今について。僕の中には常に『一匹のネコが住んでいる誰も居ない部屋』という情景のイメージがあった。誰も居ない、必要最低限の家具だけが取り揃えられている部屋の中に、その部屋を観測している視点が存在しているイメージ。そこには視点があるだけで、僕という人物はそこには居ない。イメージの中のその部屋は全体が白くて、白いタンスと、白い丸机と、白いベッドと、窓がある。窓からは弱い光が入って来ているけれど、窓の外の情報は僕にはまったく分からない。外は晴れているのか? それとも雨が降っているのか? 街が広がっているのか? 田園風景が延々と続いているのか? そういった外のイメージを僕は一切持っていなかった。僕のそのイメージの中では、その白い部屋だけが世界のすべてだった。
その静止した世界の中で、唯一動的な存在として『一匹のネコ』のイメージがあった。『誰も居ない部屋』を観測している視点のイメージは動くことができないけれど、その『一匹のネコ』は自由に動き回ることできた。それどころか、『ネコ』は『誰も居ない部屋』の窓を開けて、僕が一切情報を持たないはずの外のイメージへと出て行くことさえできた。いつの頃からか、僕の中にはそのイメージが鮮明に焼き付いていて、そのまま今に至っている。
『部屋』のイメージを僕自身が自由に切り変えるということは僕にはできない。イメージの中の『ネコ』は、僕が意図したわけではないのに、あるときは白いタンスの上でじっとしているし、あるときは白いベッドの上で顔を洗っている。別のときには白い丸机の柱を爪で引っ掻いているし、そうでないときは窓際の白い床の上で丸くなっている。そして『窓』から外のイメージへ飛び出して、どこか僕の知らない場所へ行ってしまう。『ネコ』が部屋の中から居なくなってしまうと、僕はどうしようもなく寂しくなって、不安だとか焦りだとか所在の無さだとか、そういう色々な感情がグチャグチャに混ざり合ったヘドロのようなものの中に取り残されて、動くことができなくなってしまう。日曜日の午後の、特に雨が降っているような日にはそうなり易いのだ。今まさに、こうしているように。
「『ネコ』は何をしに部屋から出て行くんだろうね?」
彼女は窓際の白い床の上に、膝を抱え込んで身体を丸めて、じっと座っている。窓を伝う雨が残した水模様が、外から届いてくる弱い光に照らされて、床の上に不思議な形の影を作っている。その影模様を指でなぞりながら、彼女は『ネコ』のことについて何やら考えを巡らせている。
「……ええと……よく分からない……気づいたらいつも居なくなってるイメージしかないから」
僕は彼女の方に向けていた視線を、白い天井にくっついている火災検知器に戻して、『部屋』のイメージを頭の中に描きながらそう答える。さっき、僕の思考を遮った蜘蛛は、僕が目を離す前とまったく同じ場所でじっとしている。もしかしたら、僕が彼女の方を向いていた間に散々動き回って、どこかに巣の一つでも作って来たのかもしれないが、今はそんなことを考えても仕方ない。
「出て行く瞬間とか、そういうシーンは無いの?」と、窓のある方向から彼女の声が聞こえてくる。
「……そういうのも無いと思う。急に居なくなって、また急に戻ってくるんだよ。戻ってくるというか、気づいたら『部屋』の中に居るというか」
「ふーん……まぁ少なくとも、『ネコ』はその『部屋』がイヤだから外へ飛び出しているっていうわけではなさそうね。最後にはきちんと帰って来るわけだから」
「……うん、それは何よりだね。もしも外の方が居心地が良くて、『ネコ』がずっと戻って来なかったら、僕はいつまで経ってもこのグチャグチャから回復できないってことだから」
……。……。
部屋の中に沈黙が降りる。部屋の中が静止する。天井のあの蜘蛛は、相変わらず微動だにしない。それを見るとはなしに見ている僕の視点も動かない。僕の視界の外に存在しているはずの、弱い光の差し込む窓際の、白い床の上に座っている彼女の声も聞こえない。ガラスに不思議な水模様を作っている、雨の降る音も聞こえない。その水模様が落とす影が、彼女の周りを這いずり回る気配も感じられない。
何も動かない。何も聞こえない。何も感じない。何も。
それがどれぐらいか続いてから、彼女が座っているはずの方向からわずかに音が聞こえてくる。ほんのわずかな、座る姿勢をほんの少しだけ変える衣擦れの音。そのわずかな音が、この静止した世界の中で唯一の動的なものになる。そうして小さな世界はようやく機能を取り戻す。
「ねぇ、そのグチャグチャってどんな感じなの?」
そう言った彼女の声が、さっきより幾分かくぐもって聞こえてくる。
その声の響き方に違和感を感じて、僕は天井の蜘蛛と火災検知器に長い間固定されていた視線を、どうにか再び引き剥がして、彼女の居る窓際を視界に入れる。
窓際に座っている彼女は、抱え込んだ膝に頭を埋めて、さっきよりも更に丸く縮こまっている。ガラスに付いた雨の模様が、ネコのように身体を丸くした彼女の全身に神秘的な模様を浮かび上がらせる。
その光景は酷く現実味を欠いていて、僕は彼女の問いかけに答えることも忘れてしまう。
「……ねぇ、聞いてる?」
彼女の声が僕にそう問いかけてくる。
「……あぁ、うん、ごめん……聞いてる」
彼女が含まれているその幻想的な光景を、瞬きも忘れて視界に捉えながら、僕は長い時間をかけて、その短い生返事を返す。
「……どんな感じがするの?」
彼女が再びそう尋ねる。
「……ええと……一言では言い表せれないんだけど……」
「……いいよ、別に。一言じゃなくたって。何だっていいから」
ほんの少しだけ機嫌を悪くしたような口調で、俯いた彼女の頭越しに、彼女の声が聞こえてくる。
「……ええと……上手く言えないんだけど、とにかく、気持ちが悪いんだ。心臓の上の方……下の方かな?そういうところが、ザワザワする。虫が這ってるみたいに。それで、段々理由もよく分からない内に、不安な気持ちになってきて、立っていられなくなるんだ。……食欲も無くなるし、何もしたくなくなる。大体の場合は、そういう感覚が先にやって来て、そういうときに、あの『部屋』のイメージを思い浮かべると、決まってそこには、『ネコ』が居ないんだ。……『ネコ』が居ないなって先に気づいてから、気持ち悪くなることもあるから、この症状には『ネコ』が、関係してるんだと、思う」
「……それだけ?」
膝に頭を埋めた姿勢のままで、彼女の声が僕に話の続きを促す。
「……いや、それだけ、っていうわけじゃないよ。あとは……ええと……何かしなくちゃいけないっていう、漠然とした焦り、というか、そんな感じもある。何か分からないけれど、とにかく何かしなくちゃいけない、何処かへ行かなくちゃならない、っていう気持ちが強くなる。でも身体は、うまく動かなくて、それで余計に焦ってしまう。……どうしようもできなくなって、ベッドに倒れ込んだりしちゃうと、もう全然、動けなくなっちゃうんだ。こんなふうに」
「……ふーん……他にはどんな感じがするの?」
彼女の頭がほんのわずかに上を向いて、額に垂れ落ちた髪の隙間から、彼女の目が少しだけ見える。
「……他には……他には、ここに居てもいいのかなっていうか、帰りたいっていう気持ちが、強くなるかな。帰りたいって言っても、具体的に、どこへ帰りたいだとか、そういう目的地は、思いつかないんだけど。帰りたいっていう、衝動だけが、あるってことだと思う。……どこかへ行かなくちゃならないっていう気持ちとは、またちょっと感じが違うんだと思う。とにかく、ここではないどこかへっていう、印象ばかりが、どんどん膨れていく、というか……。うん、まぁ、大体そんな感じ。……そんな場所なんて、どこにも無いっていうのは、分かってるんだけど、気持ちが抑えられなくなって、押し潰されそうになる。そんな感じかな」
「……それで全部?」
「……うん、まぁ、僕が言い表せれるのは、これぐらい」
「……ほんとに?」
僕は口を噤む。それが喋り疲れたからなのか、口に出すべきことがもう無いからなのか、自分でもよく分からない。
彼女の居る窓際のガラスの向こうの世界は、奥行きを失った灰色で、その色以外の光景は、僕が今居る場所からは何も見えない。
白いタンスと、白い丸机があって、それから僕が横になっている白いベッド、それから彼女がネコのように丸くなって座り込んでいる白い床と、窓際と、そこから差し込んでくる弱い光。それが今の僕が認識できる世界のすべてである。
『……ほんとに?』
彼女の言葉が、僕の頭の、あの『部屋』のイメージの窓の外のどこかで木霊する。
「……あとは……」
その小さな世界の中に居て、彼女の残した木霊に向けて、僕は閉じた口をもう一度開く。
「……あとは……誰かに、傍に居て欲しいです。ここは寒くて、とても寂しい場所ですから」
「……そう」
窓際に座っていた彼女が立ち上がり、ベッドに横になったまま動けない僕のところまでやって来る。それから僕の上半身を持ち上げて、それまで僕が横になっていた場所に、僕の方に背中を向けて座り込む。僕は彼女の背中に自分の背中をもたせかけて、ようやく起き上がることができた。
「まぁ、あなたがそうやって起き上がれるように、背中ぐらいは貸してあげましょう」
背中から伝わってくる彼女の体温は、とても温かくて、『ネコ』が居なくなってしまった僕のグチャグチャの気持ちを、少しだけほっとさせてくれた。
「ありがとう」と僕は呟いた。
『ネコ』がどうして『部屋』から出て行ってしまうのか、それは僕には分からない。けれど、今度『ネコ』が帰ってきて、身体が動くようになったら、夏には彼女と一緒にスイカを食べよう。秋には彼女と一緒に登山へ出かけよう。冬には行く当ても無く電車とバスを乗り継いで、寂れた渓谷を彼女と一緒に散歩しよう。
それが、僕がここから出て行く理由だ。




