28 眠り姫(♂)の目覚め
いくら覚悟を決めたといっても恥ずかしいものは恥ずかしいし、それなりに勢いというものが大事だ。桜子は目を閉じて、半ば強引に唇を塞いだ。
初めは驚くほど冷たかった彼の唇が、少しずつ熱を持っていくのが解った。自分の熱を口移ししていくような感覚に、桜子は恥ずかしさで体が火照るのを感じる。
「んっ……」
唇の下で彼のくぐもった声が漏れる。押さえつけた手がびくんと震える。
目を閉じたまま桜子は考える。
詳しく聞くのを忘れたのだが、いつまでこうしていれば契約完了になるのだろうか。
あれ、大丈夫だよね、ちゃんとできたよね? とちったりしてないよね? 呪文間違えてないよね?
途端に不安になってくる。だが、全身が熱いのは、不安のせいだけではないはずだ。緊張で体が震える。柔らかく触れた唇の下で、がちっ、と歯が当たる音。ちょっとだけ鉄錆臭い味がした。
体が熱い。内側から何かが燃え上がるように。だが、それだけではない。内側から溢れる激しい熱とは別に、優しく温かいもので包まれている感覚。桜子はそっと目を開ける。
視界は桜色の光で満ちていた。
「なに、これ……?」
顔を上げて、自分の体を見遣る。全身を薄紅色の光が包んでいるのだ。
光はクロの体も包み込んでいる。澄んだ光が、纏わりつく闇を綺麗に洗い流していくように――クロの体から黒い影のようなものが抜け出していき、光に照らし出され霧消していくのが見えた。
やがて眩い光が収まって行くと、体の熱も鎮まって行く。
いったい、今のは?
上気した頬のままきょとんとしていると、地面に突き立ててあった猫戯らしの柄にクロの手が伸びた。
「!」
止める間もないままクロは刀を抜き、拘束のなくなった体を起こすなり、もう片方の手で桜子の胸ぐらを掴みあげる。
ぐいっと顔を引き寄せられ、桜子は息を呑む。
斬られるかも、と思ったのは一瞬のこと。クロは金色の瞳で桜子を睨みつけたのだ。
「! ク、」
「下手くそ」
「…………は?」
咄嗟に名前を呼ぼうとしたのを遮られ、何を言われたのかと思えば、意図不明の言葉。だが、罵倒であることは疑いようがない。桜子が眉を寄せると、クロはいつのまにか切れていた唇から滲む血を指先で乱暴に拭いながら、心底不機嫌そうに言い募る。
「キスが下手くそっつってんだよ。歯ぁ当たってたぞ、歯! ハジメテで大出血って完全にトラウマもんだろうが、ふざけんな」
「なッ」
ものすごく誤解を招くような発言についてはこの際聞かなかったことにするとしても、当然釈然としない桜子は顔を真っ赤にして反駁する。
「か、開口一番に文句ってどういうこと!? てか、そういうことは気づいてもあえて気づかないふりをするもんでしょうが、どうして積極的に女子に恥をかかせる方向なわけ!」
「キスのどさくさで人の唇噛み千切るような非常識な奴の羞恥心なんか知るか! 女子らしさが欠片も存在しないのは平坦な胸だけじゃ済まねえのかよ!」
「ここで人のコンプレックス抉るの!? 人のコンプレックスを容赦なく噛み千切るアホ猫が偉そうに説教するとはいい度胸じゃないのッ!」
勢いで叫ぶと同時に、思いっきりクロに頭突きを食らわせてやる。歯がぶつかったよりもずっと痛い衝撃に、クロが顔を顰めた。だが、文句を言われる前に、よろめき離れたクロを再び引き寄せ、しっかりと抱きしめて肩に顔を埋めた。腕の中でクロが怯んでいるのが解ったが、手の力は決して緩めなかった。
「この、馬鹿にゃんこッ! やっと、戻ってきた……」
怒ってなどいない。本当は、とても嬉しいのだ。涙が出るほど嬉しい。ようやく彼の言葉が聞けたのだから。きっと、今酷い顔をしている。恥ずかしくて見せられたものではないから、クロの体に押しつけて顔を隠す。その代わりクロの顔も見えないけれど、見なくても解るような気がした。
目まぐるしく変わる桜子の態度に少しだけ驚いて、だが、やがてそっと微笑んで――彼は囁くのだ。
「……ありがと、桜子。俺を、呼んでくれて」
クロの手が慈しむように頭を撫でてくれる。今までのどんな手よりも、優しい手だった。
――あなたが望むなら、何度でも呼んであげる。
降り注ぐ星の光と同じ色をした美しい瞳に、緋桜が捧げた名前――星影。
心の中でその名をそっと囁いて、桜子はいっそう彼に強くしがみつく。
「――まさか本当に呪いを解くとはね」
不機嫌全開の声にはっとして桜子は顔を上げる。涙を荒っぽく拭って緩んでいた顔を引き締めて立ち上がる。クロに右手を差し出すと、彼は素直にそれに掴まって立ち上がる。そうして二人で、残る最後の敵に向き直ってみれば、朽葉は不愉快そうな、それでいて、その不愉快を必死に押しとどめて余裕ぶろうとしているような、歪んだ表情をしていた。
「君の力で呪祓いができるとは、正直予想していなかったよ。いったいどんな手品を使ったのかな」
「手品のタネを親切に教えてくれる手品師がいるわけないでしょう」
「そりゃそうだね。じゃ、仕方がない、真相究明は諦めて、そのタネは大人しく墓場まで持って行ってもらうことにしよう」
朽葉が懐から幾枚かの紙を取り出す。笹の葉にでもくっついていれば短冊かと思うところだが、白い札にはやけに達筆な字で解読不能な言葉が並んでいる。呪符だ。
両手いっぱいに持ったそれを放ると、呪符はその先端から赤々とした炎を上げて盛大に燃え盛りながら桜子に向かって飛来した。当たれば熱いでは済まなそうだ。凶悪そうな火炎弾の襲来への対処を桜子は慌てて考え始める。が、それより先にクロが素早く前に立ち、無造作に刀を振り、燃え上がる呪符を一刀両断、斬り裂いた。
まとめてばっさり斬り落とされ、火の粉がひらひらと地面に落ちて鎮まっていく。敵に回すと最上級に厄介な黒猫は、やはり味方にすると頼もしい。朽葉は悔しげに苦笑する。
「まあ、そうだよね。正面きって攻撃したってお前が見過ごすわけないよね。困ったね、俺がぶちのめしたいのは忌々しい桜鬼であって、お前と戦う理由は特にないんだけど」
「俺にはあるぜ。よくも人の頭ん中をしっちゃかめっちゃかにかき回してくれたなくそったれ。血反吐吐きながら土下座するまでがフルコースだから覚悟しやがれ」
「威勢がいいね、クロ。だけど、お前にそんな力は残ってないだろ? 実のところ、お前だって立ってるのがやっとのはずだ」
桜子ははっとしてクロの背中を見遣る。決してそんな素振りを見せないが、確かに考えてみれば、散々蛇に戒められていた彼が弱っていないはずがないのだ。
「俺が桜鬼をぶちのめすまで、お前は大人しくそこでお寝んねしてろって」
強がっているだけで、本当は朽葉の言うとおり、立っているのがやっとだとすれば、朽葉を相手にするのは重荷のはずだ。
だが、桜子のそんな不安を一笑に付すように、クロは告げる。
「はっ、馬鹿言え。ご主人サマの前でこれ以上無様なところを見せられるかっての」
「そうかい。だったら仕方がない、物わかりの悪いバカ息子にも、ついでに灸を据えてやろう」
朽葉が前に進み出て、すっと右手を挙げる。その中に不穏な気配の妖力が収束し、「妖刀」となって現れる。
それは、鈴だった。小さな鈴がたくさんついた道具で、巫女が持つ神楽鈴に似ていた。
「妖刀『魔宵猫』」
しゃらん、と鈴が鳴る。その音は、小さな動作とは裏腹に部屋中に鮮明に響き渡る。波紋のように広がる澄んだ音が、しかしその綺麗な音色からは想像できないくらい、禍々しい気配と悪意を伴って耳朶にこびりつく。
その直後に、突如意識が朦朧とし始める。頭がくらくらする。脳裏で鈴の音がしゃん、しゃんと鳴り続け、思考を麻痺させていく。
『――眠れ』
頭の中に直接響いてくる声。
『闇に身を委ねて、呑みこまれてしまえばいい――俺に従え――』
あの時――墓地で朽葉の言葉に惑わされ、呪いに掛けられてしまった時と同じだ。心に絡みついて、暗示をかけようとする不吉な声。聞きたくない、と耳を塞ぐが、鈴の音が手をすり抜けてどこまでも追いかけてくる。だが、あの時と同じ轍は踏みたくない。もう、朽葉などに心を操られたくはない。自分の弱さのせいで朽葉に惑わされ、クロとすれ違い、彼を失ってしまうことになるのかと恐怖した苦い記憶が脳裏に焼き付いている。あんな思いはもうしたくない。
――私の心は、私のものだ。
朽葉の呪いに負けたくない。意志を強く持て。そう己に命じて、自我を苛む闇から逃れようと、唇を噛みしめる。ぷつりと唇が切れて血が滲む。途端に広がる血の味。ちょっと鉄錆臭い味。
その味は、ついさっき味わったのととてもよく似ていて、その時の記憶を鮮明に蘇らせた。
すなわち――口づけの記憶。
瞬間、闇など全部ぶっ飛んだ。
「……ッ、いやあああああッ!! こ、こ、こんなときにこんなこと思い出すとかどんだけ色ボケ桃色頭なのよ私ッッ!!」
だが、血の味と共にずるずると一緒に思い出されてしまう。唇の柔らかさも、艶っぽい声も、唇を離した瞬間に漏れた熱い吐息も、ついでに歯が当たった音も。
体中が火照り心臓がばくばくと跳ねる。ぺたりと地面に座り込んで、興奮気味の気持ちを鎮めようと深呼吸する。
そんなに強靭ではない桜子のハートが別の意味でピンチを迎えていた。
それを朽葉は呆気にとられて見下ろしていた。
「……これまた、いったいどんな手品だい? 俺の妖刀の音を聞いて、どうして平気なんだ?」
「この! どのへんが! 平気に見えるの!?」
おそらくキレる場所を間違えているだろうが、桜子はそう叫ばずにはいられなかったのである。顔を真っ赤にした桜子が、しかし内心でどんなことを考えているかなど知る由もない朽葉は、真面目くさった顔で言う。
「成程、これが桜鬼の浄めの力というわけか。俺の得意分野ではもう、君を弄ぶのは難しそうだ。けど……」
朽葉はすうっと視線を横にずらし、クロの姿を見て小さく微笑む。そして、愉快げに鈴を鳴らしながらクロに近づいた。
がくりとクロが片膝をついたのはその直後だった。
「クロ!」
まずい、と桜子は思う。紅月曰く「豆腐メンタル」であるところのクロは、精神攻撃の方面にはめっぽう弱いらしい。せっかく取り戻したところだというのに、また操られてしまうなど冗談ではない。
だが、桜子の体はへたりこんだまま動かない。先ほどクロに散々ぶっ飛ばされたダメージが溜まっているし、朽葉の術を受けたことで思いのほか消耗していたのだ。
クロの頭がゆらゆらと揺れる。朽葉が勝ち誇ったような笑みを浮かべて、駄目押しに鈴を鳴らすと、クロの体がぐらりと傾いだ。
朽葉に見下ろされながら、クロが崩れていく。
「こっち側においで、クロ」
「だめッ……!」
朽葉の誘い声と桜子の呼び声が重なる。
その直後、
「――いいのか?」
倒れてしまう直前に、だんっ、と片手をついて、クロが体を支えた。
「!」
朽葉が目を見開く。
だが、もう遅い。クロの右手は、強く得物を握り直す。彼がにやりと不敵に笑うのが解った。
「そこは俺の間合いだぞ」
妖刀・猫戯らしが閃き、朽葉を両断する。




