27 名前を呼んで
嫌な予感は、よく当たる。
高々と突き出された右手から天井に向かって、桜色の光の大砲が放たれた。その威力は、撃ち出した桜子の右手の方が強烈に痺れ、耳を劈く轟音が響き、地下空間がびりびりと震えるほどであった。
ラスボスである朽葉に向かって放たれるならまだしも、照準も定めないうちに勝手に上に向かって解放された砲撃は、当然誰にも当たらず、ただ天井を抉った。地下で天井をぶっ壊すなんて、非常識にもほどがあると自分でも思うが、放たれてしまったものは仕方がない。
砲撃に破壊された天井が、瓦礫となってがらがらと落ちてくる。このままでは下敷きになる、とさすがに悟ったらしく、クロが桜子を雑に放り投げ、自分は軽い跳躍で、瓦礫直撃コースから避難する。床に放り出された桜子は激しく咳き込みながら、這いつくばって天井の崩落から逃れた。
どんがらがっしゃんと派手な音を立てながら、瓦礫が積み上がる。徐に上を見上げて桜子はぎょっとする。ここが地下何階に当たる部分でどの程度の深度の場所なのかはいまいち把握できていないが、それなりに天井は頑丈で、それなりに地上まで距離があるだろう、と考えていた。だというのに、先程の砲撃のせいで天井は破壊されて、その軌跡にはぽっかりと穴が開いて、その先に夜空が覗いていたのだ。
――まさかの貫通!?
威力が桁外れすぎる。なぜ丙はこんな末恐ろしい武器を押しつけたのか、そしてなぜこんなに危険だということをあらかじめ教えておいてくれなかったのかと恨み言を言わずにはおれない。あやうく敵味方双方に無駄な被害が出るところである。しかし、ふと思い出すのはクロの言葉。
『あいつは基本的に説明が不親切だから使う時は気を付けた方がいい』
あと十秒早く思い出していればよかった、と桜子はげんなりする。
だが、意図せず拘束からは逃れることができた。結果オーライだ。もっとも、拘束を振りほどくためだけに最終兵器で天井貫通は、力の使いどころを確実に間違っている感があるが。
気づけば、朽葉が愉快そうに笑っていた。
「驚いたなぁ、まさかそんな奥の手を隠していたなんて。しかもかなり贅沢な使い方じゃないか。いいのかな、今度こそ万策尽きたんじゃないの?」
「余計な、お世話よっ」
息も絶え絶えに叫びながら、桜子はよろよろと立ち上がる。
そっと胸に手を当てる。心臓がばくばくと煩い。死ぬ五歩手前くらいまでは行った気分だ。あのままだったら確実に扼殺されてたな、と桜子は思う。
こちらは手持ちの武器を綺麗さっぱり使いつくし、既にぼろぼろ疲労困憊で満身創痍。対するクロは息一つ乱さない。そう簡単には行かないと思っていたが、まさかここまで歯が立たないとは。
この調子で、この先どうしろって言うんだ――絶望的な気分で桜子は空を仰ぐ。
薄汚れた天井が一部崩れて、その先には星空。
金色の光を瞬かせる星々がそこにあった。呑気に天体観測をしている場合ではないと解っていた。だが、なぜだか桜子は、星たちから目を離せなかった。
「きれい……」
掠れた声で、ぽつりと呟く。それが切欠だったのか、様々な記憶が目まぐるしく思い出されては重なり合っていった。
『あなたの瞳は、夜空に輝く星のよう』
『星の光が降り注ぎますように』
光。
光という言葉が、ずっと引っかかっている。
桜鬼は、願いを込めた。忌み嫌われるばかりだったクロの瞳に、祈りを捧げたのだ。
彼の金色は、罪ではなく、光の象徴であると謳ったのだ。
『名前は、願いを込めた大事なもの』
『ねえ、桜子、あなたなら、彼にどんな名前をあげる?』
鏡の問いかけが反芻される。
『光を意味するから』
そう言ったのは誰だったろう。
――私だ。
「星の光が降り注ぎますように……」
緋桜の言葉を、口に出して確かめる。
「……そう、か」
見えてきた希望を胸に密かに秘めて、桜子はクロを見据える。先ほどから毛ほども変化しない、虚ろな漆黒の瞳。その瞳を支配する闇を振り払うことができるなら、賭けに出る価値はある。
すなわち、契約。
彼の真名を知らないことが障害だった。
だが、今、桜子の中にはおそらく、彼の真名がある。
桜鬼なら、どんな祈りを込めるだろうか――それをなぞってみたら、自然に浮かび上がってきた答えが、胸の中に秘められている。
今なら契約を結べる。そして、クロを戒める呪いを祓うことができるはずだ。
「…………」
――と、そこまで考えてから桜子ははたと我に返る。冷静になって考える。
「え、いや、無理じゃない? え、だって、契約ってキスでしょ? こんな殺気バリバリで殺しにかかってくる奴とどう頑張ればキスできるの? 馬鹿じゃないの?」
ぶつぶつと独りごち、自分で自分を罵る。
「この超絶修羅場で呑気に契約するとか、どんだけ脳みそお花畑なわけ? 冷静になれよ私」
「独り言とは余裕だね」
朽葉の厭味ったらしい声にはっと顔を上げる。
すぐ目の前にクロの爪が迫っていた。
「ひぃぃっ!」
反射的に頭を抱えて身を屈めると、すぐ頭上を風切り音が去って行く。鋭い爪に煽られて、乱れた髪が何本か千切られた。
体を低くしたまま転がるようにクロの間合いから逃れ、距離を取って体勢を立て直す。ゆっくり作戦を考える暇もありゃしない。何をするにしても、まずはこのすばしこい黒猫の動きを封じるところから始めなければならない。だが、武器を使い切ったとなっては、今の桜子にできることはほぼ皆無である。
――いや、まだだ。
限界を訴えそうになる弱気な心を封じ込めて、桜子は拳を握る。大丈夫、まだ策が尽きたわけではない。
桜子は半妖だ。曲がりなりにも桜鬼の血を引いているのだから、ここぞというときくらい、妖術で戦って然るべきだろう。火事場の馬鹿力ということもあるし、窮地に立たされたときには割と無意識のうちに妖の力が開花することも何度かあった。今こそ、それを意識的にやる時だろう。
「いざ、奥の手その一……」
その二が存在しない最初で最後の奥の手のために、すうっと大きく息を吸い込み、一気に放つ。
「――いい加減大人しくしろっっ!!!!」
地下空間に反響する声。久霧の郷で使った強制スタンだ。渾身のハウリングに、朽葉は心底不愉快そうに耳を塞ぎ、クロの方は別段表情の変化もなく両手で耳を塞いでいる。
卒倒、とまではいかなくても、ほんの数秒動きが止まり、ついでに両手も塞がって無防備になってくれればいい。狙い通りの状況に、桜子はその隙を逃すまいと走り、意を決してクロの懐に飛び込み右脚を跳ね上げる。
狙うは顎先。一発で沈めるつもりで蹴り上げようとすると、その狙いをきっちり読んでいたように、そして先程のハウリングなどまったく効果がなかったように、クロは直撃の直前に桜子の脚を掴み受け止めた。
「なっ」
そんなタイミングで思い出したのは、そういえば久霧の郷で妖術を使った時は潮満草の力を借りた上に、それでもクロには通用しなかったのだという、一番大事な事実であった。
脚を掴んだままクロは力任せに桜子を振り回し、乱暴に放り投げる。再び全身を強かに床に打ちつける羽目になり、打ち身による鈍痛で低く唸る。
体中、あちこちが痛い。びりびりと痺れる体に鞭を打って何とか体を起こす。しかし、すぐには立てずにいると、桜子の頭上に影が落ちた。見上げると、無表情に立ちはだかり桜子を見下ろすクロの姿があった。
「終わりだよ、桜子ちゃん」
遠くで、朽葉の声が聞こえた。ぎらりと光る爪で、喉元を抉ろうと狙う貫手が放たれる。
本能的に右手が動く。だが、その手はクロの攻撃を受け止めるにも、最低限身を守るにも足りない、不十分なものだった。
痛みを予期して思わず目を瞑る。
しかし、予想に反して痛みは襲ってこない。その代わりに、キンッ、と金属がぶつかる甲高い音が響いた。
「え……?」
右手の中に、固い感触がある。
恐る恐る目を開けると、その手の中に信じられないものが握られている。
美しく輝く細身の刀。およそ女子高生には不釣り合いな銀色の刃を持つ太刀。何度も見た覚えのあるそれは、まさしく、
「妖刀、猫戯らし!」
クロの妖刀に相違なかった。
「なぜ、それを君が……?」
朽葉が僅かに上擦った声を上げていた。さすがにこれは、彼も予想していなかったのだろう。なにせ当の桜子本人だって予想していなかったのだ。なにがどうなったら、クロの刀を桜子が握る羽目になるのか。
右手がじん、と熱を帯びていた。
あの時――クロが宵音の呪いに倒れたあの時、縋るように握りしめた桜子の右手が、熱い。その手の中に現れた妖刀が、クロの爪を受け止めていた。
その時、桜子は、こんな状況にもかかわらず、笑みを漏らしていた。
――ああ……あなたを助けるはずなのに、こうやってあなたに守られてる。
情けないような気もするけど、少しだけ嬉しい。
先読みを得意とする抜け目のない黒猫は、やることはやっておいてくれたらしい。こうして、いざというときは自分の代わりに桜子を守れるようにと、己の分身ともいうべき妖刀を、桜子に託してあったのだ。
「……ありがと、クロ」
猫戯らしを両手でしっかりと握り直し、立ち上がりざまに斬り上げる。
無論、素人の桜子が振るった刃だ、クロは素早く身を仰け反らせて躱してみせる。そこまでは予想通り、むしろ、クロなら避けてくれると信じたからこそ、思い切り刃を振るったのだ。
避けられたものの、それでもその攻撃は予想外だったに違いない。僅かにバランスを崩した隙を、逃さない。
左手でクロの肩を引っ掴みながら、よろめき縺れた彼の脚を払う。くるりと横倒しになったクロを逃すまいと、服の裾を貫いて猫戯らしを地面に突き立て、縫い止める。その上でマウントを取ってしまえば、さしものクロもすぐには起き上がれない。
暴れかけるクロの両手を押さえつけ、桜子は契約の言の葉を紡いだ。
「我がしもべとなることを誓うならば、御魂に刻みし御名を証に捧げよ! 汝が名は――」
緋桜と彼の二人だけの秘密だった真名。それを、彼にだけ聞こえるように、耳元に唇を寄せて、そっと囁いた。
「――星影」
そして、彼の唇を塞いだ。




