26 半妖少女の戦い方
自分の足音だけが、狭い地下の通路に反響する。最初はもっとたくさんの足音がばたばたと響いていた。それが少しずつ減って、今は自分の足音が小さく響くだけになった。そのせいで、どうにも心細いような気分になる。
だが、どんなに不安になっても、立ち止まらない。前へと進む速度を緩めることはない。不安よりも、一刻も早く彼の元に辿り着きたいという気持ちの方が大きいことは疑いようがない。
さきほど別れてきた紅月の言葉が、不意に蘇る。
『嬢ちゃんを先に一人で行かせてもどうにもならない気が……』
まったくもってその通りだな、と桜子は自嘲気味に笑う。自分に力がないことは、自分が一番よく知っている。勝算があるわけではない。クロの呪いを解く方法があるわけでもないし、この先におそらく待ち受けているだろう朽葉を倒す策があるわけでもない。無謀にもほどがあるとは思う。
だが、「できない」理由をいくら並べてみたところで、桜子は、そんなことではもう、立ち止まれないのだ。
軽く息を切らしながら走って行くと、通路の先に少し開けた空間が広がり、その先に扉が見えた。手前のスペースには、テーブルや椅子など、申し訳程度の家具が置かれている。この地下アジトにおいて、初めて生活感のある部屋を見た。ちょっとしたリビングルームみたいなところだ。
それと扉で隔たれた奥の部屋もまた似たようなものだろうか、と考える。だが、すぐに違うと感じた。妖怪の世界に慣れたせいか、そして曲がりなりにも半妖であるせいか、桜子も妖気のようなものを感じないでもない。扉の向こうからは、どう考えても禍々しい気配を感じる。
この向こうに待ち受けているのは、間違いなく、生活感やら日常とはかけ離れた何かだ。敵か、罠か、そんなところだ。普段だったら絶対に避けて通りたいタイプの場所に違いない。
扉の前で立ち止まり、桜子は目を閉じる。その向こうにある何かを探るように、意識を集中させる。
「……そこに、いるんだね?」
禍々しい気配の中に、確かに感じる――クロの存在を。
桜子は拳を固める。
覚悟を決めるのだ。この先にどんな悪意が待ち受けていたとしても、必ずクロを救ってみせると、決意を固める。
「っしゃあ、ここまで来たら、突撃あるのみ!!」
己を鼓舞するように威勢よく叫び、桜子はこれまでのお約束に倣って、ブーツで扉を蹴破った。
思いのほか扉が固くて脚がじーんと痛んだ。
びりびりと痛む足を抱え悶絶し、なんとか叫びたくなるのを我慢して片足でぴょんぴょん跳ねながらという、なんとも情けない格好で突入することになってしまった。
「くくっ……ようやく来たと思ったら、なんだい、その格好は」
桜子の格好悪さを容赦なく嘲笑したのは、中で待ち構えていた朽葉だった。
部屋の中央で腕を組んで仁王立ちする朽葉は、にやにやと愉快そうに笑みを湛えている。
「待ちくたびれたよ、桜子ちゃん。てっきり怖気づいたかと思った」
「誰が怖気づくかっての」
「そうか、まあ、ここまで来てくれてよかったよ。こっちは歓迎の準備を整えてあるんだからさ」
朽葉が体をずらすと、その奥にいた彼の姿が露わになり、桜子は目を瞠る。
乱れた髪の中に覗く黒い耳、光を失くして虚ろに開かれた闇色の瞳。滲み出るのは禍々しい妖気。
そこにいたのはクロであって、クロではなかった。クロの体を、クロではない邪悪な意思が動かしている。体に絡みつき這いずり回る蛇の幻影が見えてくるような錯覚すら覚え、桜子は戦慄する。
「ク、ロ……」
声が思わず上擦った。呼んでも彼は反応を見せない。桜子の声は届いていないのだ。
「呼んでも無駄だよ。憑蛇に完全に乗っ取られているんだ。クロの意識は闇に呑まれてしまってる」
恐ろしいことを平然と口にする朽葉を睨みつけ、桜子は喚く。
「どうして、こんな酷いことをするの! ぶっちゃけ認めたくないけど、あんたはクロの父親じゃなかったの!? 普通自分の子どもにこんな仕打ちしないでしょ!」
「自分の子どもだからこそ、何をしたっていいって思わない? 父親の果たせなかった願いを代わりに叶えてくれるのは、子どもの義務だろ?」
「願い?」
「そう。俺と桜鬼との勝負は、ちゃんと決着しなかったからね。だから、勝負の決着は子どもたちの代に持ち越しってわけ」
「あんたのつまんない野望を子どもに押しつけるんじゃないわよ!」
「いや、勿論それだけの理由じゃないよ? まあ、一番の理由を言えば、君が目障りだからかな」
「何ですって?」
「よわっちい癖に、妖の世界のことに首突っ込んで、生温い桜鬼の幻想を布教してる。ほんとうざい。そんな奴がクロに付きまとってるのも気に入らない。クロに仲間なんて要らないんだ」
「子どもの友達にいちいちケチ付けるの? そんな過保護は幼稚園で卒業するもんでしょうが」
「俺の子育てが思いっきり間違いだらけなのは今に始まったことじゃないんでね。……さて、折角オトモダチが来てくれたんだ。遊んでやりな、クロ」
ぴくん、とクロの指先が動く。黒い瞳が桜子に向けられる。ただ命じられるままに、敵として桜子を捉える。
クロは蛇に操られている。そんな彼と戦いたくなどない。だが、だからといって、彼を傷つけることなく制圧するなど、桜子には難しい注文だ。
彼に掛けられた呪いを解く目途が立たない現状で、時間稼ぎがどこまで有効かは解らない。だが、向こうが仕掛けてくるなら、こちらも戦わざるを得ない。
手を抜いて抑えられる相手ではない。
大丈夫だ、と桜子は信じる。
――私が本気を出したところで、たかが知れている。
幸か不幸か、彼我の実力の差は明らかだ。ならば、こちらはせいぜい本気で戦う。
「自分で言ってて悲しくなるけど、私ごときにやられるような相手じゃないしね」
肩からかけたショルダーバッグ、その中に入れてきた諸々の武器をそっと確認し、桜子はクロを見据える。
「女子高生の必須アイテム――」
左手にそれを持って、桜子は走る。自分の体で得物を隠しながらクロに接近し、ぎりぎりのところでスイッチを入れた。
「その一、懐中電灯!」
大光量でおなじみの懐中電灯で、クロの顔を照らす。目を焼く白い光の目くらましで、狙い通りにクロが目を瞑る。その隙にさらに肉薄した桜子は、右手をバッグに突っ込んで次なる得物を取り出した。
「その二!!」
黒い手のひらサイズのそれは、スタンガンである。違法ではないとはいえ、うっかりしたら条例にひっかかりそうな得物を「女子高生の必須アイテム」にカウントする桜子の思考回路には疑問が残るものの、殺傷能力のないスタンガンは、できるかぎりクロを傷つけずに制圧するという目的にぴったり合ったものである。
目くらましのライトに怯んでいる間に、桜子はクロの懐に飛び込み、スタンガンを突き出す。
その右手を、クロが手刀でびしりと打つ。桜子の手からスタンガンが零れて明後日の方に吹っ飛んでいく。攻撃への対処の素早さ、そして正確さに、桜子は舌を巻く。目くらましは効いていたはずだ。現に、彼は今も目を閉じている。目を閉じたまま、気配だけで桜子の攻撃を防いだのだ。
戦闘などド素人の桜子だ、動きは単純だし気配も解りやすかっただろうが、それにしたって、ちゃんと隙を突いたつもりだったのにこのざまだ。クロは更に、流れるように手を返して左手の懐中電灯も吹き飛ばす。壁に叩きつけられたライトが壊れる派手な音を聞いて、桜子は舌打ちする。
「それなりにイイお値段だったのに、あっさり壊してくれたわね!」
言いながらバックステップで距離を取る。それを追いかけるように、足元の影から漆黒の蛇が這い出す。不気味に撓る蛇はたちまち桜子の脚に絡みついて動きを封じた。
宵音がクロを追い詰めた時と同じだ。蛇の拘束で逃げられないようにしたうえで、仕掛けてくる。
こんな趣味の悪い術は、本来のクロが使うものではない。クロを操る憑蛇は、クロの意思を封じながらもクロの能力を使いこなし、更に自身の邪悪な妖術も合わせて使うらしい。厄介な猫に厄介な蛇を掛け合わせれば、ものすごく厄介な敵になるという計算式である。
ぎらりと光る鉤爪が振り下ろされる。桜子はできる限り身をのけぞらせて攻撃を避けつつ、体の脇にさがっている鞄を跳ね上げた。クロの爪と桜子の間に割って入るように、荷物を詰めすぎて重たくなりすぎたバッグが乱入する。それが、桜子の身代わりとなって刃の餌食となって切り裂かれた。
ちぎれた布の隙間から零れだす諸々の小物の中から、桜子は器用に、そして迷いなく、小さなスプレー缶を掴み取った。
女子高生の必須アイテムその三――催涙スプレー。
防犯グッズに大幅に偏った必須アイテムシリーズのラストワンである。
懐に飛び込んできたクロの顔面に、不意打ちのスプレー攻撃。ボタンを押し込むと、刺激性のガスが噴射される。
だが、狙い澄ましてスプレーを放った先に、既にクロの姿がない。
見ると、クロは大きく身を屈めて桜子の奇襲をやり過ごしていた。
――速い。
小賢しい奇襲など、クロに対しては意味がなかった。普通の人間が相手なら、油断した隙に不意を突けば、まぐれ当たりすることもあるだろう。だが、クロは多少不意を突かれたとしても、その素早さを以てすれば、十分にリカバリーが可能だ。相手の出方を見て、奇襲であることに気づいて、それから対処しても十分に間に合ってしまうのだ。半妖である桜子の動きは、致命的に遅すぎた。
屈めた身を起す勢いで掌底が放たれ、桜子の腹に捻じ込まれる。一瞬息が詰まる。絡みついた蛇を強引に引き千切るほどの強さで、桜子の体が浮き上がる。間髪を入れず、追い打ちをかける鳩尾への膝蹴りで、桜子は軽々と跳ね飛ばされる。
「……ぁがっ!」
肺の空気を出しつくし、満足に悲鳴すら上げられないまま、体は冷たい床を跳ね、壁際まで転がされる。痛みに震える体を抱え、小さく呻きながら桜子は内心で毒づく。
――女子を蹴るな!
文句を口に出すだけの余裕はなかった。呼吸は乱れ、目尻に涙が浮かぶ。打ちつけた体の痛みと息の苦しさから目を逸らしながら起き上がろうとすると、白い手が首に伸びてきた。
それを振りほどく間もないままに、首を締め上げられて息が止まる。
「――っ、」
声のない悲鳴と共に、唇の端から唾液が零れる。クロの冷たい手が桜子の体を壁に押しつけながら持ち上げていく。床から離れた足先が苦しげに暴れてクロを蹴り飛ばすが、彼はいっこうに堪えた様子もなく、手の力はますます強くなっていく。
苦し紛れにクロの手に爪を立てると、お返しとばかりに、首筋にクロの爪が当たってちくりと痛む。
視界の端で、朽葉が嗤うのが見えた。
「ぐ、ぅ……」
低く呻きながら、桜子は朽葉を睨みつけた。
――こんな奴の思い通りになってたまるか。
朽葉の掌の上で踊らされて、戦いたくないのに傷つけあわされて。そんなこと、我慢できない。
喉の圧迫感に、意識が遠のきかける。それを無理やり引き留めて、桜子は右手を天井に向かって伸ばす。するりと落ちた服の袖の下から、千年堂印の腕輪が覗く。
丙から託されたリーサルウェポン、念じるだけで武器となって現れる秘密兵器だ。この状況を打開する、起死回生の得物を求めて、桜子は腕輪の力を解放する。
腕輪がきらめき、やがて桜色の光の塊となって桜子の手の中に収束する。おそらく予想外のはずの状況に、朽葉が僅かに眉を寄せるのが見えた。
霞む視界の中で、桜子は己の右手を見つめた。
――来い、一発逆転の武器!
やがて光の中からいかにも強力そうなごつい武器が現れ――なかった。
てっきり、忍や紅月が爆弾を使った時のように光の中から武器が出てきてくれるものだと期待していたのだが、いっこうにその気配はないし、桜色の光は次第に大きく膨れ上がっていき、桜子の手から溢れだしそうなほどだ。
いつまでも膨張を続ける光の奔流に、すさまじく嫌な予感がした。
まさか、と思った瞬間、光の塊は凶悪すぎるほど苛烈な勢いの砲撃となって放出された。




