25 強情わんこは負けられない
予想外すぎる宵音の行動に、紅月は一瞬、思考が停止しかけた。
――いったい何考えてやがる?
ロクでもないことを考えているに違いないとは思った。宵音は気味の悪い笑みを浮かべながら、自分の腕をざっくりと切り裂いたのだ。びしゃりと飛び散る血が紅月の頬にも垂れた。
血を流しながらナイフを振るい落ちてくる宵音から、紅月はバックステップで距離を取る。宵音が着地と同時に大きく振り回す刃を避け、後退しながらの発砲。放たれた弾丸を、宵音は無造作に振り回すナイフで弾き飛ばす。
決定的な攻撃はお互いに通ってはいない。だが宵音は自分でつけた傷のせいでだらだらと血を流している。それを、単純にこちらの優勢と考えられるほど紅月はお気楽ではなかった。宵音が何を考えているのか、不気味に笑う唇に湛えられた真意を測りかねていた。
頬に流れる、自分のものではない生温い血を手で拭い去る。異変が起きたのはその時だ。
頬と手に付着した、掠れた血液が、ぼこり、と嫌な音を出した。澱んだ水が気泡を吐き出すような音だ。
ぼこり、ぼこりと不気味な音を立てながら、宵音の血は新たな血肉を吐き出し――赤黒い蛇を作り出していた。
「――ッ!!」
宵音の血を糧として、毒々しい色の蛇が生み出されていた。自分の体から蛇が出てきているような、気分の悪い錯覚を起こしかける。蛇はずるりと我が物顔で紅月の体に絡みつき、這い回る。それを振り払うより先に、首筋にちくりと刺されたような痛みが走る。
「ふふ……まだ終わりではありませんよ」
にたりと笑いながら、宵音は更に腕を深くナイフで傷つけ、血を飛び散らせる。派手に撥ねた血が紅月の足元に撒かれ、そこから蛇が生まれる。蛇は瞬時に紅月の脚に絡みついて、牙を立てる。
「く……離れろっ!」
首に巻き付いた蛇を鷲掴んで引き離し、脚に組み付いた蛇はすぐさま撃ち抜く。冷静な思考が回復するまで、そう時間はかからなかったはずだが、それでもその間に、何ヶ所かは噛まれた。そっと首筋に触れると、小さな傷跡から血が流れているのが解った。
「噛みつく側の狗が、逆に噛まれる気分はいかがかしら?」
「最悪の気分に決まってるだろうが!」
毒づきながら銃を上げ、宵音を狙う。宵音は澄ました顔で避けようともしない。その余裕ぶった微笑みが癪に障り、紅月は即座に引き金を引いた。
鉛の弾は宵音の頬をすれすれに飛んで行った。それを宵音は当然の帰結のように驚きもせずに見送り、紅月は目を瞠って驚いた。額に風穴を開けてやるつもりで放った弾が、外れた。静止状態で撃った弾が、避けようともせずに立ち止まったままの敵に、掠りもしなかったのだ。そんな失態は、紅月にとっては初めてのことだった。
早撃ちと確かな命中精度を誇る紅月の弾丸が、外れた。それは少なからずショックなことだった。その原因の分析をするよりも早く、強烈な眩暈に襲われ、がくりと膝をつく。
やられた、と思う。薄々予感はあったのだが、やはり先刻の攻撃は――
「……毒蛇」
「ご名答。まあ、ご覧のとおり私自身の血を代償にしますから、そう安売りできる術ではありませんが……あなたにはこれくらいで充分なようですね」
「馬鹿言え……この程度で……」
言いながら立ち上がろうとして、しかしすぐにふらついて床に手をつく。意識が混濁し始める。ぐらぐらする頭を抱えて、こみあげてくる吐き気は唇を噛んで耐える。
「その様子では、もうまともに戦えそうにありませんね」
宵音は悠然と歩いてくる。紅月からの反撃などありえないと踏んでいる。
舐めやがって――紅月は両手で妖刀を構える。だが、照準が定まらない。視界が揺れているのか、自分の手が震えているのか、それさえも解らなかった。
このまま引き金を引いても当たらない。そんなことは火を見るより明らかだった。しかし、手をこまねいていても、意識はますます朦朧としていくばかりだし、体は少しずつ自由が利かなくなっていく。
妖力の塊でまとめて吹っ飛ばす砲撃なら、照準も何もあったものではないのだが、今の状態でそれができるとも思えない。あれは万全の状態で撃っても反動が大きいのだ。
やけにゆっくりと近づいてくるように見える宵音が、死神のように見えた。馬鹿でかい鎌を携えていた弦巻よりもずっと、死神のようだ。
くそったれ、と紅月は内心で自分を罵る。
こんなところで倒れるのか。黒猫を傷つけた忌まわしい敵を目の前にして、その恨みを晴らすこともできないで、自分の役目も果たせないで負けるのか。
いつも肝心なところで役に立たない。自分が負ければどうなる。こいつはクロや桜子や、他の仲間たちに牙を剥くことになる。こんな恐ろしく悍ましい敵を野放しにしていいわけがない。
こんなところで――倒れてたまるか。
「このっ――くそったれがああああッ!!」
倒れそうになる己を叱咤するように吠える。そして、紅月は右手の銃を構えた。銃口が狙う先は――自分自身。
「何を……!」
宵音が驚愕に目を瞠る。その表情を滑稽に感じながら、紅月は不敵な笑みを浮かべ、銃口を左肩に押しつける。ゼロ距離で、ましてターゲットが己なら、狙いを外すことはない。トリガーを引く指に迷いはなかった。
乾いた銃声とともに、肩口から飛び散る血。途端に全身を走る鋭い痛みに顔を顰める。だが、すぐに強がるように笑みを取り戻す。その様子を見て、宵音は唖然としていた。
「何を考えているのです……?」
「ははっ、お前だって似たようなことやってんじゃねえか、これでおあいこって話さ」
「……」
「……気ぃ抜くと意識が飛んじまいそうなんでね。とりあえず、これだけの激痛があれば、呑気に寝たりはしないさ」
「随分と無茶なことをしますね。ですが、それだけやっても、あなたが満身創痍であることは依然変わっていない……結局、勝算はないままではありませんか」
「困ったときは根性論でなんとかするのが俺の基本方針だ。勝算なんて、知るか」
落ちかける意識を痛みで繋ぎ留め、ふらつく体を気合で起こす。
「動けばますます毒が全身に回ります。死期を早めるだけだと思いますが?」
「この程度の毒、効くかよ」
「……そんな強がり、今に言えなくなりますよ」
宵音の瞳が昏く光る。
「我が血を食らい、毒となれ――『赤蛇』!」
深く傷ついた腕を振るい、宵音は更に血をまき散らす。シャワーのように飛び散る血飛沫は、やがて無数の蛇となって蠢き出す。
紅月はありったけの妖力を糧にして、絶えることなく弾丸を作り出す。続けざまに銃に火を噴かせる。しかし、彼本来の素早さと正確さは見る影もない。毒に蝕まれた体は、まともな銃撃を放つことすらままならない。
紅月の攻撃を逃れた蛇が、体に絡みつく。
「く……ぅ、ああっ!」
視界が霞む。がくがくと膝が笑う。まとわりつく赤い蛇を必死で引き剥がすが、全身にはもう誤魔化しようもないほど毒が回っていた。ようやく立ち上がった体は、しかし再び、あっけなく崩れ落ちる。
「ぅ……」
かろうじて意識は保っているが、立ち上がる気力はない。呻き声を上げる紅月を、宵音は冷ややかに見下ろし、冷笑を浮かべる。
「どうやら、ここまでのようですね。死ぬ覚悟はできましたか」
「……誰、が……てめえなんかに、負けるかよ……」
「往生際が悪いですね」
機嫌を損ねたように声の調子を下げ、宵音は呟く。そして、細い脚を持ち上げ、紅月の鳩尾に爪先を捻じ込んだ。
何度も、執拗に、動けない紅月の体を痛めつける。蹴り飛ばし、踏み躙る。紅月は唇を噛みしめて声を出すまいと耐えようとする。
「こんな体で、いったい何ができるというのです? 精神論だけではどうにもなりませんよ。あなたは死ぬんです。みんな死ぬ、あなたの仲間も、桜鬼も、あの黒猫でさえも、最後にはみんなまとめて、死ぬんです」
宵音は更に紅月を嬲ろうと、彼の体を踏みつける。
直後、紅月の手が宵音の足を掴んだ。
「!?」
もう動けないと思っていただろう紅月の予想外の行動に、宵音は目を剥いた。紅月は犬歯を見せて微かに笑い、掴んだままの宵音の足を引き、体勢を崩させる。不意を突かれた宵音は驚くほどあっさりと引き倒される。
倒れた宵音を押さえつけておくだけの体力は、紅月には残っていない。ゆえに、すべては一瞬で終わらせる。
すなわち――宵音の脚に、噛みついた。
「っ……!」
宵音が息を呑む。すぐさま宵音は紅月の手を振りほどいて後退る。だが、脚にくっきりと残った牙の痕は消し去りようもない。
「無駄な悪あがきを……!」
苛立ち交じりに吐き捨て、宵音は立ち上がる。しかし、数秒と経たぬうちに、宵音はがくりと膝をついた。
「何……これは……?」
呆然と呟き、直後、宵音は唇の端から血を零した。
「そんなっ……これは、まさか……蛇の、毒!?」
そう――宵音の体は、彼女が放った蛇の毒に蝕まれていたのだ。狼狽する宵音を見て、紅月は喉の奥でくつくつと笑った。
「……狗に噛まれたらとっとと病院に行く、狗は病気を持ってるかもしれないからな。そんなの、常識だろ? 言っとくが、その咬傷は致命的だぜ。なにせ、今の俺はとびっきりのビョーキを持ってるからよぉ……」
「っ! 私の毒を、私に……!!」
「俺は、クロと違って見境があるからな……誰でも構わず一網打尽にするのがクロなら、狙った獲物だけを確実にぶちのめすのが俺だ。噛みついた相手にあらゆる症状を感染させる『狂犬感染』はお気に召したか?」
勝つことは難しい。だが、負けるわけにはいかない。
ならば、道連れにするまでだ。
「おのれ……おのれっ!!」
血走った目で呪詛を口走る宵音。荒々しい手つきで髪を掴むと、ナイフで乱暴にざくりと切り捨てる。
「襲いなさい、『蛇神』!!」
髪の毛を放ると同時に、宵音の体は崩れ落ちる。毒をうつされた宵音は、自身の術の強力さゆえに倒されることになった。だが、大人しく倒れてくれる気は毛頭ないらしい、最後の力を振り絞り、倒れる間際に蛇の術を放った。相手を道連れにする捨て身の術を互いに打ち合った形だ。
髪が蛇に姿を変え、床を這う。近づいてくる無数の蛇を一瞥し、紅月は舌打ちする。これを捌ききる余力は、なかった。
「……くそったれ」
諦念の滲んだ微苦笑を浮かべ、紅月は目を閉じる。
その時、
『諦めんの早すぎだっての。もうちっと踏ん張れよ、馬鹿狗』
「!」
罵倒交じりに、しかし優しく穏やかにかけられた言葉に、紅月ははっと目を見開いた。
聞こえるはずのない仲間の声。それはきっと幻聴だ。自分の願望が生み出した幻。しかし、幻にしてはリアルすぎる、彼の後姿がそこにあった。
紅月を守るように立ち、蛇に相対するは、鋭い爪を持つ黒猫。
紅月が待ち望んでいた、仲間の姿。
黒猫は刃のような爪を一閃し、蛇の大群を一掃する。惚れ惚れするような、圧倒的な強さは、紅月が認め、憧れ、焦がれる黒猫のものだった。
薄汚れた天井を見上げ、荒い呼吸をしながら、紅月は呟く。
「……ったく、なんでこうなったかね。助けるはずの奴に助けられるとか、さすが俺、かっこわりぃ」
思わず零れた自虐の言葉に、傍らに膝をつく彼は小さく笑う。
いつになく優しげな顔で、心配するように傍らについてくれる彼は、クロの姿をしている。だが、クロがここにいるはずがない。まして、こんなに穏やかな顔をしているはずもない。
「最初は幻聴かと思ったけど……こんな都合のいい幻があるはずねえよな」
『ある意味じゃ、幻みたいなもんだ。ついでに言うと、都合がいいのは、当然って言えば当然だ。お前の心の中に棲んでる「俺」を写しただけだからな』
彼の体が白い光に包まれる。光の中で彼は姿を変えていく――銀色の髪をふわりと広げ、ウサギ柄の浴衣を纏った、透き通るような肌の少女に。あどけない笑みを浮かべた少女は優しく囁く。
「本物の彼と違って見えたなら、それはあなたの心の中で、彼の姿と、あなたの願望が混じって再構成されたから」
「あんたは、何者だ?」
「ただの鏡よ」
「鏡……」
鏡は嘘をつかない。鏡が写したというのなら、先程の「彼」は間違いなく、紅月の心の中にいた「彼」であり、紅月の心の中にしかいない「彼」なのだろう。
希望や憧憬や敬愛が混じって、散々に美化された彼。それを写し取られ、目の前に突き付けられるのは、気恥ずかしいものだ。
そして、悔しい。認めたくなくても、認めざるを得ない。
「……やっぱ俺って、口ではなんだかんだ言っても、クロのこと、大事な仲間だと思ってるんだな。こんなこと、口が裂けても本人には言えないけど……」
溜息交じりにそう呟くと、次第に意識が遠のき始める。
「助けに行けなくて、悪ぃな……」
後のことは、彼女に託そう――少女の背中を思い出しながら、紅月は目を閉じた。




