17 瞳に祈りを
その場所は、どの郷にも属さない、誰のものでもない、すべての妖のために平等に存在する場所だという。
絶えることなく花を咲かせ、花を散らせ続ける妖木、永久桜。その大樹が立つ場所を、妖たちは永久桜の丘と呼ぶ。
北西方向には鬼津那の郷、北東方向には久霧の郷を囲う森、南西方向には野牙里の郷、そして南東方向には神末の郷を臨む場所。高層ビルに囲まれたデッドスペースみたいに、四つの郷に囲まれて、しかし四つの郷のどれにも属さない、独立・中立の桜の丘。
その場所は、桜鬼のお気に入りの場所だったという。
「緋桜さまは、毎日のように、永久桜を訪れていたわ。永久桜の下で、舞い散る花びらを眺めていたの。それは、傍から見れば美しい光景かもしれない。けれど、いつも一人で樹に凭れる緋桜さまは、私から見れば、とても寂しそうだったわ」
その時のことを思い出すように、鏡花は切なげに言う。
哀しそうに目を伏せていた鏡花は、しかし唐突に、明るい声を上げた。
「けれどね、あの日……永久桜の下に彼がやってきたのよ。緋桜さまは一人で、彼も一人だったけれど、一人と一人が一緒になったら、もう一人じゃないの」
不意に冷たい風が吹いた。びゅうっと肌を刺す風。そしてその風は、その冷たさとは不似合いな、美しい花びらをひらりと運んで、桜子の頬に触れさせた。
視線を前にやる。視界には、いっぱいの薄紅色が広がっていた。
「わぁ……!」
思わず歓声を上げてしまう。枝を大きく広げた桜の大樹が、花弁を散らせ続けている。その姿はまさしく圧巻だ。樹の周りには散った花びらが絨毯のように広がっていて、それだけの花びらが既に散っているというのに、枝はちっとも寂しさを感じない。
絶えず咲き、絶えず散る桜。永遠の象徴たる桜。
そこに、桜鬼は立っていたという。一人で立つ桜鬼を、そして、そこへ現れた黒猫を、桜子は思い浮かべる。運命の出会い、などと言ってしまうと途端に陳腐な気がしてしまうが、しかし彼らにとっては確かに奇跡的な出会いだったのだろう。
「こんな場所があったなんて、知らなかった……」
「百鬼夜行の時には、永久桜の下で無礼講の花見酒が恒例行事なのだけれど、あなたは今年の祭、見向きもしなかったからね」
鏡花は桜子しか知らないことをさらりと言う。よもやその先の、二人だけの秘密にまで触れないだろうな、とひやひやしたが、さすがにそのあたりはしっかり心得ているらしく、それ以上話を掘り下げはしなかった。
不意に、視界の端で何かがきらりと光った。桜の花びらに埋もれかけて、何かが地面に落ちている。何だろうと近づいてみると、それは割れた鏡の破片だった。それだけなら、それ以上気に留めることはなかったのだが、割れた破片に紛れて見える、鏡の枠は、なんだか見覚えのあるものだった。
黒地に花柄の縮緬で覆われた鏡のフレームは、割れてはいるが、自分のものだとすぐに解った。中学時代、京都への修学旅行の折にお土産に買った鏡で、鞄に入れてあったはずがいつの間にか見当たらなくなっていたものに違いなかった。
「なんで、私の鏡が……?」
ここに来るのは初めてなのに。
手を怪我しないように気を付けながら、鏡の破片に触れる。そして、目を閉じて、ここで何があったか探ろうと意識してみる。
今までは無意識に、制御できずに使ってしまっていた、記憶を読み取る妖術。今こそそれを使う時だと思った。
真っ暗だった瞼の裏に、突如、鮮やかな映像が浮かび上がってくる。
舞い散る永久桜の下――相対するは、クロと、朽葉、宵音。宵音の襲撃と、クロの反撃。
そうか、この鏡を持っていたのはクロだ。宵音の襲撃を予期したクロが、こっそりくすねていたのだ。
そして、クロは宵音に一矢報いる。だが、その後、彼は……
気を失ってしまったクロを、朽葉が連れ去る姿が見えた。記憶はそこで、ぶつりと途切れる。
ゆっくりと目を開く。おそらく今からそんなに前ではない時に起きた出来事。すれ違いのようにここから連れ去られてしまったクロのことを思い、桜子は歯噛みする。あと少し早ければ、クロに会えたのに。もっとも、会えたところで事態が良い方向に動いたかというと微妙なのだが、それでも、みすみす朽葉に連れて行かせはしなかったのに、と思う。
取り戻せるだろうか。
――取り戻すのだ、絶対に。
桜子は永久桜を振り仰ぐ。鏡花がここに導いてくれた理由が解った。
この場所で、緋桜とクロは出会った。この場所には、その時の記憶が刻まれているはずだ。それを、読み取れというのだ。
大樹の幹に触れて、桜子は祈るように目を閉じた。
「教えて……あなたの、名前を」
季節を問わず、妖しく咲き誇る桜の大樹の下、その女は立っていた。
薄紅の着物に黒い袴、黒いブーツ。女学生みたいな格好をした女だ。しかし、女が放つ空気は、清楚とはかけ離れ妖艶だった。女は煙管を片手に、夜空に浮かぶ満月を眺めていた。
そこへ、一匹の猫がやってきた。漆黒の艶やかな毛並みの猫は、恐ろしいほどに美しい女を警戒しながら、桜の樹へ近づく。猫の金色の瞳が、じっと女を見つめていた。
それに気づいた女は、ほんのりと微笑んだ。
「美しい目をしていますね。名前はなんと仰るの」
猫は答えない。女は気を悪くした風もなく軽快に笑った。
「そう、答えないのですね。では、わたくしが名づけましょう」
猫はやはり何も言わない。女は勝手に続ける。
「あなたの瞳は、夜空に輝く星のよう……月並みですか? ですが、わたくしは何の衒いもなくそう思うのです。ゆえに、この名をつけましょう――」
「あなたの名前は、――――」
ざぁっ、ざざっ、と。ノイズがかかる。
緋桜の唇が動く。だが、唇の動きから言葉を読み取るまではできない。
やがて、緋桜が口を閉じる。風に揺られ、桜の花がいっそう舞う。桜吹雪の中で、黒猫の姿は青年の姿に変わる。金色の瞳、黒い猫耳。不敵な微笑みを浮かべた彼は、少し呆れの色を滲ませて緋桜に言う。
「普通、名乗らないからって勝手に名づけないだろ」
「あら、そうですか? ですが、名前を知らないのでは困りますもの」
「呼び名なら、ないわけじゃない」
「それは知っています。けれど、わたくしは呼び名ではなく、本当の名前を訊いたのです」
「……本当の名前は、そんな軽いノリで訊くもんじゃないだろ」
「軽いノリだったつもりはないのですが……なんにせよ、あなたは答えませんでしたし、答えるべき名前を持っていなかったのでしょう。でしたら、わたくしが決めた名前を貰ってはくださいません? あなたの進む道に、あなたの瞳の如く燦然と煌く、星の光が降り注ぎますように」
にこりと緋桜は微笑んだ。
優しい口調でありながら、どこか強引さも持っている。だが、その強引さも、嫌な感じではない。
彼はやがて屈託なく笑うと、嬉しそうに呟いた。
「誰かに祈られたのは、初めてだよ」
緋桜の祈りが込められた名前。彼はそれを受け取り、魂に誓い、刻み込んで、真名とした。
誰にも明かすことはなく、ただ、緋桜が呼ぶためだけの、秘密の名前だ。
「記憶」はそこで途切れる。桜子は目を開ける。「記憶」の中の桜と、目の前にある桜は、ほとんど変わりないように見えた。この場所で、二人は出会ったのだということを、はっきりと感じる。
クロと緋桜の出会いは、とても鮮やかに桜子の記憶に刻まれた。まるで、実際に目の前で見ていたかのように、「記憶」は鮮明に再生された。
クロが緋桜に名前を与えられた瞬間を視ることはできた。やれることはやり尽くした。知らなかったことを、知ることができた。ただ一つ、問題がある。
「か、肝心の名前が聞こえなかった……!」
「ええっ!?」
葵が驚きの声を上げる。仰天しているのは桜子も同じだ。これだけ鮮明に視えたのに、肝心なところだけノイズが入ってしまった。いったいどういうことだと眉根を揉んでいると、桜子の姿をした鏡花が苦笑する。
「さすが、緋桜さまは徹底してるわ」
「どういうこと?」
「誰かがこの場所で記憶を読んだとしても、名前だけは知られないように術をかけてあったみたいね」
「何ですと!」
今回ばかりは「余計なことをしやがって」と母に憤らずにはいられない。
「では、桜子、彼の真名を知ることはできなかったのですか?」
「うん……折角ここまで来たのに、結局解んないとか、こんなのアリ?」
全部無駄骨だったのか。そう思った瞬間、疲労がどっと押し寄せて、桜子はその場にへたり込む。ぐったりと項垂れる桜子を見て、葵も心底気の毒そうな顔を見せる。ただ、鏡花だけは優しく微笑んでいた。
「けど、ヒントはあったよね」
「ヒント……真名に込められた、祈り?」
「そう。名前は、願いを込めた大事なもの。その名を与える意味があり、その名を与えられる意味があるの。ねえ、桜子、あなたなら、彼にどんな名前をあげる?」
「私なら……」
「緋桜さまになったつもりで、考えてみて」
「……鏡花は、答えが解っているの?」
桜子の姿をして、桜子の心と同期した彼女になら、あるいはもう、すべてが解っているのかもしれないと疑う。だが、鏡花は力なく首を振った。
「心の深く、大事なところまでは、読み取れない。だから、私には解らない。きっと、辿り着けるのはあなただけ」
がんばってね――そう言い残すと、鏡花はくるりと回る。すると、彼女は銀色の髪の少女の姿に戻り、無邪気な笑みを浮かべた。
「じゃあね、お姉ちゃんたち」
鏡花はぽっくりを鳴らして駆けていく。
その背中を見送りながら、桜子はたくさんの言葉を反芻していた。
――あなたの進む道に、あなたの瞳の如く燦然と煌く、星の光が降り注ぎますように。
――きっと、辿り着けるのはあなただけ。
そして、クロの顔が思い浮かぶ。
少し驚いた表情をしている。不意を突かれ、思いがけない言葉を聞いたような顔。思わず見せてしまった無防備な顔。そして、それを誤魔化そうとしている顔。
これはいつの記憶だろう? いつ、何を話したときに、彼が見せた表情だろうか。
その記憶をゆっくりと辿っていると、葵がぴくりと肩を震わせた。何かに気づいたように、視線を遠くにやっている。立ち上がって、葵の視線を追ってみると、遠くから何か白いものが、こちらに向かって飛んでくるのが解った。
近づいてくるにつれて、それが短冊のような紙であることが解った。それがひらひらと揺れながら、一直線に葵に向かってくるのだ。
敵の攻撃か、と警戒するが、すぐに葵が告げた。
「忍の術符です!」
やがて紙は葵の目の前で停止し、重力に従ってひらりと落ちる。葵はそれを受け止め、桜子の方に見せた。どうやらそれは、忍が妖術で葵の元へ送りつけてきた文のようだった。
白い符には、筆で書かれた達筆な字が躍っていた。
曰く、
『朽葉の根城を発見。クロもそこにいる。尾長橋で待つ』




