16 鏡写しの彼女
野牙里の郷の北を流れる川に沿って下流へと歩いていく。春に初めて妖の世界に来た時や百鬼夜行の時期に、クロからその存在だけは聞かされていたが、今まで足を踏み入れることはなかった、付喪神たちが住まう郷、神末。桜子と葵は、かつて緋桜の鏡であった、付喪神・雲外鏡を訪ねるため、そこへ向かっていた。虎央の屋敷を辞してからすぐに出発したが、時刻は既に昼を回っている。呑気に昼食を取る気にもなれず、鞄に突っ込んであったカロリーメイトだけを二口で腹に詰め込んで、あとはひたすら歩き旅だ。
「神末の郷ってどういうところなの?」
初めて訪れる場所に、期待と不安と、どうせまた厄介なことになるんだろうなぁという諦念を抱きながら、桜子は問うた。
「付喪神たちは友好的な妖ですよ。神末の郷も、他の郷よりずっと開けた感じです。というのも、付喪神たちは、野牙里や鬼津那など、元々は他の郷にあった物に魂が宿って、神末に移り住んだ者がほとんどですから」
「あ、成程」
「付喪神になる物は、鏡だったり刀だったりさまざまです。それゆえ、種族としてがっちり結束している猫や狗や鬼ともまた違う、もっと緩い感じの種族のようです。鬼だけでひっそり固まっている閉鎖的な鬼津那とは真逆ですね」
「なんか、今まで会ってきた妖とは結構雰囲気が違うっぽいね。ちょっと新鮮」
こんなときでもなければ、ゆったり観光気分で訪れて、たくさんの付喪神と交友関係を結んでみたいものだ。だが、今はとにかく、雲外鏡を探すのが最優先だ。
「忍と紅月は、どうしてるかしら」
ふと、現在別行動中の二人のことが気にかかった。契約を結ぶという方法にほとんど期待ができないため、別の解呪法を求めて二人は奔走中である。そして、解呪法を探すのと同時進行で、絶賛行方不明中のクロと、これまた絶賛行方不明中の朽葉たちを探すというミッションまで抱えている。無理難題のオンパレードで同情を覚える。
「彼らは大丈夫でしょう。腕は確かですから、うっかり朽葉たちと出くわして戦闘になってもそうそうやられはしないでしょうし。それに鼻が利きますからね、案外首尾よく、居場所を見つけているかもしれません」
「うん、そうだね。そっちは二人に任せとけば安心よね。私たちは、とにかく雲外鏡探しよね」
雲外鏡が見つかるか、そして見つかったとしても手掛かりを持っているのか。こちらも問題が山積みになっていて、人の同情をしている場合ではないのである。
歩いていくと、道が二股に別れた。葵の案内で、川沿いにさらに続いていく道を横目に、内側へ入って行く道を進んでいく。野牙里や鬼津那では土が剥き出しになったでこぼこ道しかなかったが、その道は妖の世界では珍しいことに、石畳で舗装されていた。
「神末の郷では頑丈な石がたくさん採れますから、道や建物は石でできていることが多いんです」
と葵がガイドさんよろしく説明してくれる。
やがて、行く先に灰色の建物がちらほらと見え始めた。人間の世界のような高層ビルが建っているわけではないが、木造建築平屋建てや竪穴住居ばかりだった他の郷に比べて随分と進んだ、石造り、煉瓦造りの建物が並んでいて、桜子は感嘆の吐息を漏らす。
四角い建物の間を走る道は、綺麗に舗装されていて、街はまるで碁盤の目のように整備されている。碁盤の目、というと京都の町並みを思い浮かべるが、灰色の街は京都ともまた違う雰囲気だ。
往来には疎らに妖たちの姿がある。獣の耳やら角やら尻尾やらを生やしてはおらず、人間だと言っても通用する姿の者が多い。しかし、身体的に特徴がない分、格好はなかなかに奇抜な者が多かった。
たとえば服屋の前でうろうろしている女性は、耳に勾玉のイヤリングをさげていて、首にも勾玉のネックレス、そして来ている服にはどでかく勾玉のプリント柄。これで勾玉の付喪神でなかったら盛大なフェイントである。
たとえば茶屋の外の椅子に座って団子をもぐもぐしている男性は、腰に六本も刀を佩いている。手は二本しかないのにそんなに刀を持ってどうするのだ、という話だが、おそらく彼は刀の付喪神なのだろうと桜子は推測する。
そんな具合で、その正体が何の付喪神であるのか、一目で解る者が多い。自分が何者であるかをアピールすることにアイデンティティ的な問題があるのかもしれない。ともかく、この調子なら、雲外鏡も一目で見て鏡っぽい格好をしているのではないか、と桜子は期待する。
「よしっ、張り切って探しちゃうわよ!」
「では、手分けして雲外鏡を探しましょう」
葵は街の西を、桜子は東を担当することになり、一旦二人は別れた。
ちょっと話しかけるのに勇気のいる感じの勾玉さん(仮名)と刀さん(仮名)に聞き込みして、鏡の居場所を探す。しかし、聞き込みの成果は芳しくはなく、この郷に雲外鏡がいることだけは誰もが請け合ってくれたのだが、ではどこにいるのか、となると全員首を傾げる。
どうも聞いたところによると、一カ所に留まっていることが少なく、あちこち遊び回っているようなアクティブな妖らしい。家には夜中、寝る時にしか帰らないというほどアウトドアな性格のようで、一応教えてもらった石造りの家を訪ねてみたが、やはり留守だった。
こんなときにどこほっつきあるってんだ、という理不尽な怒りを気合で抑えつつ、桜子は、いかにも鏡っぽい感じの妖怪を探した。
しかし、そうはいっても、鏡っぽい格好と言っても、具体的にはどんな感じなのだろう、とはたと思う。
イヤリングがミラーボール。
背中に鏡を背負っている。
全身銀ぴかの衣装。
……そのどれであっても話しかけるのに勇気がいるな、と桜子はげんなりする。
せめてもう少し近づきやすい格好をしていた欲しいな、と贅沢なことを考えながら、商店街を歩いていく。
鏡を探しながらきょろきょろうろうろとしていると、そのせいで前方不注意になってしまったようで、前から走ってきた妖と正面衝突してしまった。
「わっ、ごめんなさい!」
反射的に謝ってから相手の姿をまじまじと見る。
桜子よりもずっと背の低い、子どもだ。そうはいっても、どうせ年齢は桜子よりも上なのだろうが、外見だけは小学生くらいに見える。
その姿をじっと見て、鏡だ、と思った。
きらきらと煌いて見える澄んだ瞳、美しい銀色の髪。元気よく飛び跳ねるウサギの柄の浴衣を着ていて、足には黒いぽっくり。いかにも活発な少女という感じだが、それでいてただの無邪気でお転婆な子どもというだけではなく、どこか神聖な雰囲気を纏わせている。
少女は少し驚いた様子で桜子を見て、それからすぐににっこりと笑う。
「お姉ちゃん、緋桜さまにそっくりね」
「! あなたは……雲外鏡、なの? 桜鬼の懐鏡の……」
「ふふっ」
少女は愉しそうに笑う。それから、くるりとその場で一回転してみせた。
すると、少女の姿が変化する。桜子は目を瞠る。幼い少女だったはずが、一周回る間に、高校生くらいの少女に早変わりする。髪の色は黒く変わり、来ている服は洋服になり、靴はこげ茶のローファーに。
というか、目の前に自分と同じ姿の少女がいた。
「私……?」
ふと思い出すのは、別の者にそっくりに化けられる化け狐だ。化け狐の空湖はクロに化けて、見る者全員を欺いてみせた。
だが、目の前の少女の姿を見ても、「騙す」というような悪意は感じられない。
そう、それは、化けているのではなく、写しているのだ。桜子の姿を写しとった鏡に他ならない。その証拠に、彼女は桜子とは左右が反転している。よく見れば解るが、桜子の右手の中指にはペンだこがあるが――普通はそんなところにできないものだが、ペンの持ち方が間違っているため中指にできている――目の前の「桜子」は左手にそれがあるのだ。
桜子を写した雲外鏡はにこりと微笑む。
「私の名前は鏡花。けれど今は『桜子』よ。あなたは私を探していたのね?」
「解るの?」
「あなたの心も写したから、解るわ。もっとも、あなたのことが解るのは、私があなたでいる間だけ」
すなわち、桜子の姿を写しているときだけ、桜子の心を写し、知ることができるということらしい。
「あなたがあなたのために力を尽くすように、あなたである私も、あなたの力になるわ」
ちょっとしたトートロジーのようなものを感じながら、桜子はその言葉を咀嚼する。
「……助けてくれるの?」
「勿論。けれど、あなたがあなたの求めるものを持たないように、私もあなたの求めるものを持ってはいない。答えを知っているとしたら彼女だけで、それを知りうるのもあなただけ」
「あのもうちょっと解りやすく」
遠回しすぎる言い回しに、桜子は眉根を揉み、申し訳ないと思いつつツッコミを入れた。鏡花は一瞬きょとんとした後、
「彼の名前は私も知らない。けど、知ってるかもしれないひとに心当たりはあるわ」
失望と希望をいっぺんに与える台詞を受け止め、しかし桜子が一番に言ったのは、
「普通に喋れるのかよ」
たぶん今言わなくてもいいだろうツッコミであった。
その後、桜子は葵と合流した。桜子が二人いるのに葵は目を丸くしたが、姿が同じでも言動がまるで違ったので、間違われることはなかった。鏡花には少々天然っぽいところがあるのだ。ただ、その気になれば真面目にしっかりとした受け答えもできるようである。
神末の郷に着いたばかりではあったが、鏡花に導かれ、桜子はすぐさま神末の郷を出ることになった。目的地は神末の郷の外にあるらしい。
「確かに私は緋桜さまと一緒にいたし、あのころは付喪神として半分くらい目覚めていたから、記憶もある。けれど、緋桜さまは彼にだけ聞こえるように、その名前を囁いていた。私が付喪神になりかけているのに気づいて、聞かせようとはしなかったのね」
先を歩きながら、桜子の姿の鏡花は語る。
「だから、やっぱり彼の名前は、彼と緋桜さましか知らないの。けれど、もしかしたら、記憶が残っているかもしれないわ。彼と緋桜さまが出会ったあの場所に」
「それ、どこ?」
鏡花は肩越しに振り返って告げた。
「永久桜の下」




