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俺様にゃんこの躾け方  作者: 黒いの
4 猫を呼ぶ冬
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15 鏡よ、鏡

 クロの真名を確実に知っており、かつ名づけの親である者、それは桜鬼・緋桜――もはや決して尋ねることのできない相手だ。

「唯一信頼できた桜鬼から貰った名前、かぁ……絶対他の誰にも教えてないパターンでしょ、それ」

 虎央の屋敷を後にして、往来を歩きながら桜子は呟く。断言できる、クロは誰にも教えていない。彼の本当の名前は、彼自身と、それを与えてくれた緋桜、二人だけの秘密なのだ。

「普段なら『いい話だなー』って感動して終わりなんだけど、今のこの状況では、絶望的な気分になるしかないわ。また一つ希望を打ち砕かれてしまった……」

「ええ……やはり彼の真名を知るのは、難しいようですね」

「てかもうほぼ不可能よね。もう手掛かりゼロだし。どうしようもないでしょ」

 諦めたくはない。だが、諦めざるを得ない状況にどんどん追い込まれていっているようだ。やはり契約を結ぶのは諦めて、別の解決法を探すべきか。とはいっても、他にこれといった打開策があるわけでもない。

「どうしたらいいかしら……」

「……あの、桜子。あまり期待しないで聞いてほしいのですが」

 言おうか言うまいか迷っているような口ぶりで葵が切り出す。

「何? もし何か考えがあるなら、なんでもいいから教えて。私の足りない頭じゃもうギブアップなの」

「桜鬼が名づけ親だというのが本当なら、もう一人だけ、クロの真名を知っているかもしれない妖がいます」

「え、ほんと? クロが教えそうな相手が、桜鬼以外にもいるの?」

「教えた、というわけではありません。聞いていたかもしれない、ということです」

「それ、誰?」

「鏡です」

「?」

 桜子が解らないという顔をして見せると、葵はもう少しだけ言葉を補ってくれた。

「桜鬼がかつて持っていた懐鏡です。長く、大切に使われた物は、意志が宿り、付喪神になるのです。桜鬼の懐鏡も、今は付喪神・雲外鏡となって、神の郷・神末かみすえの郷にいると、聞いたことがあるのです」

「神……」

 どうやら次は神様とご対面らしい。

 桜子はまだつながっている淡い希望を、決して見失わないようにと、拳を握りしめた。


★★★


 桜の花びらは舞い続ける。絶えることなく、ひらひらと。

 瞼の向こうが明るんできたことで、朝が来たことに気づき、クロはそっと目を開ける。体の上に僅かに積もった花弁をぼんやりと見つめて、まだ自分が自分のままであることに気づいた。

 ――我ながらしぶとい。

 体の痛みはあまり感じなくなっている。だが、それはもう感覚が麻痺してきているからであり、体内で暴れる蛇が大人しくなったわけではないらしい。そうでなければ、真冬に外で寝ていたら、普通は凍死する。妖怪であっても凍傷くらいは起こすだろうし、だいたいクロは猫だから寒いのが苦手である。体の中で渦巻くどす黒い熱のせいで、冬の寒さに殺されることは免れたらしい。だからといってその代わりに取り殺されてはたまらないのだが。

 まだぎりぎりのところで自我は保っていられている。それはおそらく、この場所のおかげだろう、とクロは推測する。永久桜の大樹に身を預けて眠ったおかげで、夢を見た。

 緋桜と共に過ごした日々の優しい夢。

 名も無き野良猫から、飼い猫になった日のこと。

 舞い散る桜は、あの日を思い出させる。それが、夢に現れた。

「――綺麗な桜だな」

 唐突に響いた声に、クロは緩慢に顔を上げた。霞む視界の中で、人影が二つ、揺らめいている。

「綺麗すぎて反吐が出る。あの女を思い出しちまう。よりによって、こんな場所にいるとは、嫌がらせかよって話だ」

 忌々しい声の主の正体に気づき、クロは小さく舌打ちをする。よりによって、はこちらの台詞だ。一番会いたくない相手、朽葉がそこにいる。隣にいるのは宵音だ。

「ここまでしぶといとは思わなかったな。まったく、手間をかけさせてくれる」

「私は最初から申し上げていましたよ。まだ甘い、と」

「さすがサディストは言うことが違う」

 にやにやと笑いながら軽口を叩く朽葉と、馬鹿真面目な顔で応じる宵音、二人の会話を聞き流しながら、クロは考える。今の状態で、この二人から逃げ切るのは難しい。というか、不可能だ。かといって、ここで二人を迎え撃つ余力があるわけでもない。

 桜子から距離を置いて逃げてきたが、ここにきて予定外のことが起きた。少々軽率だったかもしれない、と今更の後悔をする。

「いい加減、苦しいだろう? 宵音、さっさと楽にしてやれ」

「解ってます」

 宵音が右の掌を上向ける。そこから、ずるりと這い出す漆黒の蛇。

 二匹目の蛇を抑え込む力はない。かろうじて残っている理性など、あっけなく食い千切られてしまうだろう。そうなれば――その先は、どうなる?

 あの時――一瞬、意識を乗っ取られ、体の制御を奪われて、桜子を傷つけかけてしまった時。桜子と紅月の呼び声でかろうじて意識を取り戻した時、瞳に驚愕と恐怖を浮かべて凍りついた桜子が目の前にいると気づいて、ぞっとした。自分がしようとしたことを理解して、吐き気がした。

 怯える少女の姿が脳裏に焼き付いている。彼女にあんな顔を、させてはいけなかったのに。

 なぜなら彼女には、笑顔こそが似合うのだから。

「お行きなさい、憑蛇」

 宵音に命じられ、手から抜け出した蛇が飛びかかる。混濁した意識のまま、近づいてくる蛇を見据える。油断すればすぐさま糸の切れてしまいそうな、限界寸前の体に鞭を打ち、ほんのわずかに手を動かす。

 瞳に潜り込もうと襲撃する蛇、それを受け止めるように手をかざす。その右手の中には、懐に忍ばせていた得物を握りしめていた。

 直後、蛇の頭が()()にぶつかり、強烈な光を放った。そして、邪悪な蛇が()()()()

「何……!?」

 想定外のことに宵音が目を剥く。クロに取り憑くはずだった蛇は、それを阻まれ、そればかりか呪者である宵音の方へ跳ね返されていく。硬直していた宵音の瞳に、黒い蛇が潜り込むのに、さほど時間はかからなかった。

「きゃあああっ!?」

 己の放った呪いを打ち返され、宵音は悲鳴を上げる。両手で顔を覆い蹲り、苦しげに絶叫しながら髪を振り乱す。その様子を驚いて見ていた朽葉が、やがて得心した顔で小さく頷いた。

「呪いの蛇を跳ねかえす……鏡か」

 そう、クロの右手の中には、小さな懐鏡が収まっている。見るからに女物の意匠の鏡は、明らかにクロのものではない。

「その鏡、桜子ちゃんのものだな? 『反射』の性質を持つ鏡に、その持ち主である彼女の『浄め』の性質が加わり、お前の妖力が原動力になった。いわば、即席の呪術返しの道具ってわけか。成程、呪いへの対処法は、かけた奴が解くか、かけられた奴が解くか、そして、やられる前にやり返すかの三択ってわけだ。まあ、一番最後のは言うほど簡単じゃないから、普通はノーカンだが」

 朽葉の言葉に、クロはくすりと小さく微笑んだ。

「簡単さ……そいつの手の内はもう知ってる。俺に二度も、同じ手が通用すると思うな」

 蛇を植え付けられた直後の段階で、宵音は駄目押しに二匹目の蛇を放とうとしていた。近いうちに二度目の襲撃に来るだろうことは予測できた。だから、クロはそれに備えて鏡を用意した。桜子の鞄の中に入っていたのを黙って持ち出しておいたのだ。

 蛇を跳ね返したことで、懐鏡は割れてしまった。強い呪術の衝撃には、一度しか耐えられなかったらしい。だが、一度で充分だ。宵音は己の蛇を己で受け、もはや更なる呪術を行使する力はないようだ。

 小刻みに体を震わせ、宵音はよろよろと顔を上げる。瞳の周りには蛇の鱗のような模様が浮かび上がっていて、屈辱に唇を噛みしめ、憎々しげな視線をクロに寄越している。

「よくも……よくもっ……!」

 蛇の本質は精神を侵蝕することにある。自分で放ったものだとしても、それを自分が取り込んでも平気というわけではないようだ。自律的に動く蛇は、あらかじめ宵音の命令を受けているとはいっても、一度その手を離れてしまえば、彼女にとっても異物でしかない。

「赦さない、絶対に赦さない……!」

 怨嗟の言葉を吐きながら、宵音は徐に右手を持ち上げる。そして、何を思ったか、躊躇いなく右目を抉った。迷いも恐れもなく、己の目を貫く姿には狂気が滲み出ていた。

 眼窩から右手を抜き取ると、赤い血に紛れて黒い蛇が掴まれている。それをぐちゃりと握り潰し、宵音は嗤った。呪術に精通していた彼女だからこそ、呪術の産物の、ある種霊的な存在である蛇さえも手で掴み取ることができたのだろう。他の誰にも真似のできない強引な解呪法だ。

「私に一矢報いたつもりですか? 甘いですよ、私はあなたとは違うのです。自分の術に食い殺されたりなんかしません。ですが、私はあなたを赦しません。私にこんな屈辱を与えたあなたを、絶対に赦しません……!」

「こらこら宵音、落ち着けよ」

 憎しみの言葉をまき散らす宵音を、朽葉が苦笑しながら宥める。

「ささやかな抵抗くらい笑って流すのが大人の対応だぜ」

「……解りました、あとであなたに八つ当たりするということで手を打ちます」

 深呼吸で昂ぶる気を鎮めようとする宵音を置いて、朽葉がクロの元へ歩いてくる。クロの目の前に屈みこみ、白い手がそっとクロの頬に触れる。振り払う気力はない。

「悪あがきもそろそろ終わりにしようぜ、クロ。どんなに抵抗しても、もう結果は決まってる。俺はかつて、あの忌まわしき桜鬼を殺し損ねた。だから、俺の代わりにお前が桜鬼を殺すんだ」

「……」

 暗く歪んだ願望。それを押しつけられ、押し潰されそうになることが、ひどく息苦しかった。

 クロは小さく嘆息する。

 この二人から逃げ切ることはできないし、迎え撃つこともできない。だが、一人だけなら――宵音にだけなら、一矢報いることができるだろう。そう思って行動した。その予想は、なんとか的中した。手傷を負っているくせに、朽葉がわざわざ宵音にくっついてきたのは、運が悪かったとしかいいようがない。これ以上のことはできそうにない。

 ――たぶん、もうすぐ俺は()()()

 ――けれど、やれることはやった。

 この様子なら、宵音の呪術が桜子たちに牙を剥くことはないだろう。厄介な敵には逆襲した。クロの役目は終わったのだ。

 この先どうなるかは、先読みを得意とするクロにも解らなかった。

 先のことは、あまり考えたくない。

 もう、彼女の強さを信じるしかない。

 

 ――どうか、俺なんかに殺されないでくれ。

 そう祈って、彼は目を閉じた。

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