14 たった一人だけでいい
起きた時には、朝の七時を少し過ぎていた。時間的にはたっぷり眠っていたはずなのだが、ちっともよく眠れた気がしない。気がかりなことがあると、おちおち休んでもいられないようだ。
この寒い時期、普段なら布団の中で「あと五分」「あと十分」と往生際の悪い抵抗をぐだぐだとしているものなのだが、この日ばかりはそんな気分にもなれず、桜子は布団からのそりと這い出した。近くに放り出してあった鞄に手を伸ばし、ブラシを引っ張り出して髪を梳かす。一緒に仕舞ってあったはずの手鏡は、まだ頭がはっきりしないせいか見つからなかった。舌打ちしながら洗面所に行き、顔を洗って目を覚まし、身支度を整えた。
まだ薄暗い部屋に戻ってきてぐるりと見回すと、紅月、忍、葵がまだ布団の中で目を閉じている。なんでこんなことになっているんだっけ、と考えて、五秒くらいかけて思い出す。
「ああ……そうだ」
作戦会議は結局、有効な解決策を打ち出すことができず、精神的にも肉体的にも疲弊していた桜子たち四人は、クロの部屋の押し入れから勝手に布団を引っ張り出して、勝手に泊り込んで雑魚寝したのだった。
桜子とクロが契約を結ぶ、という打開策には、しかし、紅月が指摘した致命的な欠陥があった。
すなわち、クロの名前を知らない、ということ。
「――名前を知らない? どういうこと? だって、クロはクロでしょ」
紅月の言っていることがすぐには理解できず、桜子はそう言った。だが、言ってしまった直後に、はたと気づいた。
クロの名前はクロ――否、そうではない。
誰もが彼をクロと呼び、桜子もそう呼んで、彼もその名で呼ばれて応じていた。だが、初めて会った春の日、彼は何と言ったか。
『「化け猫のクロ」で通ってる。俺のことはクロって呼びな』
彼はクロと呼ばれていると言い、クロと呼べと言ったが、自分の名前がクロであるとは一度も言わなかった。
そして何より、久霧の郷でクロが漏らした言葉。
『緋桜は俺を「クロ」なんて呼ばない』
緋桜はおそらく、クロの名前を知っていた。だからクロとは呼ばなかったのだ。
「じゃあ、クロって偽名なの?」
すると紅月はちょっと首を傾げて、言葉を選ぶようにして語り出す。
「偽名っていうか、まあ、呼び名だ。愛称っていうんでもいいけど。これはクロに限った話じゃなくて、妖怪全員に共通することなんだが、誰もが知っている呼び名とは別に、一部の奴しか知らない本当の名前――真名を持ってる」
「真名……」
「たとえば、俺も『紅月』って呼び名とは別に真名がある。俺の真名を知ってるのは竜厳様と翠くらいだ。誰かに与えてもらったり、自分自身で決めたり、そのへんはいろいろだけど、とにかく、自分で選んで、魂に誓って、刻み付けた名前が真名だ。こいつは下手に知られると呪術なんかに悪用されて命に関わるから、本当に信頼した相手にしか明かさない」
そこで桜子は、夏休み、人間の世界で偶然出くわした妖怪、蓬郷から聞かされた話を思い出した。
『名前は呪術なんかに使われることもある。悪ーい妖怪に名前を掴まれるのは命を掴まれるに等しい。誰彼かまわず、おいそれと名を明かすもんじゃないよ、悪用されるからね』
あの時は、「まあプライバシーの問題があるからなー」くらいに適当に流したが、もしかしなくても結構重要な話だったようだ。
「真名とは別に呼び名があって、普段それで呼ばれてること自体はまあいい。問題なのは、クロが誰にも真名を明かしていないってことだ。契約を結ぶには真名を知ってることが不可欠なんだ」
「ちょっと待って、ほんとに誰も知らないの? そんなのってある?」
紅月は困り果てた顔で溜息をつく。
「普通は、血のつながった家族と一族の長老くらいは、真名を知っていて然るべきなんだ。だが、あいつには知ってのとおり家族がいないし……まあ、生物学的に血のつながった父親はいるがそれは論外として……育ての親である長老にも、たぶん真名を教えてない。まずもって、長老があいつのことを一族の仲間として認めてないのは、承認の石を与えてないことからも明らかだろう。だいたい、真名は虎央様が与えてやったってよかったくらいなのに、当たり前のように真名は与えず、だけど呼び名がないんじゃ不便だからって、黒いからクロでいいやって適当に決めちまったって経緯だし」
「なにその大雑把」
「もっとも、渋々で与えられた真名をクロが大人しく受け取るはずもないわけだが……まあ、そういうわけで、あいつの名前を知ってる奴はいない」
「というか、クロってほんとに、ちゃんと真名を持ってるのかっていう根本的な問題があるんだけど」
「持ってるさ。真名を持たない奴はいない。アイデンティティの問題もあるし、妖術を使うには魂と繋がった名前が不可欠だし。まあ、成年するまでには真名を決めてるはずさ。てか、本人が言ってたからな、持ってるって。けど教えてくれなかった」
「どうして肝心なところを教えておかないのよ……」
思わずぼやくが、しかしそれも仕方がないか、と桜子は思う。真名は信頼できる者にだけ明かすもの。クロには――異端者として疎まれる彼には、心から信じられる相手がいなかったのだ。今でこそ紅月とはいい悪友同士といった具合だが、少し前までは二人の間にはわだかまりがあった。和解が叶ったとはいっても、あのひねくれ者の黒猫が、今更素直に真名を明かす気になれなかったのも頷ける。
そして、桜子にも、彼は結局真名を明かさなかった。ちんけな半妖相手に明かすべきかと考えて、彼は明かさないことにしたのだろう。
契約は結べない――一晩かけて絶望的な結論に辿り着き、四人は疲れ果てて眠りに落ちた。
昨晩のことを思い出して溜息をついていると、やがて他の三人も起きだしてきた。
「とりあえず、逃げたクロを探す、呪者の宵音と、ついでに朽葉を探す、解呪の方法を考える、の三つが、今やるべきことだろうな」
現在山積みになっている課題を、紅月がざっくりとまとめる。桜子は、夢うつつに考えていたことを提案してみた。
「私、一度虎央様のところに行ってみようと思うの。紅月の言うとおり、たぶん知らないんでしょうけど、手掛かりになる情報くらいは持ってるかもしれないから……契約を結べばなんとかなるってとこまでは解ってるわけだから、そう簡単には諦めきれないよ」
「桜子、私も一緒に行きますわ。桜子のことは私が守りますから、殿方は安心して肉体労働に励んでいてください」
というわけで、桜子は葵を伴って、虎央の屋敷を訪ねることになった。
商店街を歩いていくと、妖たちは開店の準備で忙しくしているし、店々にはイルミネーションが賑やかに飾られている。つい昨日氷漬けにされていたとは思えない復活の早さだ。妖たちは結構タフらしい。
そして、夜には美しくライトアップされるのだろうイルミネーションを見て、今日が十二月二十五日であることを思い出した。
「今日、クリスマスだっけ……」
昨日、ハイテンションでクラッカーを大量購入していた時には、まさかこんな大変なことが起きるとは夢にも思わなかった。よりによってこんな日に厄介な問題を引き起こしてくれるとは、と桜子は朽葉に対して舌打ちした。
化け猫一族の長老・虎央の屋敷は、竜厳の洋館みたいな邸宅とは正反対に、がっちり和風建築だった。いつぞやの化け猫少年、虎央の孫である柊に庭先でばったり会って、口添えしてもらったおかげで、虎央とはアポイントなしであっさりお目通りがかなうことになった。
広い座敷に案内され、葵と二人並んで正座して待っていると、羽織袴姿の虎央が顔を出した。
「今日はいったいどういう用件かな、桜鬼殿」
世間話もすっ飛ばしてそう尋ねてくるあたり、彼はこちらの事情を少しは知っているのだろう。郷に朽葉の手下が襲来して街を氷漬けにしていったくらいだから、現在のっぴきならない事態が進行していることくらいは、理解しているのだろう。桜子は単刀直入に訊くことにした。
「虎央様は、クロの真名について、なにかご存じありませんか」
「奴の真名、か……」
虎央の顔は、決して愉快ではなさそうだ。だが、だからと言って、クロのことを話題にしただけで追い出されるというようなこともなかった。
「もう知っているかもしれないが、奴は捨て猫だった。捨てられていた奴を、拾い、育てることにしたのは、化け猫の長老としての責務だと思った。だが、そうしていながら儂は結局、奴を化け猫の仲間と認めることができなかった。あの金色の瞳が、それほどまでに忌まわしかったのだ。かつて大虐殺を引き起こした裏切りの猫……儂はそれを、ただ伝え聞いただけではない。あの災厄の猫の姿を、実際に目の当たりにした。ゆえにその記憶はまだ生々しく、同じ金色の瞳を持つ黒猫は、受け入れがたかった」
そうだ――丙は朽葉が虐殺を起こした直後の光景を見ていたと言った。となれば、丙よりも見るからに年上である虎央もまた、当事者ということになるのは当然だ。
「言い訳をするわけではないが……儂はあの瞳が怖かった。ただの偶然という可能性もあったにもかかわらず、必然という可能性を捨てきれないがために、その恐怖から逃れることはできなかった。ゆえに、長老としての義務感から育てはしたものの、仲間と認めもしなかったし、子として愛することもできなかった。そしてそんな儂を、奴が信頼することは当然なく、真名を明かしはしなかったのだ」
「……彼は、自ら真名を決めたのですか?」
それまで黙っていた葵が徐に問うた。それに対して虎央は、首を横に振った。
「真名を明かしはしなかった。だが、真名を持ったことだけは言った。とても自慢げに、誇らしげに、奴は言ったのだ――桜鬼が、名を与えてくれた、と」
「……!」
桜鬼が名を与えてくれた――そう語ったときの彼の気持ちを、桜子は想像する。
その瞬間だけはきっと、クロにとっては、与えられた名前以外の些細なことは、どうでもよくなったのではないか。
たとえ、一族の長に認められなくても、親に愛されなくても、そんなことはもういい。
たった一人だけでいい、自分を認めてくれるひとがいる。
与えられた名前がその証だ。
それだけで、もう十分だ。
彼はそう思ったのではないだろうか。
出会って一年にも満たない者の心を推しはかろうとするのはおこがましいのかもしれない。だが、なぜだか桜子には、彼がそう思ったに違いないだろうと、直感できてしまったのだ。




