11 眠れる猫の暴走
日もとっぷり暮れた、午後九時過ぎ。場所はクロの自宅。部屋に敷かれた布団の上に横たわり、苦悶の表情を浮かべながら眠り続けるクロを、桜子はじっと見守っていた。冷え切っていた体は、今では正反対に高熱に浮かされて、触れると火傷しそうなくらいに熱い。首筋には珠の汗が浮かんでいる。額に載せた濡れタオルを交換するのも、もう何度目か解らない。
薄く開いた唇からは熱い吐息が漏れている。あれから――宵音と雛魅が立ち去ってから、クロは紅月に背負われ自邸に担ぎ込まれた。それからずっと、クロは一度も目を覚まさない。時折、何かの発作のように呻き声を上げ、痛みに耐えるように手でシーツを掻き毟るのが、この上なくつらそうで、桜子は胸が痛んだ。
クロが目の前で、こんな目に遭わされたというのに、桜子は何もできなかった。雛魅の策で、クロが狙われていることには気づいていたのだ。だが、クロが敵の罠にかかるのをただ見ていることしかできなかった。その悔しさと、自身の無力さへの憤りで、桜子は唇を噛みしめた。
自分を責めれば、途端に涙が溢れそうになった。だが、掌に爪を立てて、涙をぐっとこらえた。苦しんでいるクロの前で自分が泣くことは許されないと思った。
それに、今もクロのために奔走してくれている紅月たちを思えば、なおさら泣いてなどいられなかった。
今、紅月たちはどうしているだろうか――桜子は、数時間前のことを思い出す。
クロを寝かせた後、紅月はすぐに出かけると言った。
「その、宵音とかいう女は『呪い』だって言ったんだろ? どういう呪いかは知らないが、解呪の術者を探しておいた方がいいと思ってな。とはいっても、昼間、嬢ちゃんのために術者を探してたときも、芳しい成果はなかったんだがな」
それから丙が、
「私は店に戻って、しこたま武器を整備しておくわ。戦争よ、戦争! クロの弔い合戦!」
「死んでないから」
紅月に冷静に突っ込まれつつ、二人は揃って家を出て行った。
それから忍と葵が、こんなことを言いだした。
「宵音っていう女、それに、蛇……この状況は、久霧の郷で化け狐共がやられたのと似ていると思うんだ」
「狐たちに聞けば、呪いに関する手掛かりが得られるかもしれません。私と忍は、もう一度久霧の郷へ行ってみようと思うのです」
そういうことで、二人ははるばる久霧の郷へと旅立っていった。残された桜子は、必然、クロの世話をすることになる。
つらそうな顔で眠り続けるクロを見ていると、桜子はどうしようもなく苦しい気分になる。みんなクロのために頑張ってくれている。なのに、自分はどうだろう? ただクロを見ているだけで、何もできない。その苦しみをほんの少しでも癒してあげることができない。ここまで無能だと、呆れてものも言えない。
「ごめんね、クロ……私が、お母さんみたいに強ければ、あなたを助けられたかもしれないのに。こんな私で、ごめんね……」
★★★
解呪の力を持つ妖怪を探し、郷中は勿論、郷の外まで足を伸ばして駆けずり回ってみたが、結局すべて空振りに終わった。あんまりにも役立たずすぎて、紅月は大きく溜息をついた。
「くそったれが……なんで呪祓いの一つや二つ、できる奴がいねえんだっての……」
しかし、呪祓いがそう簡単にできるものではないということは、紅月もよく解っている。まず強い妖力を持っていることは勿論のこと、その力に浄めの性質があることも必須条件だ。そこそこ妖力の強いクロや紅月、忍や葵でも、浄めの属性を持っていないから、呪祓いはできない。
この浄めの力というのがなかなか厄介で、持っている者は稀なのだ。紅月が知る限り、その力を持ち、呪祓いをやってのけた強者は、一人しかいない。
すなわち、桜鬼。
ふと考える。もしかしたら、桜子にも、桜鬼・緋桜の浄めの力は受け継がれているかもしれない、と。その可能性は、低くない。桜子は、自身にかけられた呪いを解くことに成功している。理論的に、呪いをかけられたものは自力で解呪が可能である。だが、そこに浄めの力も関わっているとすれば、半妖であり、今まで呪術に触れたことのなかった桜子が初めてにもかかわらず解呪に成功したのも頷ける。
彼女自身は、妖力などからっきし、と言ってはいるが、厳密に言えば、まるきり妖術が使えないわけではないことを、紅月は知っている。桜子はいつか、紅月の記憶を読み取ってクロの窮状を知ることができた。記憶を読み取るのは、緋桜が得意としていた妖術の一つだ。
やはり、桜子は緋桜の力を、わずかとはいえ受け継いでいる――そう考えるのが自然だ。となると、わざわざ遠くまで探しに行かなくても、桜子の秘められた能力を開花させる方が、希望があるのではないだろうか?
「もしそうなら……足りない妖力を補う方法はある。それに懸けてみるべきか?」
そう自問しながら紅月が思案に耽っていると、慌ただしい足音が近づいてくるのに気づく。
誰だろうと思っていると、暗い夜道に姿を現してきたのは、息せき切って走ってきた忍と葵だった。
「紅月! まずいことになったぞ!」
忍が切羽詰まった様子で叫ぶ。二人の焦燥の表情に、紅月はどうやらただ事ではなさそうだと直感する。今でさえ既に厄介事が積み重なっているというのに、この上何が起きるというのだ。
忍に促され、紅月たちはクロの屋敷へ走りながら話す。
「今、久霧の化け狐連中を問い詰めてきて、例の呪いのことを聞いてきた」
「どうだった?」
「奴ら、何かに操られて戦ってただろ? 連中はその時の記憶はちゃんとあるらしいんだが、自分の体なのに言うことをきかなくて、まるで他人に乗っ取られて無理矢理動かされてたみたいだったって言うんだ」
「何?」
「それで、郷の長老の天満と、その側近だという空湖とも話し合って、もしかしたら、っていう推測はたった」
「おそらくあれは、『呪い』というよりも『憑依』に近い妖術なのではないでしょうか」
「憑依?」
「私たちは、狐たちの中から黒い妖力の塊……蛇のようなものが抜け出て行くのを見ました。それまで、彼らの中には蛇がいたのです。そして今回、クロの中にも、黒い蛇が入り込んだのです」
「……クロは、蛇に憑依されているのか」
「おそらく蛇には意志があって、それは術者である宵音の意志が反映されているはずです。彼は妖力が強いですから抵抗している……けれど、完全に蛇に意識を乗っ取られれば、狐たちのように正気を失い、蛇の命じるままに動いてしまう可能性があります」
「そういうわけだから、解呪の目途は立たねえが、クロが蛇に支配されて問題を起こす前に動きを封じておいた方がいい。それに、今は、姫さんと一緒なんだろう?」
「あ、ああ」
「嫌な予感がするんだよ。蛇は宵音の命令を受けていて、宵音は朽葉の命令を受けているわけだろ? 朽葉はかつて、桜鬼・緋桜の天敵だった。忌まわしい敵にそっくりの忘れ形見を、朽葉が放っておくわけがない。思えば、最初の襲撃も、狙われたのは姫さんだった」
紅月はたった今まで自分が考えていたことを思い出す。
桜子は緋桜とは違う。だが、似ている。緋桜を思い出させるくらいには似ている。
その面影。優しさ、公正さ、意志の強さ。そして、緋桜の妖力を受け継いでいる。
仇敵・緋桜を思い出さずにはいられない忘れ形見の桜子を、朽葉が付け狙うとしてもおかしくない。
そして朽葉の目的はもう一つ――自分の血を、忌まわしき金色の瞳を受け継ぐクロを手に入れること。その二つを、朽葉は果たそうとしている。
だとすれば、正確に言うなら、最初に狙われたのは桜子ではない。
朽葉の狙いは最初から、桜子とクロだった。
あの二人を引き裂く。桜子を陥れ、クロを手に入れ、その縁を断ち切ること。それが、奴の望みだ。
「まずいな……だとすれば……」
クロにかけられた呪い、取り憑いた蛇が為そうとすることには、簡単に予想がつく。
「嬢ちゃんが危ない……」
★★★
ふと、額の上のタオルに触れてみると、また温くなってしまっているのに気づいた。
桜子は外したタオルを傍らの盥に汲んだ水に浸して冷やす。真冬の冷水に浸して悴んだ手で固く絞って、再びクロの額に載せてやろうと振り返る。
「……?」
だが、そこにクロは横たわっていない。視線を上げると、先程まで意識を失ったままだったクロが、立ち上がっている。
「クロ! 目が覚めたの?」
桜子は飛びつくように立ち上がる。それを押しのけるように、クロの左手が桜子の肩を掴んで体を押した。思いのほか強い力に驚いているうちに、桜子は強引に壁に押しつけられた。殆ど壁に叩きつけられるようにされて、桜子はようやく、クロの様子がおかしいことに気づく。
「クロ……?」
不安げに窺うように名前を呼ぶと、視線がゆっくりと上がって、目が合った。
「!」
普段は金色に輝いている瞳。宵音によって右目が漆黒に染められ、そして今は、両目とも闇色に侵蝕されている。
「ク、ロ」
声が思わず上擦った。掴まれたままの肩が軋むほどに痛みを訴えていた。身動きが取れない。
だらりと垂れさがっていたクロの右手が徐に持ち上げられる。その指の先では、鋭く伸びた爪が刃のように光っていた。
その爪が明らかに、自身の喉笛を狙っているように見えて、桜子は戦慄する。
「クロ!」
名前を呼んでも、彼は応じない。正気ではないのだ。久霧の郷の天満のように、何かに操られているのだと解った。
これが呪いの正体なのかと気づくのと同時に、クロの爪が桜子に迫った。
「やめて……やめて、クロ!」
ざくり、と無残に引き裂かれる音がやたらと鮮明に響く――




