10 金の瞳は閉ざされる
真ん中から綺麗にぽっきり折られて吹き飛んでいった氷の剣を見て、雛魅は僅かに目を見開いた。だが、驚いたような表情を見せたのはほんの一瞬だけで、すぐにおっとりとした微笑みを浮かべた。
「まあ、激しい」
言いながら、雛魅は今度は左手に氷の剣を作り出した。
氷を作るのは水、そして水は空気中どこにでもある。すなわち、雛魅の武器はどこにでもあるというわけだ。ゆえに、一本剣が折られたところで痛手ではない。失った分また作ればいいのだから。
雛魅は氷の刃で、息つく間もなくクロに斬りかかる。それをクロは避け、時に受け止め、隙をついて斬り込む。
二人の斬り合いを遠巻きに見守りながら、桜子は、胸の中で嫌な予感が膨らんでいくのを感じた。静かな攻防だ。雛魅は次から次へと武器を剣を生み出し襲いかかる。だが、攻撃自体はさほど強力ではない。避けられないほど素早いわけでも、忍のようにパワーがあるわけでもない。言ってしまえば、決め手に欠ける単調な攻撃。決して脅威ではない。現に、雛魅の攻撃はクロに当たらないが、クロの刃は時折雛魅の体を掠めていた。
一見するとクロの優勢。だが、なぜか不安が拭えない。水面下で静かに迫ってくるような、この言いえぬ不安感はいったいなんだ?
思わず詰めていた息を吐き出すと、真白い息がふわりと広がり霧消していく。だが、不安は消えてくれない。胸の奥で燻っている、不気味な何か。
雛魅の剣がクロの首を狙って振るわれる。だが、遅い。クロはそれを身を屈めて躱してみせる。そんな攻防をじっと見つめているうちに、閃いた。
「……、そう、か」
桜子ははっとする。喉の奥に小骨が引っ掛かったみたいな気持ちの悪い違和感の正体に、やっと気づいた。雛魅の動きは決して速くない。半妖の桜子よりは当然速いし、桜子は避けられないだろうが、妖怪にしてはたいしたことない。紅月や忍の動きよりずっと遅い。
それなのに、クロが攻めきれていない。なぜか――ふだんより、彼の動きも遅いからだ。だから、格下の相手に決定的な一撃が与えられていない。
クロの吐息は真っ白だ。白い横顔は、いつも以上に血の気を失って青白い。
クロの動きを鈍らせている、見えない攻撃――冷気。
雪女・雛魅がその体からあたりにまき散らしている冷気が、クロを凍えさせている。寒さで悴んだ体は、否応なくその動きを鈍らせてしまう。このままいけばどうなるか。いくら寒さが苦手だとは言っても、雛魅に劣るほどまでクロの身体能力が落ちるとは考えにくい。最悪、互角といったところだ。互角では決着はつかない。それでは、「手早く始末をつける」ことはできない。
だとすれば、考えられるのは一つ。
別の真打が潜んでいるのだ。
「クロ、気を付けて! そいつの狙いは……」
キィンっ、と。
深く考えず、とにかく伝えなければと警告が口を突いて出たが、それを言い切る前に、刃のぶつかる音が高々と響き、桜子の声をかき消す。そしてあまつさえ、鍔迫り合いの最中、雛魅は空いた手で小さな氷のナイフを作り出すと、手首を軽くスナップさせただけで、びゅんと素早く下手投げで擲った。
ナイフは桜子の頬を掠め、髪を攫っていき、背後でぱりんと砕け散った。
皮膚が薄く裂け、頬から一滴、血が溢れるのが解った。
「……っ」
思わず息を呑む。雛魅は薄ら笑いを浮かべていた。
今のは警告だ。死にたくなかったら大人しくしていろ、と。
「てめえの、相手は……」
「!」
ぎちり、と刃の軋む音。クロが低い声で苛立ちを露わにしていた。
「俺だろうがッ!」
クロの妖刀が雛魅の氷の刀を押し切り、跳ね飛ばす。刃が離れた瞬間を逃さず大振りされた妖刀は、雛魅の何本目かの刀を折り砕いた。
「あらあら……ご立腹のようですわね」
くすくす笑いながら雛魅は肩を竦め、距離を置く。
「クロ……」
「解ってる!」
クロは短く告げる。大丈夫だから自分の身を守ることに集中しろ、と言いたげだった。
桜子が再び声をかける間もなく、攻防は再開される。雛魅が氷の剣を両手に作り出して、クロに接近するや同時に振り下ろす。それをクロは刀身で受け止め力任せに押し返す。白いスカートをふわりと揺らし、雛魅は軽い跳躍で再び後退する。
その後ろで、氷の壁にぴしりとヒビが入る。中で誰かが牢をぶち破ろうとしているのだろう。それをちらりと一瞥すると、雛魅は肩を竦める。
「頃合いのようですね」
雛魅が謎の呟きを漏らした直後、クロの足元で影が蠢いた。
にゅるり、とうねる物が地面から飛び出し、クロの脚に絡みつく。それは、真っ黒な蛇のように見えた。
「っ!」
そうしてクロの動きを封じた上で、次いで足元から飛び出してきたのは、髪の長い黒服の女。久霧の郷で朽葉と共にいた、あの女だった。
突如現れた女は、難なくクロの懐に潜り込む。クロは咄嗟に刀を振るうが、鈍い刃を女はあっさりと躱す。そして、クロの目の前に右手をかざした。
「『憑蛇』」
女の右手から黒い蛇の頭が覗き、長い体が飛び出した。そして、鎌首をもたげた黒い蛇は、一瞬のうちに、クロの右目に飛び込んだのだ。
「クロ!!」
「がっ、ぁあああああああッ!!」
絶叫と共にクロの体が傾ぐ。手から零れ落ちた妖刀が地面に落ちて、黒い霧となって消える。そして、数拍遅れてクロが地面に倒れ落ちた。
桜子は思わずクロに駆け寄る。それは取りも直さず敵の目の前に無防備な状態で躍り出ることを意味していたが、立ち止まってなどいられなかった。
クロの傍らに跪き、びくびくと痙攣する体を抱き起こす。触れた体はぞっとするほど冷え切っていた。唇をきつく噛みしめているが、耐え切れずに苦痛の声が漏れ出している。
「クロ、しっかりして!」
「ぁ、ぁぁっ……!」
苦しげに目を閉じるクロの手が、縋る物を求めるように彷徨う。やがて桜子の手に触れると、ぎゅっと握りしめた。固く、きつく、耐えるように掴んできたクロの手も、やはり驚くほど冷たい。
桜子はクロの手を握り返しながら、目の前に立つ女をキッと睨みつける。
「何をしたの!」
「呪いをかけたのですよ」
女はなんということはないというように答える。
「私は宵音。朽葉に仕える呪者です。雛魅の狙いには気づいて、私のことを警戒はしていたようですけれど、解っていたところで防げるものでもありません」
宵音――久霧の郷で、化け狐の果林が幾度となく漏らしていた敵の名前だということには、すぐに気づいた。
宵音はくすりと小さく笑って、右手を掲げる。
「苦しそうですね。なまじ妖力が強いせいでしょう。抵抗するからつらいのです。今、楽にしてさしあげます」
そう言うと、掌から再び黒い蛇の頭を覗かせる。
これ以上手を出させてたまるものか――桜子は反射的に、自分の体で庇うようにクロを抱き寄せた。
その時、轟音と共に雛魅の背後の氷牢が砕け散った。桜子ははっと視線をやり、宵音もまた肩越しに振り返った。そして、何かに気づいたように舌打ちすると、さっと身を翻して桜子たちから離れる。直後、宵音がいた場所を弾丸が通過して行った。
牢を破壊して脱出した紅月が、桜子たちの窮状にすぐさま気づいて、すかさず弾丸を撃ち込んだようだ。
「無粋な邪魔が入ったようですね。まあ、いいでしょう。雛魅、行きましょう」
「はぁい」
紅月たちが参戦してくると知るや、宵音と雛魅はあっさりと退散していった。
助かった、と安心しかけて、全然助かってないことを思い出して、桜子はクロを見遣る。
「クロ! ねえ、クロ、しっかり!」
桜子の呼びかけに応じて、クロがうっすらと目を開ける。その瞬間、桜子は絶句した。
蛇が吸い込まれていった右目――美しい金色だった彼の目が、禍々しい闇色に染まっていたのだ。
「クロ……!」
「桜、子……、……っ」
唇が小さく震えて、何か言葉を紡ごうとしているのが解った。だが、それは結局声にはならなかった。やがて、桜子の手を掴んでいたクロの手から力が抜けて、ぱたりと地面に落ちる。目を閉じ、ぐったりと重さを増す体を抱きとめ、桜子はクロの名前をひたすら呼び続けることしかできなかった。
★★★
「あーあ、酷い目にあったな、まったく」
深刻さの欠片もないような声でぼやくのは、隠れ家で休息中の朽葉であった。甲斐甲斐しく手当をしてくれる仲間がいないため、クロに斬られた腹と右目は自分で応急処置をした。元々妖の体は頑丈だ、致命傷さえ避ければ、まあ、なんとか死なないものだ。だが、斬られた目だけはどうしようもないだろうな、と思いながら、眼帯で傷を覆う。半分になった視界に眉を寄せるが、失ったものはどうしようもない。
しばらく待っていると、出払っていた仲間たちがぞろぞろと帰ってくる。戻ってきた白と黒、対照的な女二人を見遣り、朽葉は手を挙げる。
「おう、宵音、雛魅。首尾はどうだ?」
「手筈通り、『蛇』は植え付けてきました」
宵音は淡々と報告し、それから少し不機嫌そうに顔を顰めた。
「ですが、正直、この最終手段を使う羽目になるとは思っていませんでした。すべてあなたが片づけて終わりのつもりでしたのに、予定外に働かされて、しかもあなたは傷を負ってとっとと退散、私たちに後始末を丸投げするなんて」
「いやぁ、なかなか思い通りに動いてくれない可愛くないガキでさぁ、ほんと困っちゃうよね」
飄々と言う朽葉に、宵音は冷ややかな視線を返すだけだった。ばつの悪くなった朽葉は咳払いをして、強引に話題を変える。
「そ、そういえば、弦巻と細波はどうした?」
「二人なら、暇だからと言って寒中水泳に出かけましたが」
「馬鹿かあいつらは」
そう言ってから、ああそうだ馬鹿なんだっけと思い出す。
「まあ、いいか。今は特にすることもないし、俺も傷が癒えるまでは動きたくないし」
「それに、今は結果が出るのを待つときでしょう」
「そうだな。といっても、解りきっている結果を待つのは、そんなに面白くはないな」
「そうですか? 私は面白いですよ。殿方が血反吐を吐いてのた打ち回る姿を想像するのはとても楽しいです」
「あーちくしょう! うちのパーティーには馬鹿と変態しかいねえのかよ!」
「あら、朽葉様ったら酷いですわ。私まで馬鹿と変態のくくりに入れるんですか?」
「あーはいはい悪かった雛魅。お前はただのドSだっけな」
朽葉は投げやりなフォローを入れた。
文句をぶーぶーと言ってくる二人を無視して、朽葉は床に横になる。
目を閉じて、思い浮かべる。宵音、雛魅、弦巻、細波、そして、最後の一人。
「もうすぐで全員集合だ。六人揃ったら、俺たち『黄金の日暮れ団』は復活の狼煙を上げる。派手に暴れてやるぜ――このぬるま湯みたいな世界を、混沌に沈めてな」
歪んだ願望を胸に抱き、朽葉は最後の一人を待つ。




