7 別れ、それから慟哭
クロが部屋を出て行ったあと、桜子はベッドに横になって目を閉じて、しかし眠ることはできずにいた。気を遣ったらしい百花は「あの馬鹿猫なにをちんたらしているんだ」などとぶつぶつ言いながら部屋を出て、桜子を一人にしてくれた。
こんなに憂鬱な気分になるのは、初めてかもしれない。わけのわからない呪いをかけられてしまったことは、まったく怖くないと言えば嘘になるが、さほど精神的にきついわけではない。そんなことよりも桜子の心を占めて重くのしかかっているのは、朽葉につきつけられた言葉だ。
熱のせいで重い頭で思う。
あの言葉がすべて本当だとしたら――そんなこと、怖くて考えたくもない。目の前にクロがいて二人きりになっても、恐ろしくて確かめることなどとてもできなかった。ゆえに、朽葉と話したことは彼には隠し通した。
クロが自分に抱いている感情が友情であってほしい。そう願いながらも、桜子は友達に嘘をついた。なんて勝手なんだろうと、自嘲気味に乾いた笑いが零れる。
「ごめんなさい……クロ……」
熱に浮かされた頭で譫言のように呟く。
誰にも聞かれることのないと思っていた言葉だった。ゆえに、直後に部屋に固い足音が響いた時には、桜子ははっと目を開けて――結局闇が広がるばかりで何も見えはしないのだが――やたらと重く、汗ばんだ体を起こして、そこにいるのが誰なのか、そっと気配を探った。
見えないし、声も聞こえない。
だが、足音の感じ、息遣い――それだけで解る。
「クロ」
そこにいる相手が、小さく息を呑んだ気配がした。
確か、千年堂へ向かったはずのクロだが、戻ってきたようだ。彼が出て行ってから、もうそんなに時間が経つのだろうか。時計は当然見えないし、自身の時間の感覚もあまりあてにできないせいで、桜子にとってはまだほんの数分しか経っていないような気分だった。実際には、もう長い時間が経っているのかもしれない。
足音がそっと近づいて、桜子の傍らに立った。そちらに顔を向けると、小さな溜息が漏れる音が聞こえた。そして何の前置きもなく、クロは告げた。
「朽葉に会ったよ」
「!」
その一言だけで、桜子は心臓をぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
クロはもう全部知っているのかもしれない、朽葉が桜子に何を告げたのか。桜子が何に怯えているのかを。
知られたくなかった。知られてしまえば、有無を言わせず、答えを確かめることになってしまうからだ。朽葉の言葉は全部デタラメだったのか、それとも……その真実を知ることになるからだ。
本当か嘘か、解らないまま、答えが出ないまま宙ぶらりんになっているのは苦しいことだった。だが、それでも、本人の口からすべてを語られることへの不安を思うと、苦しいままでいる方がまだマシだとすら思えた。
しかし、クロがすべてを知ってしまったというなら、もう後戻りはできない。その口から何が語られるのか、腹を括るしかない。
ところが、クロが続けたのは桜子の予想を裏切るものだった。
「俺は確かに朽葉の血を引いている。そのことを今までずっと誤魔化したままでいたのは、悪かったと思ってる。今頃になって、しかも朽葉の口から聞かされて……お前が俺を疎ましく思うのも無理はない」
「え……?」
思いがけない言葉に、桜子は瞬きを繰り返す。彼が何を言っているのか、すぐには解らなかった。
クロを疎ましく思ったことなど、一度もない。なぜクロがそんなふうに思っているのか、理解が及ばなかった。
桜子の戸惑いをよそにクロは淡々と続ける。
「お前はずっと優しかった。異端の俺に対しても、勿体ないくらい優しかった。だけどそれは、何も知らなかったからだ。俺の中に忌まわしい血が流れていること、それが真実だと知れば、今まで通りにいかないのは当然だ」
「待って……何を、言っているの」
「そのことでお前を責めも詰りもしない。今まで通りの優しさを求めもしない」
「待ってってば……何言ってるのか、解らないよ!」
ついには叫びを上げる。だが、クロは待たない。
何かが決定的にすれ違っている。歯車が狂い、食い違い、軋みを上げている。
取り返しのつかないことが起きている――桜子はそう直感した。だが、狂い始めた歯車を止める術を、知らない。
「俺は朽葉と行く。お前とはここでお別れだ」
その瞬間、視界に広がる暗闇がいっそう深くなった気がした。
たった今突きつけられた言葉が受け入れられなかった。地面が崩れて、虚空に放り出されてしまったかのような、闇の中に突き落とされるような錯覚を感じた。それくらい、衝撃で、絶望的な――離別の宣言だった。
「なんで……なんでそんなこと言うの」
「その方が、お互いのためだろ。……話はこれで終わりだ」
有無を言わさずそう告げて、こつん、と踵を返す音。去っていく足音に迷いはなく、あっという間に離れていくのが解った。
「待って、クロ、行かないで!」
桜子は慌てて追い縋ろうと、ベッドを下りる。だが、熱のせいでふらついて、足が縺れて転んでしまう。床に体を強かに打ちつけ、鋭い痛みに唸っているうちに、クロの気配は完全に消えてしまう。
諦めてはいけない、今からでも追いかけろ――頭でそう命じるのとは裏腹に、心のどこかでは直感している。クロは待ってくれない。追いかけても間に合わない、と。クロが本気で別れるつもりだというのなら、追いつかせてくれはしないだろう、と。
――私は馬鹿だ!
すべて手遅れになってから桜子は気づく。クロは、桜子のおかしな態度が、クロと朽葉の血縁関係を知ったことにあると考えていた。おそらくは朽葉が、クロがそう思い込むように仕向けたに違いない。いつもの調子なら、クロが朽葉の戯言を信じることなどなかっただろう。だが、桜子がクロに対して隠し事をして、嘘をついていた、その不審な態度が朽葉の巧みな言葉を裏付ける結果になってしまったのだ。
怯えて、不安がって、何も打ち明けないでいたせいで、すれ違ってしまった。不安に縛られてクロに確かめようとしなかったせいで、クロを傷つけてしまった。
最初からクロにすべてを話していればこんなことにはならなかったのに。今更言っても詮無きことだが、そう思わずにはおれない。そうすれば、彼を傷つけ、独りにすることなどなかったはずなのに。
自分の愚かさ加減に打ちひしがれて、桜子は立ち上がれなかった。取り返しのつかないことになった現実に愕然とするばかりだった。
友達を失いたくないと願ったはずだったのに。その願いのために自分がしたこと、否、しなかったことのせいで、失うことになってしまった。その皮肉で愚かな結末が、桜子を責め苛む。
「クロ……っ」
届かないと知りつつも、名前を呼ばずにはいられない。
名前を呼ぶごとに、絶望と一緒に涙が落ちる。
「違う……血なんか、父親なんか、関係ない…。クロはクロよ。今までも、これからも、それは変わらない……お願い、戻ってきて、クロ……」
答えは返ってこない。部屋に虚しく響く自分の声を聞いて、果てのない暗闇の中で桜子は泣き続ける。
「怖かったの、確かめるのが怖かっただけなのよ……あなたが、今でもお母さんのことしか見ていないんじゃないかって、友達だと思ってるのは私だけなんじゃないかって、怖くなってしまった、だけなの」
全部話していればよかったのだ。
朽葉の言葉などではなく、クロを信じていればよかったのだ。
クロを疑ったわけではない。だが、不安に負けて、信じきることができなかった。朽葉の言葉に踊らされた。悔やんでも悔やみきれない、過ちだ。
「ごめん、クロ……ごめん……!」
嗚咽交じりに謝り続ける。
いちいち気にしてんじゃねえよ――春のときのように、笑いながらそんな風に言ってほしい。我が儘にもそんな希望を持ってしまいながら、桜子は泣いていた。
だが、そんな言葉が返ってくることは、なかった。




