5 笑顔も光も失って
それからが大変だった。半狂乱になった翠を落ち着かせて、まともな会話を期待できなくなった翠に代わってクロが百花を呼びに行った。露骨に嫌そうな顔をする百花を宥めすかして桜子を診てもらうまでに五分はかかった。
ベッドの上で体を起こす桜子は、目はしっかり開けている。だが、何も見えないという。百花はペンライトで桜子の瞳を照らすが、それにも桜子はまったく反応しなかった。医療にあまり通じていないクロでも、それが不自然だということくらいは解った。普通、明るい場所では瞳孔が小さくなり、暗い場所では大きくなるものだ。それは意識的に行うことではなく、勝手に起きる反応だ。それがないというのは、どう考えてもおかしい。桜子の目には光が映らなかったということになる。
百花は外傷はないと言ったが、やはりどこか悪くて、目に影響が出てるのでは、といくらか落ち着いてきた翠が進言する。だが、その可能性はないだろう、とクロは思っていた。性格は悪いが、百花の医師としての力量は確かだ。診断をミスすることはありえないだろう。
百花は「百目」という妖だ。目が百個ついているわけではないが、目を百個合わせても及ばないくらいの超常的な視力を持っていて、眼帯を外して右目を解放すると、あらゆるものを見抜くことができるという反則的な能力を持っている。もっとも、彼女が眼帯を外すところなど、よほどのことがない限りお目にかかれない。右目は「見えすぎて逆に不便」という理由でふだんは封じているのだが、右目を解放せずとも、百花は常人には見えないものを平然と見通すのだ。体の傷や病気の具合程度なら、見抜くのに二秒とかからない、ということだけは信頼できる。
「何度視ても、やはり怪我も病気も見当たらない。体に異常はないはずだ」
百花が珍しく困った顔で告げる。自分の判断に自信がないわけではない。自信があるからこそ、それゆえに説明できない桜子の症状に困惑しているらしい。
「……もしや」
百花ははっと何かに気づいたように目を見開く。眼帯を外してその下の右目を露わにした。菫色の右目がじっと桜子を見つめていたのはほんの数秒のことだ。
「成程……微かだが、邪気が纏わりついているのが視える。誰かが妖術をかけた証拠だ」
言いながら百花は早々に右目を封じる。
「体には、やはり異常はない。この妖術はむしろ、精神を脅かそうとしている……そういう類のものだ」
「妖術……いや、呪術というべきか」
そういう呪いを得意とする存在を、クロは知っている。
「誰にやられた?」
そう問いかけながらも、クロにはその答えに察しがついた。
はたして、桜子の答えは、クロの予想した通りのものだった。
「……朽葉に、会ったわ」
「やっぱり、そうか」
「人間の世界に朽葉が来てて私を待ち構えていたの。それで、強引にお墓に連れて行かれて、話をして……気づいたら意識を失っていて、目が覚めたらこのとおりよ」
クロは思わず歯噛みする。再び朽葉と遭遇することは避けられないだろうと思っていたが、よもや自分のいないところで桜子に手を出されるとは思わなかった。人間の世界にまで当たり前のように出没するのでは、安全な場所など存在しないようなものだ。
「今は目が見えないだけだが……いや、それでも十分深刻だから、だけという言い方は適切でないかもしれないが……この先命にかかわるような状態にならないとも限らない。呪いを解くのは早い方がいい」
百花がそう言うのに、クロは小さく頷く。
「症状が悪化する可能性は確かにある。呪いは、かけた奴が解くか、かけられた奴が解くかの二択が基本だ。朽葉をぶっ飛ばすのが一番早い。いずれそのつもりだった、予定が早まっただけだ」
「しかし、そう簡単に行くかね。朽葉が呪いで桜子をどうにかしようとしているなら、解呪されないように姿をくらます可能性もあるだろう。それよりも、呪祓いをできる奴を探す方が早くないか?」
「俺の交友範囲の狭さを知っててよくそんな提案ができたな、百花」
思わず顔を顰めるクロだが、百花の言っていることが理に適っていることは確かだ。しかし、クロがものを頼めそうな知り合いというのはものすごく少ない。
「喧嘩なら迷わず紅月を顎で使うんだが、呪祓いとなるとな……万能店主の丙には声をかけてみてもいいが、さすがに今回ばかりは期待できないだろうな。あとは、鬼の郷まで足を伸ばせば、葵が一番可能性がありそうだが」
「でしたら、その方々には私が話をしてまいります」
そう申し出たのは翠だった。
「紅兄様と一緒に、他にもできるだけ伝手を当たって、呪祓いのできる妖を探してまいります。ですから、クロ様は桜子様についていてあげてください。朽葉がまた襲ってこないとも限りません。クロ様が桜子様の傍にいらっしゃれば、安心でございましょう?」
「ああ……そうだな、そうしてくれるか、翠」
「彼女の護衛ということなら、私がついているからお前は消えてくれていいんだぞ、クロ」
「駄目だ、お前と二人きりになんかさせたら大変なことになる」
自称・大の男嫌いで、自称・大の女好きであるところの百花。周りの目がなくなった瞬間、桜子に襲いかかる可能性も、皆無ではない。
結局、翠が慌ただしく部屋を出て行った後、百花のことも半ば強引に部屋から追い出した。
二人きりになったところで、クロは改めてベッドの上で俯いている桜子を見遣る。
らしくない、と思う。
いつもの調子なら、自分に手を出してきた朽葉に対して散々な罵倒を浴びせかけて「次会ったら承知しないからね!」とでも鼻息荒く宣言しそうなものだ。今までも何度か敵に襲われ危ない目に遭ってきた桜子だが、だいたいは落ち込んだり恐れ慄いたりするより、キレたり逆襲に燃えたりする方が多かったはずだ。それが今は、借りてきた猫みたいに黙りこくっている、鬼なのに。
眉間には珍しく縦皺を刻んでいて、唇は固く引き結んでいる。両手で毛布をぎゅっと握りしめている様子は、何か苦痛に耐えているようにも見える。
「桜子」
名前を呼ぶと、桜子はびくりと肩を震わせた。ゆるゆると顔を上げて、クロの方を見る。実際には見えていないのだが、声のする方からクロがいる場所はだいたい解るようだった。闇しか見えないという彼女の瞳に浮かんでいるのは、微かな恐怖の色のようだと、クロは察する。
「朽葉と何を話した?」
「……」
「さっきっから、お前、様子が変だよ。朽葉に貧乳っぷりを馬鹿にされて傷ついたとかか?」
「……そんなんじゃないわ」
決定的におかしい、とクロは確信する。わざわざ冗談めかして言ってやったのに、目が見えないことを考慮したとしても、罵倒も平手打ちも飛んでこないなんておかしい。
「朽葉に何か変なことを吹き込まれたか? 目が見えなくなる呪い以外にも、なにかされたか?」
「何もないわ」
「自覚がないようだから言ってやるが、お前は嘘も隠し事も下手くそだ」
自分と違って表裏のない性格で、誠実で、嘘も隠し事もする必要のない少女なのだから、それも当然だろうが、とクロは思いながら、さらに追及する。
「奴と会って、何かあったんだろ」
「何もないってば」
「俺に言えないことか」
「違う……ほんとに、何もなかったもの」
ふるふると力なく頭を振って桜子は一貫してそう訴える。だが、その言葉を鵜呑みにはできなかった。どう見ても、桜子の表情は、何もなかったときのそれではない。苦しそうで、悲痛、という言葉がぴったりと当てはまる。
「何も……隠してないもの……」
泣きそうな声でそんなふうに言って桜子は項垂れる。
今までに彼女の様々な表情を見てきた。
だいたいいつも笑っている少女だった。時には怒って、時には泣いて、時には誰よりも懸命になる。だが、こんな、どうしようもなく苦しい、嘆きの顔を見るのは初めてで、クロはこれ以上どう声をかけるべきか、考えあぐねる。
桜子から否定以外の言葉が出てこないものかとじっと待っていると、彼女の顔が妙に赤らんでいるのに気づく。
まさかと思って額に手をあてると、ひどく熱かった。
「お前、熱があるじゃねえか!」
「熱なんか、ないもの」
「つまんねえ嘘つくな馬鹿たれ」
先程追い出したばかりの百花を慌てて呼び戻す。部屋に飛び込んで桜子をちらりと見るなり、百花はクロをじろりと睨みつける。「病人に追い打ちをかけるなくそったれ」と痛烈な批判を浴びせかけられてしまった。
「ああ、ひどい熱だ。横になってなさい。おい、クロ、丙のところに行って、解熱剤を貰ってこい」
「医者のくせに薬も持っていないのか?」
「うちに常備してある薬では、半妖の彼女には強すぎるだろう。強すぎない薬を超特急で作ってもらって来い」
確かに、妖怪専門の上にほぼ重症患者専門みたいになっている百花の診療所では、置いてある薬が桜子に使えないというのも、おかしなことではない。
結局桜子の傍を離れることになってしまうのは不本意だったが、まがりなりにも医者である百花を使いっ走りにして自分が残っても仕方がない。彼女自身が言っていたように、百花の護衛としての力もそれなりに信頼できる。となれば、役割分担については議論を待たない。
「解ったよ、桜子のこと、くれぐれも、頼んだからな」
くれぐれも、というところをやたらと強調し、クロは渋々ながら桜子を百花に任せることにした。
部屋を出るとき、クロの背中に、消え入りそうな声で桜子が囁きかけた。
「……ごめんね、クロ」
「……」
何に謝られているのかよく解らなかった。その真意を確かめたい気持ちはあったが、それよりも彼女の体のことを優先するべきだろうと考え、クロはその言葉には応えないまま、早足に診療所を出て行った。




