4 裏切り者の暗躍
気づけば空は灰色の雲に覆われて、今にも雨が降るのではないかという空模様だ。暗鬱な空の下、桜子の顔も、いつの間にか曇っている。いつまでたっても不自然なくらい明るい顔をしているのは朽葉だけだ。
「君はクロに何度も助けられたよね。けれど、クロが君を助けるのは、君が緋桜の娘だからだ。決して、大事な友達だからじゃない。愛する主人のために、忘れ形見を緋桜の代わりに守っているだけ。あいつの行動原理は今は亡き主への忠誠であり、君との友情なんかではないんだ」
「いい加減なこと、言わないで。あなたは何も知らないから、そんなことを言うのよ」
確かに最初は、ただの穴埋め係だったかもしれない。だが、今は違うはずだ。桜子はそう信じている。
桜子とクロが交わした言葉を、朽葉が知るはずもない。春に出会い、四か月のすれ違いを経て、夏に確かめ合った。クロは桜子を「緋桜の代わり」としてではなく、「桜子」として見るようになった、彼自身がそう言っていたのだ。その言葉に、桜子がどれだけ安堵し、歓喜したか、朽葉は知らない。
「少なくとも、俺は君よりもクロのことを理解しているつもりだよ。なにせ、ほら、父親だから。あいつが何言ったか知らないけどさ、真に受けちゃ駄目だよ。だって、今までロクに友達を作れなかったお馬鹿さんだよ? そんな奴が、友情の何たるかを知ってるわけないじゃない。だからさ、クロ自身も勘違いしてるんだよ、自分が抱いている感情が友情だと、思い込んでるだけ。忠誠と友情を履き違えてるだけ」
「違う、そんなの」
声が上擦る。どうして朽葉の言葉に、こんなにも心を乱されるのだろう。桜子は自分でもおかしいと思うくらいに、心臓が締め付けられるような苦痛を感じていた。
桜子は信じている。信じようとしている。だが、胸の片隅に残る一抹の不安がどうしても消せない。「もしかしたら」という懸念が消えてくれない。その微かな不安を、朽葉の言葉は増幅させていくようだった。
「クロは君を見ていない。君を通して緋桜を見ているだけだ」
毒のように流し込まれる言葉。耳を塞ぐこともできず、桜子は毒を受け続ける。
「クロの心にはずっと、緋桜しか存在しないんだ」
気づけば桜子は俯き、拳をきつく握りしめている。感じているのは悔しさと、悲しさだ。
目に見えない心のことなど、証明する方法はない。ゆえに、朽葉の語る言葉を、頭でどんなに否定しても、その疑惑を完全に消し去ることはできない。だから、苦しい。敵の言葉に、こんなにも心を蝕まれるのだ。
「クロにとって大事なのは今も昔も緋桜だけ。そう、君だって本当は気づいているんじゃない?」
不意に、目の前が暗くなる。顔を上げると、すぐ目の前に朽葉が迫っていて、桜子の上に影を落としていた。今度は、朽葉から逃げようという考えが浮かばなかった。逃げることができなかったのだ。逃げなければならない、という当たり前のことを考えられないくらい、桜子の心は別の不安に支配されていたのだ。愉快そうに微笑む朽葉は、桜子が惑うのを見て、楽しんでいるに違いなかった。
「面倒な奴と関わり合いになっちゃったよねえ、君も。同情するよ。つらいだろう? 苦しいだろう?」
「私は……、」
「――つらい現実なんか、見たくないだろう?」
耳元で囁かれた瞬間、目の前が、今度こそ完全に真っ暗に染まった。
★★★
昼前から空は急に暗雲が立ち込め、ついに雨が降り出した。ただでさえ肌寒い季節だというのに、この上雨など降ったら、いっそう外に出る気にならない。部屋の外どころかこたつの外にすら出るのも億劫に感じるという冬限定の物臭気質を発揮しているクロは、相も変わらずヤドカリじみた格好で転寝をしていた。
ぬくぬくとこたつで寝転がっていると、どうしても眠くなる。こたつで寝ると風邪をひく、などとはよく言うが、生まれこの方こたつのせいで風邪を引いたことがないクロは、懲りずに午睡を満喫していた。
そんな微睡をぶち破ったのは、どたばたという激しい足音だ。家の玄関戸を勝手に開けて侵入してくる足音が聞こえたあたりで、クロは不機嫌全開で目を開ける。またぞろ桜子が不法侵入して来たな、と思って起き上がる。
昨日怒って飛び出して行ったというのに、いったい今日は何の用だと待ち構えていると、しかし、襖を開けて飛び込んできたのは予想に反して桜子ではなかった。その事実に拍子抜けして――つまりは自分は期待していたのか、ということに気づいて少し驚いて――改めて来客を確認すると、それは翠であった。兄の紅月にはあまり似ずおっとりと天然気味の少女を、クロは邪険にすることもできないので、不法侵入を咎める気にもならなかった。
目が冴えてくると、桜子同様、昨日もやってきた翠が、しかし今日はどうにも様子がおかしいようだと気づく。礼儀正しく、いつも良家のお嬢さま然としている彼女が、珍しく慌ただしく、挨拶もなしに飛び込んできたのだ。
「翠、どうした」
「た、大変です、クロ様! 四丁目の墓地に桜子様が倒れられているのが見つかって、今、病院に運ばれたそうです!」
「何だと?」
物臭気質などすっかり忘れて、クロはすぐさま立ち上がる。
「どういうことだ。なんてあいつが墓なんぞにいるんだ」
桜子一人でも妖の世界に来ることはできるし、実際桜子は何度もこちらの世界に来ている。ゆえに、妖の世界に来ていること自体は不思議ではない。だが、なぜ墓場などにいるのか。商店街からクロの家まで来る通り道にはないし、他のどの知り合いを訪ねるにしても、通るはずのない、郷の外れに立地しているのが四丁目の墓地だ。なぜそんな場所にいて、しかも倒れてなどいるのか。
「詳しい事情は解りません。ただ、ついさっき、墓守様が掃除に行って桜子様を見つけたそうなのです。今は、百花様が診てくださっているのですけれど」
「百花のところか……あいつの腕は確かだが、別の意味で心配だな」
野牙里の郷が誇る名医が、百花という女性だ。妖怪たちは無駄に体が頑丈で治癒力も高いから、たいしたことのない怪我や病気では医者にかかることはない。ゆえに、医者の出番があるのは必然、重傷・重病患者が出たときだけである。そんな厄介な患者を、しかし百花は表情一つ変えずに適切に治療する。ついた異名が「百花療乱」だ。これで性格に問題がなければ完璧なのだが。
「別の意味というのがどういう意味かは存じませんが、とにかく参りましょう、クロ様!」
翠に促され、クロは着の身着のままに家を飛び出した。
商店街を駆け抜けて、向かう先は三丁目の「百目診療所」である。診療所らしい清潔さを欠片も感じない薄汚れた灰色の四角い建物に入ると、白衣姿の女性が待ち構えていた。
派手な茶髪をポニーテールにしていて、右目には眼帯、口には銜え煙草(火はついていない)という、白衣以外は医者要素の存在しない姿をした百花は、クロを見るやあからさまに不機嫌そうな顔をする。ちなみにこれはクロが気に入らないというわけではなく、男が例外なく嫌いなだけである。
「百花様、桜子様の具合はいかがですか?」
翠が話しかけると、ころりと表情を穏やかにして、誠実に答える。
「奥のベッドで休ませている。おいで」
百花の案内で診療所の奥へ進む。蛍光灯の切れかかった薄暗い廊下を少し進んだところで左手にある入り口から入ると、部屋には建物の外見からは想像できないくらい清潔なベッドが一台あって、そこに桜子は横たわっていた。
「桜子」
その顔が、見たことがないくらい青白いのに気づいて、クロは思わず声を上擦らせた。そっと近づいて、血の気の失せた頬に触れてみると、驚くほど冷えていた。
「長いこと雨に打たれていたせいで、体が冷え切っている。だが、それ以外に特に外傷はない。そのうち目を覚ますよ」
百花がそう言うのを聞くと、翠が大きく安堵の吐息を漏らした。
「ああ……桜子様が病院に運ばれたと聞いた時にはたいへん驚きましたけれど、大事ないようでよかったですわ。百花様、しばらく傍についていてもよろしいですか?」
「構わんよ。私は診察室にいるから、何かあったら呼んでくれ」
そう言って、百花は部屋を出て行った。
おそらく桜子が目を覚ますまではずっとここにいるつもりだろう翠に、クロは部屋の壁に立てかけてあったパイプ椅子を運んできて勧めた。
「桜子様、早く元気になるといいですわ」
ベッドの傍らに座って、翠はそう一人ごちてから、徐にクロを見上げて言う。
「桜子様は、明日のクリスマスを、とても楽しみにしていらしたのですよ。明日には元気になると、いいのですけれど」
「百花の話じゃ大したことないみたいだし、こいつも体力には自信がありそうだから、明日には元気になるだろう」
「私も明日のことはとても楽しみにしているのです。昨日は、桜子様は怒ってしまわれたのかと思って心配したのですけれど、そうではないと解って私も安心しましたの。やはり四人一緒にパーティーをされるとおっしゃって、はりきっていらしたんです」
「……四人?」
「ええ。ところで、桜子様は『さぷらいず』とおっしゃってましたけれど、実は、お恥ずかしながら私はよく意味が解らなくて。クロ様はお解りになります? 日の出とともに開催するということですか?」
「……」
とりあえずサンライズは関係ない。
教えてやるべきか、しかし教えたら翠は今自分が口を滑らせたことの意味を知ってしまうわけだから、ここは黙っておくのがいいだろうな、とクロは思う。
子どもっぽいことを考える奴だな、と思う。それと同時に、そんなことを言ったらつまらない意地を張っている自分だって子どもっぽいではないか、ということに気づいて、クロはひっそりと苦笑する。
「早く目ぇ覚ませよ、桜子」
そうしたら、たまには――聖夜くらいは素直になって、付き合ってやってもいいかな。珍しく、そういう気分になっていた。
らしくない、とは思う。だが、そんなことを言ったら、クロは桜子と出会った時から、ずっと、らしくなかったと言える。
クロの言葉が聞こえたわけではあるまいが、桜子の瞼が震え、湿った睫毛が小刻みに揺れた。それに目敏く気づいた翠が声を上げる。
「桜子様? お目覚めになりましたの、桜子様?」
その声で完全に意識が覚醒したらしく、桜子がゆっくりと目を開いた。
それを見て、クロはいつもの調子で桜子をからかう。
「ったく、真昼間から路上で午睡とは、寝穢いにもほどがあるだろ」
一日中こたつで寝てる奴に言われたくない――そんな返答を期待してのことだったが、予想に反して、桜子はぼんやりとした表情で体を起こす。
「……クロ? それに、翠?」
「ええ、そうですわ。ご加減はいかがです? 外で倒れられていて、病院に運ばれたのですよ? 覚えてらっしゃいます?」
「……よく覚えてない。けど、体の調子は、悪くはないわ」
「それはよかったですわ」
「それより、ここ、どうして真っ暗なの?」
「え?」
翠が首を傾げる。桜子もまた、眉を寄せて首を傾げている。
部屋は、まあ確かに電灯が切れかかっていて薄暗いが、真っ暗というほどではない。だが、桜子は目の前にいるクロたちの姿も見えないというように、その瞳をふらふらと彷徨わせている。
「暗くて何にも見えない……ねえ、もう夜になっちゃったの?」




