3 突然すぎる遭遇
今頃奈緒は恋人と楽しくやっているんだろうな、と思いながら、桜子はホームセンターから家へ帰る道中にいた。だが、強がりでもなんでもなく、彼女を羨ましいとは思わない。桜子は桜子で、楽しみな計画が着々と進行中なのである。
高校生の懐事情にも優しい、安さがウリのホームセンターでクラッカーを大人買いした。右手のビニール袋の中に大量に突っ込んであるそれを見ると、気分が高揚してくる。
桜子の心境を写すかのように、空も晴れ晴れと青い。明日の二十五日も、天気予報によれば一日中晴れだという。ホワイトクリスマスというのも味があっていいとは思うものの、クロが寒がりなのを考えると、やはり天気は晴れでよかったと思う。もっとも、人間の世界の天気予報が妖の世界で通用するかは謎だが。
向こうも晴れだといいのだが、と思いながら、桜子は家へ向かう。静かな住宅街の、車通りの少ない道をゆったりと歩いていく。
と、自宅のすぐ近くまで来たところで、桜子は足を止める。家の前に、誰かが立っている。
前にもこういうのがあったな、と桜子は夏のことを思い出し、嫌な予感をひしひしと感じ始めていた。またぞろおかしな妖怪が桜鬼の力を頼りにやってきて、有無を言わせず拉致に走るのではあるまいな、と警戒する。さすがにこの数か月の間に妖怪に騙されまくった桜子はいい加減相手を疑うことを覚え始めている。どんなに可哀相な現状を訴えて助けてくださいなどと言われても、そう簡単に安請け合いはしないぞ、と決意を固める。
密かな決心を抱きながら、改めて謎の珍客の様子を遠目に観察する。廃れ気味のジーンズに薄汚れたブーツ、上着は黒の皮ジャンで、頭には帽子を目深にかぶっている。
あれ、と桜子は不思議な感覚を覚える。薄く微笑みを湛えた口元が、クロに似ているような気がした。だが、クロではない。割と背の高いクロよりもさらに身長があるし、やせ気味の体型ではあるもののクロよりも体つきは大きくがっちりしている。
気配で桜子の存在に気づいたらしく、正体不明の輩が振り返り、帽子を脱いでみせた。その下に現れた顔を見て息を呑む。
黒い猫耳に、金色の瞳、クロにどことなく似た顔。
二か月前、久霧の郷で一度だけ遠目に見た、あの男。
「裏切りの猫……朽葉……!」
なんの備えもしていないというのに、夢にも思わなかったいきなりのご対面。多少のことでは驚かないつもりだった桜子も、さすがにこれは予想外すぎて狼狽する。
「へぇ、俺の名前を知っててくれたのか。嬉しいな。俺って実は人気者?」
桜子の内心の動揺など知らず、朽葉は嬉しそうににこにこと笑っている。まるで親しい友達にでも向けるかのような笑みに、ひどい違和感を覚える。そんなふうに屈託なく笑いあうような仲ではないのに。
「どうして、ここに……」
緊張で上擦った声で尋ねると、
「勿論、君に会いに来たのさ。それとも、この場所を何で知ってるのかって話? でも、それについては今更不思議に思うこともないだろう。鬼連中が辿り着けるくらいだ、君は妖の世界に、自分の情報を落としすぎてたわけだ」
朽葉は饒舌に応える。
「そんなに緊張しなくていいよ、別に君を殺しに来たわけじゃないさ。君みたいなよわっちい半妖相手に暴力を振るったって興ざめだもんね。まあ、君の方は俺を殺したいかもしれないけど」
「なんで、私が」
「あれ? もしかして知らない? ふぅん、じゃあ言わない方が君のためかなぁ。ああ、でも、知らないままってのも気分が悪いだろうからやっぱり言っちゃうけど、君のお母さん、緋桜が死んだのって、ぶっちゃけ俺のせいなんだよね」
「っ!」
肌がぞわりと粟立った。恐ろしいことを、あっさりと口にされてしまって、どう反応すればいいのか、いまいち解らない。ただ、生理的な嫌悪感が背筋を這いあがった。
朽葉はいっそう自慢げに語る。
「だってさ、最強の妖怪って言われてた鬼が若くして死んだんだよ、病死とか老衰じゃないことくらい、想像はついてただろう? これくらいは聞いてたかもしれないけど、緋桜は『黄金の日暮れ』っていう組織と戦って傷ついたせいで、人間の世界に身を隠したんだ。あの時の戦いは激しくてね、緋桜はその時負った傷のせいで寿命を縮めたのさ。で、俺があの時彼女とガチバトルを繰り広げた『黄金の日暮れ』のリーダーってわけ。ま、彼女のせいでこっちだって壊滅的な痛手を負ったんだから、痛み分けってことで許してねー」
黄金の日暮れ――妖の世界に混沌を齎そうとしていた、桜鬼の天敵ともいえる存在。桜鬼は黄金の日暮れに壊滅的なダメージを与えたという話は、父の優一から聞いていた。だが、まさか例の裏切りの虐殺者がそのリーダーで、まだこんなにぴんぴんして生き残っていたとは思わなかった。
許してね、なんて軽い調子で言いながら、その実桜子を挑発していることは明らかだった。桜子の殺意を煽ろうとしている。なぜわざわざそんなことをするのかは解らない、だが、朽葉は桜子を怒らせようとしているのだ。
そうと解れば、そんな解りやすい挑発に乗ってやることはない。正直目の前にいる男には嫌悪感しか覚えないし、母が死んだ原因がこいつにあるとすれば一発くらいぶん殴ってやりたい気分でもある。だが、そんなことをしたところで母が生き返るでもなし、そもそもこの妖怪相手に拳が届くとも思えない。冷静さを欠けば相手の思う壺だ。
桜子は静かに深呼吸して、つとめて冷静になろうとする。
「わざわざそんなことを自白しに来てくれたわけ? そんな暇があるなら警察に出頭して豚箱にでも入ればいいのよ」
「ふぅん、意外と落ち着いてるな。つまんないの。まあ、いいか。別に俺は緋桜にしたことを懺悔しに来たわけじゃないよ。問題は過去のことより現在のこと。目下君が一番気にしているであろう、うちのバカ息子の話をしようじゃないか」
「……」
「君の大事な大事な、クロのことだよ」
予想はしていたことだが、いざこの男の口から「息子」という言葉を聞かされるのは、ひどく不愉快だった。
「じゃああなたは、クロの父親だっていうの」
「そうだよ。正真正銘、血のつながった親子さ。クロは君に教えてくれなかったのかな? こんなことを隠してるなんてひどいなぁ」
「そうじゃないわ。クロはあなたのことを、父親だなんて思ってないってことでしょう。生物学的に血がつながってたとしても、父親らしいことなんか何一つしなかったんでしょう。そのくせ今更出てきて父親面なんて、笑わせないで」
「父親面、か。ひどい言い様だ。だったら言わせてもらうけれど、君だってクロのことを何も知らないくせに、よく友達面ができるよね?」
「……!」
ずき、と胸の奥を刺し貫かれるような痛みが走った。
朽葉はにやにやと笑いながら、毒のような言葉を吐く。人の心を平気で傷つける言葉を吐く。
性根の腐った男の言葉など聞くことはない。こんな奴の言葉に、心を揺らされる必要などないのだ――そう自分に言い聞かせる。そして、逃げるようだという自覚はありつつも、桜子はそっと胸元の首飾りに手を伸ばす。クロから贈られた、桜貝の首飾りは、妖の世界に渡るための道具だ。
目の前の男はとにかく得体が知れない。桜子が一人で渡り合える相手ではなさそうだ。殺すつもりはないと言っていたが、その言葉をどこまで信用していいかは不明だ。ならば、こんな奴と差し向かいでいるという状況からは一刻も早く脱するべきだと思った。
逃げよう、妖の世界へ。そう瞬時に判断した。
しかし、それを見透かすように朽葉が動く。十メートルは離れたところに立っていたはずの朽葉は、しかし瞬きほどの間に距離を詰め、いつの間にか桜子のすぐ鼻先まで迫っている。そして、桜子の手を掴み捻り上げる。
「痛っ!」
「おいおい、折角会いに来たのに、逃げる気かよ。もう少し、俺と二人っきりで楽しく話をしようぜ」
思わず空いた左手で殴ろうとするが、その手もあっさり捕えられ、両手を背中に捻られ押さえつけられる。
そして、ぐにゃりと視界が歪む。見慣れた住宅の景色が一変し、世界が変わる。その感覚は知っている、妖の世界へ、境界を越えたのだ。
だが、次に目の前に現れたのは、見慣れた商店街の景色ではない。灰色の石――墓石が立ち並ぶ場所、墓地だった。妖の世界には何度も来たことがあるが、その場所は初めて見る場所だった。どうやら、朽葉の力でおかしな場所に連れて来られたらしい。
いつまでも桜子の腕を掴んでいる朽葉。しかし、大人しく捕まったままでいる桜子ではない。
「いい加減、離しなさい!」
足を持ち上げ、力強く踏み落とす。狙うのは朽葉のブーツに包まれた爪先だ。いつだったか雑誌の痴漢撃退特集で見た内容がこんなところで役立つとは思わなかった。
「痛ってぇ!」
予想外の反撃に、それまで余裕ぶっこいていた朽葉が苦悶の声を上げる。その瞬間、拘束が緩んだ隙を逃さず、桜子は朽葉の手から逃れ距離を取る。今度こそそう簡単には近づかれないようにしっかり離れてから睨みつけてやると、朽葉は苦々しい顔をする。
「ははっ、話には聞いてたが、ほんとにじゃじゃ馬娘だな。さっすが緋桜の娘」
なにがさすがなのかさっぱりだが、朽葉は勝手に納得して何度も頷いている。
「そうそう、緋桜の娘……結局のところ、君の存在価値ってそれだけなんだよね。緋桜の娘じゃなけりゃ、君みたいな能無しの半妖が妖の世界に関わることなんてなかったわけだ」
「そんなこと、あなたに言われなくたって解ってるわよ」
そもそも妖の世界に足を踏み入れるきっかけになったのは、クロだ。彼は緋桜を探していたのであり、桜子はその代わりにすぎなかった。代わり、といっても、緋桜の代わりになれるはずもなく、その場しのぎの穴埋め係みたいなものだ。今更指摘されるまでもなく、解りきっていることだ。
しかし、朽葉は癇に障るにやけ面で、嘲弄する。
「いや、君は解ってないね」
「何が言いたいの」
「だってさ、君はクロの友達面をしているけど、クロは君を友達だなんて思っちゃいない、そのあたりが、どうも解っていないようだ。それとも、解らないふりをしているのかな?」
こんな奴の戯言など聞く必要はない――頭ではそう思いつつも、しかし、朽葉の言葉は耳の奥に焼き付いて離れなくなった。




