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俺様にゃんこの躾け方  作者: 黒いの
3 猫を助ける秋
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20 夢のまにまに

 目の前にいる彼女の姿を、クロはよく知っていた。ずっと求めていて、だが、決して届くことがないと解った、主人の姿がそこにあった。呆然とその名を呟いてしまってから、違う、と頭を振る。そこにいるのは緋桜ではない、緋桜を騙る偽者だ。そう思うと、表情は必然険しくなる。

「やめろ、緋桜は死んだ。そんなことも知らないで、緋桜のふりで俺を唆す気か?」

「――まあ、どうしてそんなことを言うのかしら? 緋桜が死んだというのなら、わたくしは誰だというのです?」

 目の前の彼女はくすりと笑う。

「お前は緋桜じゃない。お前は、」

 そう言いかけて、クロは疑問に思う。

 お前は――その後、何と言おうとしていたのか、解らなかった。

 緋桜でなかったら、誰だというのだろう。

 緋桜が、緋桜以外の何者でも、あるはずはないのに。

 思考が妙に霞んでいた。頭の芯がぼうっとして、じんわりと熱を帯びている。疲れているのかもしれない、そのせいで、おかしなことを考えてしまうのかも、しれない。

『――――!』

 誰かの声が聞こえた気がした。何と言っているのかは判然としない、だが、何かを大声で叫んでいる。

 誰だろうと思って、クロは後ろを振り返る。だが、広々と草原が続いているだけで、そこには誰の姿も見えない。確かに声が聞こえたと思ったのだが、声の主と思しき者はどこにもいない。そのうち、ただの空耳だったような気がしてしまう。

「どうしたんです?」

 急に何もないところを振り返ったクロを不思議に思ったのか、緋桜が前に回り込んでクロの顔を覗き込んだ。少しだけクロよりも背の低い緋桜が、上目遣いに見上げてくる。

「ここには誰もいませんよ。わたくしと、あなた以外は」

「ああ……そう、だな……」

 緋桜がそう言うなら、それが本当だというふうに思える。彼女はいつだって正しいのだから。

 思考がぼやけていく。頭が重い。

 ここがどこで、自分が今まで何をしていたのか、はっきりしない。記憶を探るように片手で頭を抱えると、その手に、緋桜がそっと手を重ねた。白くて細くて、やけにひんやりとした手だった。

「どこか具合が悪いのですか」

「そうじゃない、けれど」

 とぎれとぎれに言葉を紡いでいるうちに、少し前まで自分が抱いていた疑問が、ぽろぽろと頭から零れ落ちていった。何もかもがぼやけていって、ただ一つ、目の前の緋桜の微笑みだけがしっかりと焼きつく。

「解りましたわ。あなた、寝ぼけているのでしょう? だから、わたくしが死んだだなんて、おかしなことをおっしゃるのでしょう」

「寝ぼけて……?」

「そうですよ。だって、このとおりわたくしは生きていますもの。わたくしが、あなたをおいて一人で逝くはずがありませんでしょう」

 緋桜が優しく微笑みかける。その微笑みは、クロが切望していたものであり、それ以外何もいらないとさえ思ったものだった。

 どれだけ手を伸ばしても手に入らないはずだった――今となっては、なぜ手に入らなかったのかは解らないけれど――緋桜の穏やかな笑顔が、すぐ触れられる場所にある。クロに理解できたのはただそれだけであり、それさえ解れば、彼にとっては充分だった。


★★★


「――クロッ!! しっかりしろ、馬鹿にゃんこ!」

 桜子は声の限りに叫んだ。喉が激痛を訴えたが、そんなことは構うものかと叫び続ける。だが、その声がちゃんとクロに届いているかは、かなり怪しいところだ。

 最初は、声が聞こえたのか、クロが振り返った。だが、その目は桜子を捉えているようには見えなかったし、会話も成立しなかった。おそらくクロに桜子の姿は見えていない。言葉も届いてはいないだろう。

 クロを惑わせているのは、彼の目の前にいる、緋桜の姿をした紛い物。物心ついた時には母と死別していた桜子には解らないが、姿も仕草も言葉も、きっと本当の緋桜とそっくり同じなのだろう。だが、それでも、彼女は緋桜ではない。どれだけ緋桜と同じ姿をして、同じ仕草をして、同じ言葉を紡いだとしても、緋桜ではありえない。

「なんで解んないのよ!? 目ぇ覚ませ、クロ!!」

 叫んでも、叫んでも、クロは桜子を見ない。彼の視線は「緋桜」に吸い寄せられて、他の何も見えていない。どれだけ叫んでも言葉は届かない。そう解ってしまうと、悔しさのあまり、じわりと涙が滲んだ。

 こんなに近くにいるのに、とても遠い。言葉一つ届かないなんて、あんまりだ。

 桜子はクロに何をしてやることもできない。今の彼にとっては、目の前の幻こそが本当で、緋桜が死んだ現実の方は悪夢のようなものなのだろう。

 緋桜は決して死んでなどいなくて、ずっと彼の傍にいて、彼は出来の悪い忘れ形見の桜子と出会うこともない。ありえたかもしれない、あってもよかったはずの、幸せな夢。そんな夢を、一度も望まなかったとは言わせない。そんな小さな、欠片のような望みが、まだクロの心の片隅に棲んでいる。ゆえに、幸せな夢に囚われている。

 叫んでいるだけでは埒が明かない。桜子はクロの元へ近づこうとする。脚はちっとも動かない。だが、這いつくばってでもクロの傍まで行って、その首根っこを引っ掴んでやりたい。地面についた両手で体を引きずるようにして、じりじりと進む。進みながら、声をあげる。

 だが、大声でわめき散らしながら、桜子はふと怖くなる。

 クロに現実を突きつけるのが、怖いと思った。クロが見ているのはただの幻で、現実はもっと酷くてつらいのだと告げることが、とても怖い。それはクロにとって、ナイフで切りつけるよりもずっと痛いことのはずだから。

 夢は心の隙間に入り込む。ひそやかに忍び込んで、心の奥底に隠されている弱い部分に絡みつく。それが覚めてしまった時のショックを思えば、なんて残酷なことをするのだろうと、桜子は、緋桜の皮をかぶった化け狐に怒りを覚える。

 だが、そんなことを言えば、あの狐は無邪気な顔で言うだろう――だったら、覚めなければいいのだと。

 覚めなければ、苦しいだけの現実は見なくていい。今までの現実はただの悪夢だったのだと言ってしまえるだろう。

 夢を見続けるのか、否か。そのどちらが正しいのか、桜子には解らなかった。

 ――本当は正しくなんか、ないのかもしれない。

 そう思いながら、しかし桜子は叫ぶことをやめない。やめられなかった。

 何が本当にクロのためになるのか解らない。解らないまま、桜子は叫ぶ。

 ――クロのためじゃない、きっと私は、私のために、叫んでいる。

 それは桜子のエゴに違いなかった。夢を見ていた方が、クロは幸せかもしれない。それでも、つらいだけだと解っていても、目を覚ましてほしい、自分を見てほしいと、桜子は願う。

「お願い……目を覚まして、クロ! 偽者のお母さんなんかじゃなくて、私のところに戻ってきて!」

 ――幻想なんかに、友達を奪われてたまるものか。

 しかし、クロの虚ろな瞳には、桜子の姿が映ることはない。

 白い手で優しくクロの頬を撫でながら、幻想の「緋桜」が語りかける。

「あなたはきっと、悪い夢を見ていたのでしょう。怖い夢を見ていたのでしょう」

「夢……全部、夢だった?」

 夢なんかじゃない。現実だった。あの春の日に出会ってから今までのことは、全部現実だったのに。

「そう。けれど、安心なさって。もう悪い夢を見ることはありませんわ。わたくしがずっと傍にいてさしあげますから」

「緋、桜……」

 金色の瞳が、幸せな夢にとろりと微睡む。刀を握る手から力がすっと抜けていき、体が崩れそうになる。夢に堕ちていく黒猫を、「緋桜」は優しく微笑み見守っていた。

「もう大丈夫ですのよ。安心しておやすみなさい、クロ」

 ――その瞬間。

 クロの右手が妖刀を横に薙ぎ、「緋桜」を一閃した。

「ぁ……」

 か細い悲鳴を上げて、血飛沫を上げながら「緋桜」が崩れ落ちていく。

 ぱぁん、と何かが割れるような音が響き、あたりの景色が一変する。明るい草原という偽物の景色が砕けて、その後ろから本物の、薄暗い森の風景が戻ってくる。

 そして、仰向けに倒れた「緋桜」は、その化けの皮が剥がれ、果林の姿が露わになる。服を血で濡らし、驚愕に目を見開いている果林。掠れた声を、果林が漏らす。

「なん、で……ボクの幻術を、破れる、はずが……」

 やがて呻き声をあげるばかりとなった果林。彼を見下ろすクロの瞳はひどく怜悧で、静かな激情を隠していた。

 クロがぼそりと漏らした言葉は、果林にはもう聞こえていなかっただろう。桜子だけが、怒りと悲しみが滲んだその言葉を、はっきりと聞いた。

「緋桜は俺を『クロ』なんて呼ばない」



 結局、クロは現実の世界に戻ってきた。だが、桜子が何かをしたわけではなく、彼が自力でやったことである。いや、どちらかといえば、彼の記憶の中にいる、本物の緋桜のおかげなのかもしれない。何にしても、今回の件に関して、桜子はあまりに無力だった。

 ゆえに、クロが無事で済んだことを、素直に喜べなかった。嬉しいことは嬉しい、だが、一緒になって悲しさや悔しさが襲ってくるのだ。そのせいで、どうにも涙が止まらなかった。

 静かになった果林を置き去りに、妖刀を仕舞いこんで、クロが桜子の方へ歩いてくる。いつになく無表情で、瞳は冷たい色をしている。いつもだったら、「なに泣いてんだよ」とか「泣くと三割増しブサイクになるぞ」とか言いそうなものなのに、そんな気配はちっとも見せない。

 そして、何を思ったか、クロは徐に桜子の前に膝をつくと、桜子を抱き寄せた。

「ちょ、ちょっと……」

 鼻声になりながら声を上げる。クロ、と呼ぼうとして、しかし桜子は思いとどまる。

 強く、クロは桜子を抱きしめた。桜子の肩に顔を埋めてしまっているから、彼がどんな顔をしているかは見えない。だが、何かに耐えるような厳しい表情をしているのだろうと、桜子にはなんとなく解った。

 きつく、痛いくらいに抱きしめられる。だが、その手には、桜子への想いは欠片も存在していないことが解った。

 だから、桜子はクロの名前を呼ばない。なぜだか知らないが、緋桜は「クロ」と呼ばなかったそうだから。ならば今は、その名を口にしてはいけないのだ。

 緋桜の代わりではなく、桜子を桜子として見るようになった――かつて彼はそう語った。

 だが今は、今だけは、緋桜の代わりでいい。

 出来損ないだけれど、束の間の夢を見るためなら、緋桜の代わりでいい。

 桜子は、緋桜の代わりに、黒猫の頭をそっと撫でてやる。

 桜子よりもずっと大きな体が、桜子の腕の中で小さく震えていた。

 彼は決して声を漏らさない。だが桜子には、どこからか嗚咽が聞こえるような、そんな気がした。

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