15 あの日の狐
洞窟の方へ向かって歩いていく男がいた。洞窟は封印を施されるほど危険な場所で、誰も近寄ろうとはしない場所だ。もしも傍に誰かがいたならば、そんな場所に近づこうとする男を咎めたかもしれない。だが、幸か不幸か、男を止める者はなかった。
誰にも止められることなく、男は洞窟の前まで辿り着いた。秋空は高く澄みきり明るい。だが、目の前の洞窟の中には、深い闇が広がっている。すべてを呑みこみ、そして呑みこんだものは決して吐き出さないであろう、闇に満ちた洞窟。少し前までは、洞窟の中にある貴重な植物目当てに、無謀にも中へ入って行く妖がいた。だが、入って行った者が戻ってこなかったり、奇跡的に戻ってこれたとしても深い障害を負ったりしたせいで、そんな真似をする者はいなくなっていった。
男が洞窟にやってきたのは、潮満草を手に入れるためではない。彼は何も手に入れようとはしていなかった。むしろ、すべてを失おうと、捨てようとして、ここまで来たのだった。
たとえるならば、そう、樹海に入るような気分で。
行けるところまで行こう、と男は思った。万が一にも誰かが見つけるような場所には留まるまい。誰も入り込めないほど奥深くに、身を横たえよう。偶然にでも潮満草を見つけたら、あえてそれを引き抜いてやろう。そうすれば、たちまち濃い瘴気が溢れだし、体を蝕んでくれる。そうして、老いた命はあっけなく散り、体はすぐに朽ちてくれるはずだ。
覚悟は決めてきた。男は、ゆっくりと注連縄を越えようとする。
その時、だった。
「どちらへ行かれるのです」
女の声が男を止めた。まさかこんなところに自分以外がいるとは思わなかった男はびくりと肩を震わせた。いったい誰が、と振り返ると、そこに立っていたのは、どうやら久霧の郷の者ではないようだと解った。この郷に住まう化け狐たちは、みな一様に狐の耳と尻尾を持っている。得意の妖術で別の妖に化け、耳も尻尾も隠してしまうことは可能だ。だが、化け狐が化けていることは、同じ化け狐にはすぐ解る。目の前にいるのが、狐が化けた姿ではなく、最初からその姿をした、狐以外の妖であることはすぐに解った。
だが、おかしな話だ、と思う。狐の隠れ里は霧の妖術に守られていて、外の妖は容易に入り込むことはできないはずだ。こうして入ってきているということは、誰かが招き入れたのでないとすれば、結界を抜けてやってきた、相当の手練れということになる。
男はすべてを捨てるつもりだった。だが、もしもこの奇妙な侵入者が郷に危害を加えるつもりでやってきたのだとしたら、放っておくわけにはいかない。
「お前は誰だ」
不躾な質問に、女はおっとりと微笑みながら応える。
「ただの通りすがりです」
「ここは、そう簡単に通りすがれる場所ではない」
「ええ、そのようですね。ですが、わたくしにとっては霧の結界など無意味でしたから、簡単に通りすがれました。それよりも、わたくしの質問には答えてくださらないのですか」
「何?」
「ですから、どちらへ行かれるのです。その先にある洞窟は危険な場所だと聞きます。まさかとは思いますが、そこへ入るつもりなのですか」
「だったら、どうだというのだ」
「それは自殺行為としかいいようがありません。通りすがってしまったからには、自殺しようとする方を放っておくのも、寝覚めが悪いですから、もしもそういうおつもりなら、わたくしは止めなければなりません」
「お前には関係のない話だ。立ち去れ」
「ええ、ですがわたくし、関係のない話に首を突っ込むのが得意なのです。友達からは、お節介だとよく言われるのですけれど」
「まったく、そのとおり。余計なお世話だ」
「まあ、よいではありませんか。もし死ぬおつもりでしたら、最期くらい、世話を焼かれても悪くないのではありません?」
「いや、だから、黙って死なせてくれと言っているんだ」
どうにも話のずれた女だな、と男は思う。もしかしたら、わざとやっているのかもしれないが。
構わず、無視して行ってしまおうか、とも思う。だが、見知らぬ女に寝覚めの悪い思いをされても面白くないし、だいたい、ここへは誰にも知られずに入ろうとしていたのだ。このままでは、この女に秘密を知られてしまうかもしれない。女がお節介にも、郷の者に知らせになど行ってしまったら、男の決意は水泡に帰す。そんなことは困る。
ならば道は一つ。自分がいかに絶望しているかということ、自分で自分の命を絶つ以外に道がないのだということを、女に納得してもらうしかない。
「私は呪われてしまったのだ」
「呪い、ですか?」
「そうだ。このまま私が郷にいれば、郷の者が傷つくことになる。周りに災厄をまき散らす、これはそういう呪いだ。ゆえに私一人が犠牲にならなければならない」
「呪いは、解けないのですか」
「お前も妖の端くれなら、呪いを解くのがいかに難しいかくらい知っているだろう」
「ええ、確かに、解呪の術は難しいです。加えて、あなたの目にかけられた呪いは、とても強いようです」
なにげなく呟かれた言葉に、男は眉を寄せる。この女は、今、目と言った。男は確かに、その瞳に呪いを受けた。だが、それは話していない。つまりこの女は、見ただけで、男の目が呪われているのだと、見抜いたのだ。
「残念ですが、さしものわたくしも、他人に掛けられた呪いを祓うのは、準備も何もない状態ですぐにと言われると、難しいです。時間をいただけるなら、わたくしの浄めの力で術を行使する用意をするのですけれど、あなたは待ってはくれないでしょう」
「当然だ」
「呪いをかけるのと、自分にかけられた呪いをはねかえすのならば、簡単なのですが」
「誰もお前に期待などしていない」
「ええ、ですが、呪いをかけるのは、得意なのですよ」
「それは聞いた。だが、そんなのは何の足しにもならない」
「そうでしょうか? 呪いを解くことができないのならば、重ねて呪いをかけてしまえばよいのではありませんか?」
「呪いに呪いを重ねるだと? そんな荒業、聞いたことがないぞ」
「ですが、死ぬよりはずっと、良いとは思いませんか? 試してみてもよくはありませんか? あなたも、まったくこの世に未練がないわけでは、ありませんでしょう?」
覚悟を決めたはずの男の心に、しかし、女の言葉は強い誘惑だった。
まだ、希望があるというのだろうか?
女はにっこりと微笑む。
「困っている人は、放っておけないのが性分なのです。ですから、あなたが死ななくて済むように、あなたにわたくしのとっておきの、呪いを授けましょう。ご安心ください、この呪いは、永劫のものではありません。いつかこんな呪いが、必要なくなる日が来ることを祈っていますよ」
男が女の正体に気づいたのは、間抜けなことに、女が去ってだいぶ経ってからだった。
誰より強く、誰より美しく、誰より気高い鬼――桜鬼。
★★★
長い夢を、見ていた。
見たことのないはずの情景が浮かんだ。それはとてもリアルで、不思議なことに、それがただの夢や幻ではなく、実際にあった現実の出来事を辿ったものであることが、桜子には解った。
似たようなことが以前にもあった。記憶を読み取る術なのだと、紅月から聞いた。緋桜が得意としていた妖術である、とも。どうやら、また無意識のうちに術を使ってしまったらしい、と気づく。近いうちに、術を制御できるようにならなければならない。記憶というのは、覗くのも覗かれるのも、愉快なことではないはずだ。
しかし、それはそれとして、偶然にも手に入れてしまった情報は、大事に使わせてもらおう、とちゃっかりしたことも思う。こんなちゃっかりしたことが考えられたのは、ひとえに、夢の中に出てきた二人が、どちらも桜子の知っている者だったからだ。
女の方は、言わずもがなの、桜鬼・緋桜。
そしてもう一人、瞳に呪いを受けて、自害まで考えた男――天満。
外見こそ今と変わらない姿をしているが、中身は今の天満とはかけ離れている。歪んだ執念など持ち合わせてはおらず、自分のことよりも、郷の仲間を大切に思っている長老。おそらくは、空湖が崇め、信じる天満。
いったいなにがどうなったら、過去の天満が今の天満になるのだろうか、と桜子は二人の天満を頭の中で思い浮かべて比べてみた。
「…………」
そんなことをぼうっと考えていると、そういえば、目の前が明るいことに、桜子はようやく気付く。洞窟の中で、瘴気に呑みこまれ意識を失ったはずだった。だが、今桜子の目には、夢の中で見たのとよく似た、綺麗な秋空が見えている。
「気が付かれましたか?」
そんな声と同時に、桜子の顔を覗き込んでくるのは、空湖だった。
「空、湖……?」
「はい」
「あれ……私……?」
重い頭を押さえながら、ゆっくりと体を起こす。体がとても怠い。だが、動けないほどではない。なんとか起き上がって、傍らに座り込んでいる空湖を見た。桜子ほどではないにしても、空湖も顔色が優れなかった。そして、目を引いたのは、空湖の手である。長袖から覗く両手には、うっすらと黒い痣のようなものができている。まるで腐っているようだ、と思ってしまってから、桜子はぎょっとする。
「空湖、その手……」
「少し、瘴気にあてられただけです」
「空湖が助けてくれたの?」
「あなたの悲鳴が聞こえましたから」
悲鳴を上げた覚えは、桜子にはなかった。だが、おそらく気づかないうちに危険信号を発していたのだろう。それを聞いて、空湖は洞窟の中に飛び込んでくれたらしい。自分の身も危ないと解っていながら、それでも助けてくれたのだ。
「ありがとう、空湖……」
「お礼を言われるようなことではありません。私は結局、あなたをみすみす、危険な場所に送り込んだのですし……それに、私よりあなたの方が、酷い状態です」
そう言われて、桜子は初めて自分の体を見遣り、目を剥いた。両手は空湖よりもずっと黒い痣に覆われていたし、まさかと思ってバッグの中から取り出した手鏡で顔を見てみると、頬のあたりにまだらに黒いシミができていて、たとえるならカビの生えたチーズみたいな有様になっていた。自分でたとえておいて、そのひどいたとえかたにショックを受けた。
「ですが、こうして起き上がって話ができるところを見ると、見た目ほど深刻なダメージではないようです。桜鬼の血の為せる技ということなのでしょうか……大丈夫ですよ、瘴気は聖水で洗い流せます。洞窟から出てきてしまえば、これ以上瘴気に害されることはありません」
「本当? よかった……あ、そうだ、潮満草!」
肝心要の潮満草は結局どうなったのか、と桜子は慌てた。すると空湖がそっと指さす。桜子がぎゅっと握りしめている左の手。そっと開いてみると、中には少々潰れ気味の赤い花があった。
「洞窟で気絶していたあなたは、ですが、決してそれを離そうとはしませんでしたよ」
「そっか……なんとか、取ってこれたみたいね。結局、私一人じゃできなかったわけだけど」
「ですが、あなたの力ですよ。私にはきっとできませんでした……洞窟が瘴気で満ちていることは知っていましたが、潮満草を摘み取った瞬間が、どうやら一番危険なようですね。私はこの程度で済みましたが、潮満草を摘んでもっとも影響のある場所にいたあなたは、ずっと酷いことになってしまっています」
「やった、って思って油断したところにトラップ発動だなんて、性格悪い洞窟ね、ほんと」
だが、そのトラップじみた洞窟の真実を、天満は知っていたはずだ。知っていて、教えなかった。まあ、教えられていたところで、対策が練れたわけでもないのだが。それにしても、一番大事なことを教えないで洞窟に送り込むなんて、悪意に満ちている。
いったい何を考えているのか――そう思っていると、
「――無事に戻ってこれたらしいな」
喜んでいるのか、はたまたがっかりしているのか、解りにくい声。
顔を上げると、洞窟の前に天満が歩いてやってくるところだった。




