13 必ず戻ってくるから
その洞窟の名前は、「霧闇の洞」というらしい。文字通り、霧と闇に満たされ、一寸先も見えないような恐ろしい場所であり、妖はそこに近づくことはないという。そこへ半妖の身で乗り込もうというのだから、無謀だというのは桜子自身にも解っている。
だが、退路を断たれた上で送り込まれてしまえば、前に進む以外の選択肢はない。
郷を囲む森を北側に進んでいくと、二十分ほどで、ぽっかりと口を開けた闇の洞窟に辿り着いた。入り口には太い注連縄がかけられていて、その先が禁足地であることを示している。ただし、その先にあるのは神ではなく、闇だが。
「――中に満ちている瘴気が外に漏れ出ないように、封印術をかけているのですよ」
振り返ると、後ろから静かについてきた空湖が桜子の隣に並んだ。
「ですから、注連縄の外側にいる限りは、瘴気に触れることはありません。逆を言えば、これを越えてしまえば、そこにはすぐに瘴気が満ちている。奥へ進むほど、瘴気は濃いのです」
「で、どうせ潮満草は洞窟の奥の方にしか生えていないっていうんでしょ」
嫌味たっぷりに言ってやる。天満だったらにやにやと笑って何事か言い返しそうなところだったが、空湖は浮かない顔だった。
「私は、正直賛成しかねます。無事に戻ってこれるとは思えません」
「けれど、天満はそれを望んでいるわ。私が奇跡的に戻ってきて呪いを解くか、あるいは私が中で野垂れ死ぬか……そのどちらでも、天満は満足なのでしょう。それが彼の求める償いで、復讐なんだわ」
「憤りはしないのですか。呪いをかけたのはあなたの母君であり、あなたはいわれのない罪の償いを求められているのですよ」
「怒ってるに決まってるじゃない。でもそれは、あなたが言うような理由でじゃない。いわれのない罪で、っていうなら、私よりよっぽど理不尽な目に遭ってる奴がいる。私のせいでそうなってるのよ、私は私自身が、あんまり情けなくって、怒ってるの」
「……あの黒猫のことをおっしゃっているのですか」
空湖はいっそう浮かない顔で、俯いて、今にも消えそうな声で呟く。
「できることなら、あなたが無事に戻ることを祈ります。ですが、万が一にもあなたが失敗したときのことを、考えないわけにはいきません。ですから、保険としてあなたの憂いを取り除くことにしますが……私は、あなたが成功しても失敗しても、どちらにしても、自分の罪を告白しようと思っています。ですから安心してください、どう転んでも、あの黒猫は助けられますから」
それを、桜子は少々、いやかなり、意外な思いで聞いていた。
この郷で待ち構えていた空湖と話した時の第一印象は、はっきりいってあまりよくなかった。長老のためなら手を汚すことも辞さず、残酷なことも穏やかに微笑みながら口にする空湖に、恐れを感じなかったと言えば嘘になる。だが、酷薄そうに感じたあの時の空湖はすっかり鳴りを潜め、今はただただ弱気な化け狐に見える。その目に漂っているのは、迷いや戸惑いの色に違いない。
「どうしてそんなことを……いえ、待って、それよりまず確認しておくけれど、クロの姿に化けて竜胆を襲ったのはあなたなの?」
「そうです。天満様に命じられて……あの黒猫はもちろんですが、化け狗の少女には罪もありませんでしたのに、傷つけてしまいました。こんなことを申し上げても、何をいまさらと思われるかもしれませんが。あの時は、それが正しいと思っていました。天満様が抱いていらっしゃるのは正当な恨みであり、償いを求めるのはおかしくないことで、そのためなら、多少の犠牲は致し方ないのだと自分に言い聞かせて……ですが、それでよかったのか……先程の天満様を見たら、自信がなくなりました」
空湖はひっそりと溜息をついて続ける。
「天満様が両目を失ったことで苦労をなさっていたことは知っていました。天満様は三十年ほど前のある日突然、両目を失っておられたのです。事情は教えてもらえませんでしたが、最近になって、桜鬼が関係していると知らされ、今回の計画を授けられました。きっと、最初は、戻る見込みのない両目のことは諦めて何もおっしゃらなかったのでしょう。ですが、桜鬼の血を引くあなたが現れたと知り、矛先があなたにむいたのでしょう。再燃した怒りや恨みが、桜鬼に代わりあなたに向けられてしまうのは、あなたにしてみれば理不尽かもしれませんが、まだ理解できなくはない感情だと思います。ですが、そのためにあなたの身を危険に晒し、あまつさえあなたが死んだとしてもかまわないというようなことをおっしゃるのは、少々常軌を逸しているように思います。少し前までは、こんなふうではなかったと、思うのですが……」
桜子は思い出す。最初に会った時、彼は桜子に危害を加えるつもりはないと言った。それは、決して嘘をついているようではなかった。彼は本心からそのつもりだったし、天満も同じ気持ちだろうと思っていたのだ。ここまでで多少強引な手を使ったことは認めるにしても、一線を踏み越えるつもりはなかったし、天満もそうだろうと思っていたから、彼を信じて、手を貸してくることができた。だが、先程の天満は、空湖の信じるような男ではなかったのだ。それを目の当たりにして、空湖は戸惑っている。
彼は決して味方ではない。むしろ、クロを陥れた敵だ。だが、今は彼に同情的な気分になってきた。かといって、どう慰めの言葉をかけるべきか。
徐に、闇の奥を見据える。中がどうなっているのか、外からでは知ることができない。
「……天満もきっと、いろいろ複雑なんでしょうよ」
「え?」
「目を奪われて、諦めたと思ったら、希望が見えて来ちゃった。その希望に、縋らずにはいられなくって、なりふり構わずやっちゃって……それは決して褒められた話じゃないし、私としてはふざけんなって感じだけど、同情の余地がないわけではないし、クロが助けられるなら、私はそれでいいわけだし。きっと、両目が治ったらさ、あなたが尊敬できる長老様に、戻ってくれるんじゃない?」
「そう、でしょうか」
「そうなったら、もう万事解決でしょ。だからそのためにも、私はちゃんと戻ってくる。きっとみんな笑顔になれるように……戻ってくるわ、必ず」
戻ってこれるかどうかに、いろいろなものが懸かっている。桜子だけの問題ではない。クロや、紅月や、空湖や、狐の隠れ里――たくさんの妖が分岐点に立っていて、ポイント切り替えを担っているのは桜子だ。
責任は重い。だが、足取りは、決して重くはない。あまり自慢できる話ではないが、ここ数か月で修羅場は何度も経験している。使命に押し潰されないだけの強さは、手に入れられたのかもしれない。
空湖に見送られながら、桜子は注連縄をまたぎ、闇の満ちる洞窟へ踏み込んで行った。
★★★
収監中のクロに会いたい、という要望は、白旗組の入り口を固める門番ににべもなく断られた。仲間と話をすればクロが何を企むか解らないから、会わせられない、というのが向こうの言い分だった。
その主張を、忍は鼻で笑った。
「ははっ、俺とあいつが仲間だって? 馬鹿言っちゃいけねえ。俺とあいつは犬猿の仲だ、猫と鬼なのに」
門番は本当かどうか疑わしく思っているようで、探るような目で忍を見る。どんな嘘もはったりも見透かそうという意志が感じられる。しかし、その程度で動じる忍ではない。ポーカーフェイスと腹芸は、忍が誇る十八番である。
「俺はな、あの黒猫の余罪を追及しようと思ってここへ来たんだ。お前たちが知っているのは、最近起きたっていう強盗事件だろう? だが、あいつは実は他にも罪を犯している。それについてもついでに罰してもらおうと思って、わざわざ被害者である俺たちがここまで来たわけだ。裁かれない罪があっちゃあ、白旗組も業腹だろう?」
「余罪? 被害者だと? お前たちが、あの黒猫に何かされたというのか」
「そうだ。なんとあの極悪非道な黒猫は、俺たち鬼の郷に侵入し、赤鬼家当主である葵を拉致監禁した挙句、屋敷を半壊させてくれやがったわけだ」
葵が忍にだけ解るようにひっそり嘆息した。「それをやったのはあなたでしょう」と言いたいのがよく解る。
「葵は酷く傷つきショックを受けた。ついては、直接あいつにあって文句を言ってやらなけりゃ気が済まないというわけだ。被害者として正当な権利だと思うが、どうだい?」
「うーむ……」
門番は葵をじっと見る。葵は心底困った顔で俯いている。おそらくこれは演技でもなんでもなく、「こんなこと言っちゃってあとでどうするつもりかしら」と本気で困っている顔だろうと、忍には解っていた。身内褒めになるが葵は見目美しい乙女だ。楚々とした乙女が気遣わしげに眉を寄せている様は、庇護欲をそそる。ああなんとおいたわしい、可哀相な美少女だ、なんとかしてあげたい――などと、門番が下心をひっそりと抱いて、職務を果たすことと、美しい女性に恩を売っておくこと、どちらを選ぶべきか天秤にかけているのが、忍には手に取るように解った。
「ふむ、よし、いいだろう。留置場はこの先だ」
と、門番の天秤はあっさり傾いた。
こうして、桜子がかなり苦労したプロセスを、忍と葵はあっさりクリアしてクロの元に辿り着いたのである。桜子がことの経緯を知ったら嘆きそうだ。
「よーう、強盗犯! ついでに誘拐犯の汚名も着せてやるからな」
呑気にそんなことを言いながら手を挙げると、鉄格子越しにクロが心底嫌そうな顔をした。
「なんでてめえがここにいるんだ、クソ鬼」
「ポリ公なんぞに捕まってる間抜けな猫を見物しに来たんだよ。いいザマだな」
「こっから出たら覚えとけよ」
「出られたらな」
ここぞとばかりに挑発する忍。大人しく座っていたクロは、しかしいい加減堪忍袋の緒が断線寸前らしく、さっと立ち上がって鉄格子に近づき、隙間から爪の伸びた手を突き出して忍に攻撃を仕掛ける。が、不自由な状態の猫の攻撃を受けるほど、忍も間抜けではなく、あっさりと躱してみせた。怒りと悔しさで青筋を立てるクロを、忍はにやにや笑ってさらに煽る。
そのあたりで、良心的な鬼である葵が「いい加減になさい」と忍の後頭部に鉄拳を落とした。見かけによらず馬鹿力である葵の拳にぶん殴られ、忍は声なき声を上げて呻いた。頭を抱えて悶絶する忍に、葵は呆れ気味の声を落とす。
「いったいなんのために来たと思っているのです。安全圏からつまらない挑発をするのはおやめなさい」
「で、結局お前ら何しに来たわけ?」
「あなたの窮状を知り、いてもたってもいられずに参りましたの。濡れ衣を晴らすために、私たちに何かできることがあればいいのですが」
「それについては、桜子と紅月がなにやら動いてくれてるらしい」
「さっすが姫さん、相変わらずアクティブだなー」
危機的状況に陥っても、決して思考停止しない。自分にできることを精一杯やる。彼女らしいな、と忍は思う。
「では、私たちも桜子をお手伝いしますわ」
「つっても、あいつがどこで何やってんのか、俺は知らないぞ」
「上手く合流できるといいのですけれど……」
「いや、葵。姫さんにはあのわんこがついてるんだろう? なら、そっちは大丈夫じゃないか。俺たちは俺たちで、違う方向からやってみてもいいんじゃないか」
「忍、何か考えがありますの?」
「二人に任せて俺たちは待機する」
葵に向う脛を蹴られた。クロが心底疲れた顔で「夫婦漫才しにきたなら帰れよ」とぼやいていた。




