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俺様にゃんこの躾け方  作者: 黒いの
3 猫を助ける秋
57/104

9 近い!

 どうやら目が合ったような気がしたのは、気がしただけでなく実際に目が合っていたらしい。今のクロには完全に、桜子の姿が見えているし声も聞こえているようだ。

 さっきまでどんなに叫んでも聞こえなかったはずなのに、いったいどういうことだろうと桜子が訝しく思っていると、からんと小さな金属音がした。見ると、半分に割れた腕輪が床に落ちていた。拾い上げて、よくよくその幽霊リングを見てみると、リングの裏側に字が彫ってあった。曰く、

『時間制限:三十分』

 時間制だったか。桜子は今更ながらその事実に気づいた。

 怪しげなリングを見た瞬間、事情を察したらしいクロは前髪をかきあげ盛大に溜息をついた。

「丙の胡散臭い道具だな? あいつは基本的に説明が不親切だから使う時は気を付けた方がいい」

「その台詞は三十分前に聞きたかったわ」

「それにしても……こんなところまで来るとは……」

 呆然と呟いたクロは、堪えきれずに吹き出して、やがて体を小刻みに震わせて腹を抱えて笑い出した。

「ふっ……くくっ……! お前も、大胆なことするようになったな!」

「わ、笑い事じゃないんだから! 誰が好きでこんな埃臭い牢屋に突入するかっての。プリズンをブレイクするならロマンもあるでしょうけど、Mでもないのにわざわざ檻の中に入ることになったのは、あなたが厄介極まりない事件に巻き込まれたからでしょうが。他人事みたいに笑わないでっ」

 さっきまで不貞腐れていたはずのクロは、そんなのさっぱり忘れたみたいに笑っている。いつの間にか、陶器みたいだった頬には赤みがさしているし、金の瞳にはいつものように意地悪で皮肉っぽい色が浮かんでいる。すっかり調子が戻ってきている。

「あー、笑った笑った。で? お前、何しに来たんだ」

「それは……」

 答えようとした、その時。

 ガタン、と扉が開け閉めされる音がした。次いで、足音が近づいてきた。

 クロが小さく舌打ちする。

「見回りだ。どっか隠れろ」

「えっ。ど、どっかって言われても……」

 こんな超殺風景な檻の中の、どこに隠れる場所があるというのだ。咄嗟のことで軽くパニックになり、あたふたと意味もなく周りを見回してしまう。そうしている間にも、足音は徐々に近づいてきている。

 脱獄は当然罪になるけど、勝手に獄に入るのも罪になるのだろうか。しかしどちらにせよ、こんなところにいるのを獄吏に見つかったらつまみだされるのは必至である。

 どうすれば――と息を呑んだ瞬間、クロにぐいっと腕を引っ張られた。

 文句を言おうとしたが、そんな暇もないまま体を引き寄せられ、顔はクロの胸に押しつけられる。そして薄っぺらい布団の上に押し倒されて、体を隠すように薄っぺらい毛布をかぶせられる。

 身を隠すためとはいえ。

 状況を理解した瞬間、顔が真っ赤になった。

 ――近い近い近い!

 桜子の体はクロの体にぴったりくっついている。ばくばくとうるさい鼓動は、はたしてどちらのものなのか、混乱する桜子には判断のしようがなかった。

 触れた、というか密着した体から熱が伝わってくる。熱い。だが、それ以上に自分の顔がものすごく熱い。いったい自分がどんな顔をしているのか、とりあえず鏡は見たくない。

 クロはどんな顔をしているだろうか。そっと窺うように顔を上げようとすると、じっとしてろと言わんばかりにクロの手が桜子の頭を押さえつけた。手錠を掛けられているくせに、行動は早いし器用だ。思いのほか力強く抱き寄せられて、息が苦しい。

 固い足音が近づいた。桜子は自分に迫っている危機を思い出して息を殺す。

 見回りの男が足を止める。そこに立ち止まっている時間が無限のように感じられる。実際には、顔も見えない獄吏がそこにいたのはほんの数秒だったろう。異常を発見することはできなかったらしく、足音は遠ざかって行った。

 もう動いても大丈夫だろうか。それとも、行ったと見せかけてフェイントをかけているのだろうか。まだじっとしていたほうがいいか。いやしかし、この恥ずかしい状況は今すぐにでも脱したい。

 どうしよう。どうしよう。

 悶々と考えあぐねていると、

「おーい、そろそろ起きていいぞ」

 クロに耳元で囁かれて思わず跳ね起きた。

 そっと胸に手を当ててみる。まだ心臓がうるさい。だというのに、ゆっくり体を起こしたクロの方はなんとも涼しい顔で、一人で勝手にどぎまぎしている桜子が馬鹿みたいではないか。

 桜子が恨みがましく睨みつけてやると、クロはといえば、恥ずかしがるどころかにやりと意地悪く笑って、

「もしかして、オコサマにはシゲキが強かったか?」

 平手打ちが炸裂した。



「お前何しに来たんだよ、牢屋くんだりまでわざわざ人に暴行加えに来たのかよ」

「知らないっ」

 綺麗な紅葉が浮かぶ頬を手錠のかかった手でさすりながらクロは憮然とした顔でぶつくさ言う。が、これに関しては謝罪する気にならない桜子はふいっとそっぽを向いていた。

 顔を背けたまま、桜子は雑な態度で問う。

「また見回りが来ないうちに手短に話を済ませるわよ。今回の件、誰かがあなたを嵌めようとしているらしい、ってとこまでは理解してるわ。とっ捕まって身動きできないあなたの代わりに真犯人をとっ捕まえてきてあげるから、こういうことをしそうな心当たりを教えてちょうだい」

「それを訊くためにここまで?」

「そうよ。で、どうなの」

 少し逡巡するような間が空く。またいつ面倒なことになるか解らないので気が気でなく、桜子は気が急いていた。心当たりが多すぎて解らないとか、そういう洒落にならない状況なのだろうかと心配になる。

 そろそろ何らかの回答が欲しくて急かそうとしたとき、クロはようやっと口を開いた。

「俺がやったって言ったらどうする?」

「……は?」

 理解しかねる答えに振り向くと、クロは冷ややかな表情で桜子を見つめていた。

「ほんとに俺がやったんだって言ったら、どうするよ。お前もさ、少しは人を疑うってことを知った方がいいぜ。そうやって無条件に信じるなんてさ……そんなんだからすぐに騙されるんだって思わないか」

「……」

 嘲りを含ませた調子で放たれた言葉。それを桜子はゆっくりと咀嚼して意味を理解する。

 クロがどういうつもりでそんなことを言うのか、理解した瞬間、桜子はクロの頭を引っ叩いた。

「痛ってぇ!」

 禿げるぅぅ、とぼやきながら頭を擦るクロをキッと睨みつけて、桜子は苛立ち全開に捲し立てる。

「ねえ、人の話聞いてた? 手短に済ませるって言ったよね? 私急いでるの、忙しいの。かまってちゃんごっこはあとにしてくれる?」

「かまってちゃんごっこって……俺は割とマジメな話をしてるんだが」

「じゃあ真面目に言ってあげるけれどね……私はあなたを信じてる、じゃなきゃこんなとこまでこないわ。お人よしだとか、何の根拠があってとか、あなたも言いたいことはいろいろあるでしょうけれど、理屈じゃなくて信じてるんだからしょうがないわ。だから、試すような真似をしなくったっていいの」

 クロは試したいのだろう、どこまで赦されるのか、どこまで桜子がついてきてくれるのか。

 どこまでだってついてってやるさ。それくらいの覚悟もないと思われていたなら心外だ。

 じっと睨みつけてやると、クロは目線を外してふうと溜息をつく。

「……全部お見通しかよ、面白くねーな」

「クロ……」

「覚えのない罪で捕まって、一日中疑われ続けて、何言っても信じてもらえなくて……ああ、やっぱり俺って、いつまで経ってもこの郷の中じゃ異端なんだなって思ったら、気分がささくれちまってさ。そうしたら、俺のことを信じるなんて言う、アホ面下げたお人よしが現れたもんだからさ」

「アホ面言うな」

「……疑われることに慣れちまうと、『信じる』って言葉が自分で信じられなくなっちまう。だから試したくなった。なのにお前ときたら、ちっともビビらねえのな」

 そう言ってクロは苦笑する。

 自分を信じてくれる味方がいる、という事実に、彼は慣れていないのだろう。ゆえに、寄せられる信頼に応える方法を知らない。

 孤独であると思い込んでいる黒猫。だが、彼が思うよりずっと、彼の味方は多いのだと桜子は知っている。

「紅月もね、あなたがこんなことするはずないって信じてる。私たち、一緒に真犯人を探そうとしてるのよ」

 本当のことを言えば、今日は紅月に内緒でここまで来たのだが、それをここで正直に告白する必要もあるまい。

 紅月の名前に、クロは、思った通り、素直に喜んだりなどという顔を見せるはずもなく、渋い表情を浮かべた。

「ちっ……あいつに借りを作る羽目になるのか。気に入らねえな」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょーが。さ、時間が惜しいわ、とっとと話を進めてちょうだい」

 するとクロはばつの悪そうな顔になって頭を掻く。

「あー……そう言われても、恨まれてる心当たりとか多すぎて、とてもじゃないが容疑者が絞れない」

 それを聞いた桜子は容赦なく一言、

「役立たず」

「お前は俺を助けに来たのかそれとも貶しに来たのか」

「役立たず」

 もう一度繰り返すと、クロは面目なさそうに首を垂れた。これを機に、日頃の行いを少しは改めてほしいところだ。

 結局ここまで来て収穫はゼロ。ただ、まったくの無駄足だったとは思えない。クロと会って話ができたことは、桜子にとってもクロにとっても、悪いことではなかったはずだ。

 桜子はさっと立ち上がると、ポケットの中に仕舞ってあった、幽霊リングの予備を取り出す。

「仕方がないから、別の方向から犯人に迫ってみるわ。もう少しの辛抱だから、大人しく待っててよね」

「ああ……桜子」

「なに」

「あんま無茶すんなよ」

「その台詞、そっくりそのまま金属バットで打ち返すわ。じゃ、行ってくる」

 にっと笑って別れを告げて、桜子はリングを腕に嵌める。もうクロには姿が見えていないと解りつつも、彼に手を振って、鉄格子をするりとすり抜けて牢獄を去って行った。

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