8 囚われにゃんこの憂鬱
鉄格子をすり抜け、桜子は中に忍び込み、クロの傍らに膝をついて声を上げる。
「クロ! よかった、やっと会えた! 無事? 怪我はない? 酷いことされてない? あなたがとっ捕まったって聞いて、真犯人をとっ捕まえてやろうとはるばるやってきたんだからね!」
桜子は捲し立てる。が、クロは無反応である。
「あれ? クロ、聞いてる? ねえ、クロってば……」
と言いながら、桜子ははたと気づく。
そうだ、今の桜子は透明人間。誰にも見えない、声も聞こえない、触れない状態なのだ。クロの顔を見れたのでうっかりそのことを忘れて話しかけてしまったが、これでは聞こえるはずがない。
「私ったら、盛大な独り言しちゃったわ。ま、誰にも聞こえてないからいいけど……」
桜子は左手の腕輪を外して改めてクロとご対面――とは、ならなかった。
「……? あれ? あれっ!?」
銀色の腕輪は、左手首にがっちり嵌ったまま外れない。
「…………」
引っ張ってみる。ちっとも動かない。
「あれぇっ!!?」
全然外れる気配がない。どうやらこの幽霊リングの術、自由に解除できるわけではないらしい。確かに便利で、門番に気づかれることなく侵入できて、その点は素晴らしいのだが――
「これじゃクロにも気づいてもらえないじゃん! 駄目じゃん! 私何しにここまで来たの!?」
今までそれに気づかなかった桜子も鈍すぎるが、桜子の要望をちゃんと聞いた上でこの道具をくれた丙も気づいてくれればよかったのにと、恨み言を言わずにはおれない。
目の前にいるのに話をするどころか気づいてすらもらえない。こんなのってアリ? 桜子は思わず頭を抱えて唸る。
こんな間抜けなことってないわ、と自分のアホさ加減に絶望しながら、ふとクロの顔を覗き見る。見られているなんて露とも思っていないはずの顔を、盗み見る。
いつも皮肉っぽい色を浮かべた金の瞳は、しかし今は、何の感情も浮かんでいないように虚ろで、宙に漂う視線が何を見ているのか解らない。唇は引き結ばれ、頬は陶器のように白い。顔色が悪いとか、見るからに具合が悪そうとか、そういうのとは違う。だが、いつもとは絶対に違う。精彩を欠いていて、無表情、無感情で、まるで人形のよう。
彼のこんな顔を、今までに見たことがない。
機械みたいに規則的に、ゆっくりと瞬きする瞳。何を見ているのか、何も見ていないのか。
それを確かめる術もないまま、ただじっとクロを見つめていると、不意にクロが身じろぎして、彼の両手を戒める重そうな手錠がじゃらりと音を立てた。顔がほんのわずかに動いて桜子を見る。一瞬どきりとするが、クロに桜子が見えているはずがない。目が合ったような気がしたのは、気のせいだ。その証拠に、桜子が体をどけると、クロの視線は桜子を追うことはなく、じっと鉄格子の方を睨んでいる。
それで桜子も遅ればせながら、足音が近づいてくるのに気づいた。立ち上がり振り返ると、重く荒っぽい足音が二人分、確かにこちらにやってくる。止まる気配はなく、どこまで来るのだろうと思っているうちに、白い制服姿の男が二人、クロの檻の前で立ち止まった。頭に耳が生えていないから、たぶん狗でも猫でもないのだろうが、それ以上、彼らがどんな妖なのか判断する材料はなかった。ただ、偏見かもしれないが、顔に浮かんでいる厭味ったらしい表情から、彼らがあまり性格がよろしくないだろうことは推測できた。
二人のうちの片方、茶髪で三十代くらいの外見、中肉中背の方の男が、がちゃがちゃと鍵を回して鉄格子を開けた。釈放かと期待したらそんなことはなく、もう片方を外に見張りとして残して中に入ってくる。嘲りを浮かべた唇を吊り上げて笑いながらクロを見下ろす。黙って睨み上げていたクロは、興味を失くしたように不意に目を逸らす。
それが気に食わなかったのか、茶髪男はクロの腕に手を伸ばし強引に引っ張る。
「こっちを見ろよ、化け猫」
不愉快気に眉を寄せたクロがキッと睨みつけると、自分で見ろと言っておきながら茶髪男は少し怯んだようだった。だがすぐに気を取り直し、生意気な態度に対する懲罰とでもいうように爪先をクロの脇腹に捻じ込んだ。
クロは僅かに顔を歪めた程度で声を漏らさない。その代わりとでもいうように、喚いたのは桜子である。
「ちょっと、なにやってんのよこの性悪! 横暴よ、横暴! 警察のくせに私情全開で暴力振るうなんてサイテーだからね! ちょっと聞いてるの!?」
聞いてるはずがない。
すぐ脇で透明人間がぎゃあぎゃあ叫んでいることなど露とも知らず、茶髪男は話を続ける。
「そろそろ、竜胆様から奪った石の在処、白状したらどうなんだ。さっさと反省の色を見せた方が罪は軽くなるぞ」
「……知らないことは白状のしようがないな」
「まだとぼける気か!」
ぼそりと答えるクロに対して、茶髪男は耳が痛くなりそうなくらい大声で叫ぶ。
どうやら、竜胆から奪われた石は見つかっていないらしい。つまり決定的な物証が見つかっていないものだから、強引な尋問で自白させようと、茶髪男は躍起になっているのだ。
おそらくはクロの返答も、茶髪男にとっては苦し紛れの言い逃れ、とぼけているだけにしか聞こえないのだろう。いかんせん、クロが犯人だともう決めつけてしまっている。だが、クロからしてみればいわれのない尋問には、「知らない」以外の他に答えようがない。それが相手の神経を逆撫でするだけだと解っていても、知らないものは知らないのだから仕方がない。
「強情な奴だ。こうして獄に繋がれている以上、つまらない隠し立てをする意味などないというのが解らないのか」
男の喚き声がいい加減うるさくなって来たのか、クロは不機嫌そうに言い返す。
「隠し立てをする意味がないと解ってるなら、隠してるんじゃなくて本当のことを言ってるだけだと、どうして考えられないかな。つまらない私情を挟んで熱くなっているんじゃないか」
冷静に説得を試みているらしい、と思ったのは一瞬のこと。
「必死で手柄を立てようと頑張るのは勝手だが、仮に石を首尾よく見つけて献上したところで、竜胆はお前なんか眼中にないぞ。お前は竜胆の好みには当てはまらなそうだ」
「な……ッ!」
説得なんてとんでもない、抑揚のない声で言い放ったのは完全に挑発である。どうも、茶髪男は竜胆に気があるらしく、職務だからという以上に、竜胆の気を引きたくて孔雀石の在処を必死で探しているらしい。そして彼のその気持ちと竜胆の好みまでなぜか把握していた情報通の黒猫は安い挑発をして見せたのだ。
その歳末バーゲン並みに安い挑発に、茶髪男は顔を真っ赤にする。
「う、うるさい! 生意気なことを言いやがって!」
プライドを大いに傷つけられたらしい男は、警察であるという立場や職務中であるという現状などはすっかり頭から吹き飛ばして、クロの胸ぐらを掴んだ。
反射的に男の横暴を止めようと手を伸ばした桜子だが、当然だがその手はするりとすり抜けてしまい何の役にも立たなかった。
クロを強引に引っ立たせて、壁に押しつけ首を締め上げる。
「ちょっと、乱暴はやめて! クロもどーしてそういう余計なこと言ってわざわざ相手を怒らせるの!」
だが、桜子はふと考える。あんな挑発をすれば男がキレるのは解りきっていた。人の機微には意外と聡く、感情のままに意味もなく相手を怒らせるほど考えなしのクロではない。解っていながらわざわざ言ったということは、相手を怒らせることが目的だったということかもしれない。そう、たとえば、男がキレて殴りかかってくるのを利用して手錠をぶっ壊すつもりであるとか。
そう思って、ひやひやしながら桜子は成り行きを見守る。というか、見守る以外に今の桜子にできることはないのだが。
しかし、少し見ていたら、クロにそんな考えがあるわけではないのだとすぐに解った。男は怒りのままにクロの首を締めている。ちょっと大げさに苦しい素振りをして見せれば男も少しは溜飲を下げるかもしれないが、クロはかすかに眉を寄せて小さく呻き声を上げる程度でちっとも堪えた風に見えない。実際は相当に苦しいのだろうが、そういう弱った姿を見せないものだから、男は苛立ちのままにますますクロを追い詰める。
クロの金色の瞳は男を冷ややかに見ている。そこには怒りや苦痛の色はない。ほとんど何も考えていない無感情な目。強いて言うなら、早く終わりにしたいとでも言いたげな投げやりな目だ。
――こいつやけっぱちになってるだけだ!
桜子はそのことにようやく気付いた。
「この馬鹿ああ! 自棄を起こすの早いわよ! 不貞腐れるの早すぎ! お願いだから早まったこと考えないでちょっと冷静になって大人しくしててよおお!!」
全力で懇願してみるが、当然その声は届かない。
どうしたものかとはらはらしていると、外で見張りをしていた同僚がやっと茶髪男の行き過ぎた行動を咎めてくれた。
「それくらいにしておけ」
「……チッ」
舌打ちと同時に、茶髪男はクロから手を離す。クロは軽く咳き込みながら壁をずるずる滑ってその場に座り込む。
「また尋問に来るぞ。その時は、いい加減強情を張るのはやめて大人しく白状することだ!」
捨て台詞を残して、男はやっと出て行ってくれた。
去っていく背中にべぇっと舌を出してから、桜子はクロの行動を窘める。
「あなた、もうちょっと冷静に、言動には気を付けなさいよね。ああいう性格の悪い奴はね、なにかと口実をつけてあなたを痛めつけようとするんだからね、思考回路が小学生のガキ大将なんだからね、こっちがオトナにならなきゃだめなんだから。いい? 私が真犯人を捕まえてくるまで、つまんない自棄を起こして反抗的な態度をとるのは慎んでてよ?」
という忠告も勿論だがクロには聞こえていない。だが、返事がないことにいちいちしょげるのはやめて、桜子は勝手に独り言を続ける。
「ああ、でも、真犯人どうやって見つけようかしら。あなたの話をアテにして来たってのに、これじゃ苦労したのに手掛かりゼロでとんぼ返りしなきゃならないじゃない! ここの連中はそろいもそろってカンジ悪いのばっかりだし、私は手際悪すぎるし、あなたはあなたでやけっぱちだし、もうなんでこんなことになっちゃってんのよッ!」
桜子の方も自棄を起こしたくなってきた。
だが、すぐ目の前にクロがいる。見えていないとは解っていても、投げやりな姿をここではしたくない。
「……あなたの分まで、私がしっかりしなきゃいけないわよね」
やっぱり、旅行には行かず、こちらに来ておいてよかったと桜子は思う。クロがこんな調子だとなれば、うかうかとはしていられない。一刻も早く真犯人をとっ捕まえてクロを自由にしてあげたい、その気持ちが一段と強くなった。
聞こえないのを承知で、桜子は拳をどんと自分の胸に当て、力強く宣言する。
「安心して。他の誰がなんて言ったって、私は最後まであなたを信じてる。ずっと味方でいる。だから、あなたも私のこと、少しは信じて待っててよ?」
その瞬間、奇跡的な偶然で、クロが僅かに顔を上げた。
まるで目が合ったみたいに視線が交わる。
クロが何かに驚いたように目を見開いている。
そして、驚愕の中に不機嫌と呆れを混ぜたような顔でぽつりと呟いた。
「…………お前、こんなところで何やってんだ」
「……………………、あれッ!?」
思いがけず会話が成立してしまった瞬間である。




