5 平和な喧騒を聞きながら
家にいるのは危ないから、という理由で出かけたはずの桜子とクロだが、二時間もしないうちにクロの屋敷にとんぼ返りする羽目になった。しかも、メンバーが増えている。クロが怪我を負わせた相手を放置するわけにもいかず、影丸もつれてくることになったのだ。
やんちゃ小僧二人組、体中にできた擦り傷に、桜子は嫌がらせの如く消毒液をたっぷり擦り込んでやった。勝負はまだ続いているつもりなのか、何かの我慢大会のように、二人はかなり痛そうな顔をする割には声一つ上げようとはしなかった。
意地っ張りな子どもだな、と桜子は思う。しかもそのうち片方は、見た目は子どもでも中身はいい年をした大人のはずなのに。
「ちくしょう……お前なんか、大っ嫌いだ……」
か細い声で影丸は面と向かってクロを罵った。今更そんなことを言われたところで傷ついたりむかっ腹を立てたりするような可愛らしい根性をしていないクロは、「あっそう」と適当に流した。その反応は影丸のプライドをそこはかとなく抉ったらしい。
「こんな、ヤな奴にも勝てないなんて……なんで僕は、こんなに弱いんだろう……」
ちょっぴり自己嫌悪が交じり出した。
まあ確かに、こんな超絶胸糞悪い黒猫に勝てないのは悔しいだろうな、と桜子は思う。その考えを見透かされたのか、クロが憮然とした表情を向けていた。
影丸はクロのことを同年代の猫だと思っているかもしれないが、その正体は大人の黒猫だ。それを知っている桜子からすれば、影丸のための荒療治とはいえ、大人が子供を苛めている構図に見えなくもないわけで、そう思うとあんまり影丸が可哀相なので、慰めてあげようという気になった。
「気にすることないわよ、別にこんな奴に勝てなくったっていいじゃない。暴力で相手を打ち負かしたってね、そんなの、全然褒められるようなことじゃないんだから」
「でも……弱いとまた、馬鹿にされるし、苛められるから……強くならないと、勝たないといけないでしょう……?」
「別に腕っぷしだけが強さじゃないだろう」
意外にも、そう慰めるようなことを言ったのはクロだった。
「小さくて、力もなくて、妖術なんか全然使えない……それでも強い奴ってのは、いるもんだ」
「……?」
「自分の信念を曲げないし、誰かのために一生懸命になれるし、格上相手だろうと平気で噛みつくし。そういう馬鹿みたいな強さを持ってる奴はいる。お前が欲しい強さがどういうものなのかには興味がないが、喧嘩の腕だけで強さを測るような阿呆みたいな考えは捨てとけ」
「そんな妖が、いるの……?」
影丸はぽつりと呟く。
「もしそうなら、僕も、そんな妖になれるかな……会ってみたいな、その妖に」
「――――」
その時、クロがひっそり呟いた言葉は、影丸にも桜子にも聞こえなかった。
ただなんとなく、もう一度言ってとお願いしても、二度と教えてはくれないような言葉だったのだろうな、と桜子は思う。
手当てを終えると、影丸は去って行った。その後ろ姿は、つい数十分前に出会った時より、一回りくらい大きく見えたような、気がしないでもない。
その後、桜子たちは再び街へ出た。今度は面倒事にぶちあたらなければいいけど、などとクロは嘯いていた。
「影丸くん、きっと大丈夫だよね」
ここから先は、桜子たちには手出しのできない子どもの領分。だが、彼はこの先強くなれるだろうな、と桜子は予感していた。自分の弱さを認めて、弱いままでいることをやめて、そして性悪な黒猫相手に果敢に立ち向かうことができたのだから。
ところが、その黒猫はひねくれ者なわけだから、桜子の言葉に素直に同意はしてくれなかった。
「さーね。俺の知ったことじゃない」
「そんなこと言っちゃって。あなたといい勝負してたんだから、心も体も逞しいじゃないの」
「いい勝負? 馬鹿言え。超手抜きしてたに決まってんだろ」
「ふうん? そこまでして、彼の成長の手助けをしてあげたの? いつになく優しいことをするじゃないの」
クロは失言に気づいたらしく小さく舌打ちした。彼にしてみれば、小学生相手にいい勝負だったことより、小学生相手に優しくしたことの方が恥ずかしいに違いない。
「彼はきっと、強くなれるよ。弱い人の気持ちが解って、優しくて、明るくて、強い子に……そういえば、彼の名前には、きっとそういう願いがあるんじゃないかなって思うし」
「名前?」
クロは訝しげに眉を寄せる。
「『影』は日や月の光を意味するから。クラスメイトは、影が薄いだなんてからかっているみたいだけど、私はいい名前だと思うわ。光のような子にっていう、願いがあるんじゃないかなって」
「……」
クロが少し驚いたように目を見開いた。
「お前……学があったんだな」
「馬鹿にしてる?」
口を開けば憎まれ口しか言わない。こんなひねくれ猫と違って、影丸は素直ないい子に育ってほしいものだ。
ところで、桜子には少々気になっていることがある。クロと影丸が殴り合いを始めた時、一瞬見えた幻みたいな光景、その中に出てきた、クロの姿。
「ねえ、クロ」
歩きながら、問いかける。
「何だよ」
ぶっきらぼうに応じるクロに対して、次にかけるべき言葉を、桜子は考えあぐねていた。
闇の中に佇む子どもの姿のクロは、目の前にいるクロとは違う。中身が大人で、強さを持っているクロとは違う。触れれば脆く崩れてしまいそうな弱弱しい姿は、今のクロからは考えられないものだった。
自分が見たものは何だったのだろうか。ただの白昼夢なのだろうか。それとも……。
だが、桜子しか見なかった幻について、クロに尋ねても仕方がないのは明白だ。
「……ううん、なんでもない」
「何だよ、気持ち悪いな」
「いや、そのぅ……あなたが子どもに肩入れするなんて珍しいなあって。どういう風の吹き回し?」
明らかに苦しい誤魔化しだったが、クロは痛いところを突かれたというように眉を寄せて目を逸らす。そして、聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
「ただの……同属嫌悪だ」
「……」
その言葉の意味が、解らないような解ってしまうような、微妙なもやもやとした気分になった。だが、クロの顔を見るに、それ以上詳しいことは教えてもらえなそうだと解ったので、桜子は追及しないことにした。
頭の中では、クロの今の言葉と、奇妙な幻とがぐるぐる回って、重なりそうな、繋がりそうな、予感がしていた。そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、前から歩いてきた妖と肩が僅かにぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ」
反射的に謝ってから相手の顔を見ると、見覚えのある女性。誰だったかな、と記憶を探るより前に、クロが大声を上げた。
「あ! 丙、てめえッ!」
「あら、見つかっちゃった」
てへ、と笑って、こつんと拳で頭を可愛らしく打ってみせる女性――丙に、クロは素早く掴みかかった。本当は胸ぐらを掴んでやりたい気分なのだろうが、そんなところまで手が届かないので、腰のあたりに手を回して捕えていた。
「よくも人をこんなみすぼらしい姿にしてくれたな! 解術の道具、あるんだろ? とっとと出せ」
「いやぁ、そんな慌てなくても、明日になったら効果が切れるわよん」
「明日まで待てるか!」
小学生サイズの姿は相当腹に据えかねているらしく、クロは丙を決して離そうとしない。その執念深さに屈したのか、丙は溜息交じりに肩を竦めた。
丙を捕えたまま屋敷に戻ると、クロはすぐさま元の姿に戻すよう要求した。
解術用の薬と言って手渡されたのは、透明の液体の入った瓶だった。本当に解術用なんだろうな、とクロは三回も念を押して確認した。丙は「心配性ねぇ」と能天気に笑っていた。
薬瓶と服を引っ掴んで、クロは席を外した。おそらく風呂場あたりに駆け込んでいるのだろう。桜子と丙はそれを待つ間、茶の間で呑気に緑茶を啜っていた。
丁度良い機会なので、桜子は丙に礼を言っておくことにした。
「あの、この首飾り、丙が作ってくれたって聞いたわ。ありがとう」
胸元を示してそう言うと、丙はぱっと花開いたような笑顔を浮かべる。
「気に入ってくれた?」
「ええ。とても綺麗だし、自由に世界を行き来できるようになったし」
「喜んでもらえてよかったわ。まあ、私は殆ど何もしていないのだけれど。クロの要望に合わせて編み出した術式を首飾りに組み込んだだけ。術の発動に必要な妖力は全部クロが込めたから、私は大した苦労はしていないのよ」
「クロが……」
この小さな首飾りの中に、クロの力が込められている。そんなこと、彼は一言も言わなかった。言うはずもないな、と桜子は思う。そういうことは、訊かれたって言いやしないだろう。
あなたのために力を込めました、なんて台詞は、クロのガラじゃないだろうから。あの黒猫は、プライドが高いのだ。
「ところで」
不意に丙が声を潜め、唇を耳元に寄せてきた。
「式はいつ?」
「は?」
言っている意味が解らなくて、思わず頓狂な声を上げてしまう。
「何の話?」
「え? だって、え、二人は結婚するんじゃないの?」
「はぁ?」
あまりに脈絡のない話だった。いったい何を勘違いしたらそんな話になるのだろうかと桜子は頭を疑問符で一杯に埋め尽くしてしまう。
「あら? 私の誤解?」
「誤解よ。超誤解。なんでそんな話になってるの?」
「だって、人間の世界と妖怪の世界を自由に行き来できるように道具を作ってほしいって依頼されて……クロには勿論そんなものは必要ないから、それを必要としているのは別の人なんだろうなって思って。あのクロが誰かに贈り物するってだけでも驚きなのに、よくよく聞いてみると相手は桜子って名前の女性だっていうから、てっきり恋人でもできたんだろうなって、プロポーズするんだろうなって思って、そういう意匠にしたのよ? 金色の鎖と桜貝の組み合わせは我ながらベストだと思ったのよ」
金色の鎖と桜貝――金色の瞳の猫と、桜子。
首飾りの意匠の意味を聞きながら、桜子は現実逃避の如く、へぇこれ桜貝っていうんだーと棒読みで新発見を告げる。
「そっかぁ、私の勘違いかぁ。ごめんなさいねぇ。じゃあ、首飾りにしといてよかったわね。私本当は指輪にしましょうって提案したんだけど、クロが断固として拒否したから渋々首飾りに妥協したの。確かに指輪じゃあまりに紛らわしいものね、クロが反対するのも納得ねぇ」
などと丙は一人勝手に納得している。
それにしても、女性にプレゼントすると聞いただけでプロポーズだと勘違いするとは、思考回路がぶっ飛びすぎだろう。桜子は呆れ果ててしまって、丙の酷い勘違いを責める気にもなれない。
「じゃあ、クロとはお友達ってだけなのね」
「ええ、勿論」
「申し訳ないことしちゃったわね」
「いえ、まあ、別に何も言わなきゃ、この首飾りを見ておかしな誤解をする人もいないだろうから、気にしないけれど」
「そう言ってもらえると助かるわ。でも、これはビジネスだからね、ごめんなさいだけで済ませるわけにはいかないわね」
丙は徐にポケットから紙切れを一枚取り出した。
「これ、千年堂のサービスチケットね。一回だけ無料で、なんでも好きな物を作ってあげる。これで勘弁してね」
「もらっていいの?」
「いいのいいの。これからも千年堂をご贔屓に」
「でも、どちらかというとお詫びならクロにした方が……」
「クロには今回の報酬に色付けておけばいいのよ」
クロに対してのアフターケアは雑である。
「そうそう、もう一つ、お詫びのつもりで面白い話をしてあげる」
「面白い話?」
「マタタビってあるでしょ」
「あの、猫が好きな奴よね」
それ以外にないとは思ったが、念のため確認すると、丙は笑顔で頷いた。
「マタタビに含まれる成分が、なんだか猫をいい気分にさせるらしいわね」
「まあ、『ネコにマタタビ』っていうくらいだしね」
「あれって、化け猫にも効くのかな」
「……どうだろう。試したことないし」
「そうよね。だから私、試してみたくなって」
「……??」
「さて、と」
丙は徐に立ち上がる。
「そういうわけで、逃げるね」
「……」
そういうわけで、というのが、どういうわけなのか、なんとなく察しがついてしまって、桜子は唖然とした。
その時、どたばたと廊下を走る音がして、部屋にクロが飛び込んできた。
「丙ッ! てめえやっぱり薬に余計なもん仕込んでたな!?」
「じゃ、ばいばいっ!」
元のサイズには一応戻っているが激昂するクロと、それを完全に見越していて一目散に逃げ出した丙。クロは丙を追って家を飛び出していった。
丙が薬に何を仕込んでいて、パッと見は普通っぽいクロに今何が起きているのか、クロは絶対に教えてはくれないだろうが、丙の思わせぶりな言葉のせいで、知りたくはないがなんとなく悟ってしまった。桜子は盛大に溜息をつく。とりあえず、家主が勝手に出かけてしまったから、桜子は必然的に留守番を任されたことになる。
「はぁ……賑やかねぇ……」
他人事だと思って能天気に構え、桜子はのんびりお茶を飲みながら、クロの帰りを待つことにした。




