4 荒療治はお手の物
追っ手は妖怪と言えど子どもだ、桜子の全力疾走のおかげで、追いつかれることはなく、見事に逃げ切りに成功した。現在地は、商店街から少し離れて人気の少なくなった公園のような場所。公園といっても遊具やらベンチやらがあるわけではなく、どこからか厄介払いされてきたような廃材が積み上げられて座るのにちょうどいいような高さになっているだけのスペースだ。
あまりお尻に優しくはなさそうな材木の上に桜子とクロが座り、そしてその間に、一緒に逃げてきた少年が座る。突然小脇に抱えられて走り出されるという衝撃の展開に巻き込まれた少年は、そのショックのせいか、涙の方はひっこみつつあった。
「えーっと、落ち着いたなら、まずあなたの名前と、追いかけられてた事情を聞いてもいいかしら」
緩そうな涙腺に気を遣い、桜子が優しく問いかけると、少年は泣き腫らした目で桜子を見返した。
「僕は影丸……化け猫の一族の一人です」
弱弱しい声がぽつりぽつりと語り出す。
「僕は……他の猫たちに比べて小さいし、力も弱いし、妖術もへたくそで。それに、影丸なんて名前だから、影が薄い、暗いって言われてて……それで、学校のクラスメイト達はいつも僕を追い回して……」
どうやら彼は、苛められているらしい。とすると、さっき聞こえた声の主が、影丸を追い回している苛めっ子たちなのだろう。
四月、桜子は、狗と猫の争いに介入し、両者を和解させた。それまでは年端もいかない子どもの妖まで争うようなこともあったようだが、そういうことは徐々に減っていくだろうと予想された。
だが、種族間の確執がなくなることと、子どもたちの間で争いが起きなくなることとは別次元の問題である。人間だってそうだ。みんな仲良くしましょう、と言っていられるのはせいぜい小学二年までというのが桜子の持論である。それからは、些末なことで対立したり、喧嘩したり。対等な立場で喧嘩をしているうちはまだいいが、そのうち強者が弱者を、集団が個人を苛めるようになったら悲劇だ。
「いろいろ言われるけど……僕は何も言い返せないんです。弱いし、気は小さいし……いつも教室で一人で黙ってるから、影薄いっていうのも本当だし……」
影丸は自虐的な言葉を吐いてネガティブの沼にずぶずぶ嵌って行く。どうにか励ませないものか考えながら、ふとクロの顔を見て、桜子ははっとする。クロは、励ますどころか追い打ちをかけかねないような、冷ややかな目で影丸を見遣っていた。
こういうときの桜子の懸念はよく当たる。
「はっ……馬鹿馬鹿しい」
心底から嘲るようにクロは吐き捨てる。
「お前がなんで苛められるのか教えてやろうか。小さいからでも力がないからでも妖術が下手だからでも、影が薄いせいでも暗いせいでもない。そこまで解ってるくせに変えようとしないでうじうじしてるからだ」
「クロ!」
いくらなんでも厳しすぎる言葉に、桜子は慌てて止めようとするが、クロは黙ってろと言わんばかりに一睨みする。
「被害者ぶってる暇があるなら強くなればいい。妖の世界は弱肉強食、なんて一昔前みたいなことを言うつもりはないし、苛められる方にも責任があるなんてことも言わない。だが、強くなる努力もしないで、弱いままの自分に甘んじて悲劇ごっこをしてるのは、苛められてるとかどうとか、そういうのとは別次元で、悪いコトだ」
「きっ……君に何が解るんだよっ……強くなれなんて、簡単に言うなよ。強い奴には、弱い奴の気持ちなんて、解らないんだ……勝手なことを言うなよ……」
弱弱しい、けれど、悲しみの中に微かに怒りの火を灯したような声で影丸は言う。だが、対するクロはいっそう冷ややかに言う。
「解るわけがない、お前みたいな、甘ったれの気持ちなんか」
「――うわあああッ!!」
一瞬、泣き声かと思った。だが、すぐに違うと解った。それは怒りの絶叫だ。影丸がクロに掴みかかって、地面に押し倒していた。
クロは、あどけない表情に不似合いな冷笑を浮かべている。
「クラスメイトに掴みかかったことはあるか? ないだろう? 相手に刃向うのなんて初めてなんじゃないのか? なんでいつも逃げ回って泣いてばっかりのくせに、俺には怒るんだ? 甘ったれの性根を言い当てられたからだろ」
「うるさいっ!」
影丸が、右の拳を大きく引く。殴るつもりだ、そう解った瞬間、呆然としていた桜子はようやく我に返った。
「ちょっと、落ち着きなさいよ!」
制止しようと手を伸ばす。
だが、直後、ふっと目の前が暗くなって、桜子は立ち止まる。
「え?」
真昼間で明るかったはずのあたりが、墨をぶちまけたみたいに突然真っ暗になってしまった。クロの姿も影丸の姿も見えない。
いったい何が起きているのだろう、と考えるより前に、真っ暗な闇の中に誰かの声がした。
『お前なんか消えろ!』
『郷から出ていけ!』
知らない誰かの声。だが、子どもの声だということは解った。子どもの、心無い言葉の暴力なのだと解った。いったい誰が、誰にそんなことを言っているのだろうか?
『近づくな、汚らわしい猫め』
『痛めつけてやれ、そうしたらきっと郷から逃げ出すさ』
『逃げたところで、行き場所なんかないだろうけどな』
自分に向けられてないのだとしても、聞くのがつらいナイフのような言葉だ。その言葉を口にする者の姿は見えないし、言葉をぶつけられる方の姿も見えない。だが、なんとなく桜子には、それが誰に向けられている言葉なのか解る気がした。本当は解りたくない、だが、解らないふりはしていられない。
ふと、闇の中にぼんやりと、誰かの後姿が浮かび上がった。小さい、子どもの背中。
「……あなたは、誰?」
慎重な声で尋ねると、小さな背中が微かに揺れた。
振り返った少年の姿を見て、桜子は目を見開く。
拳を握りしめ、唇を噛みしめて。
涙を耐えているような金色の瞳。
今まで一度たりとも見せることのなかった、クロの一番弱い顔だ。
「クロ!」
闇の中で叫ぶと同時に、手を伸ばす。
その瞬間、正体不明の闇は掻き消え、元の世界が回復する。スライドショーのように瞬時に変わる状況に、桜子の思考はまだ追いついていなかった。
今のは夢? 幻?
そんなことを考えていると、今度は桜子の視界を塞ぐように、何かが眼前に迫ってきていた。それが吹っ飛ばされてきた影丸の体だと気づいた時にはすでに避けきれない距離だった。
「わあああっ!」
「きゃあッ!」
二つの悲鳴が重なって、影丸と、彼を受け止めきれなかった桜子が倒れた。さっきのクロと同じ具合、いや、それよりも重傷かもしれない。
影丸が自分で後ろに勢いよく吹っ飛んできたわけないから、当然に影丸を桜子の方に吹っ飛ばしてきたのはクロである。だというのに、クロは悪びれることなく、
「ぼけっとしてんな」
とのたまった。
さすがに苛立ってきた桜子は影丸を押しのけて起き上がり、クロに文句を言ってやろうと口を開きかけるが、ワイシャツを土塗れに汚して、頬には真新しいひっかき傷を作っているクロを見たら、罵倒する気も失せた。いつもは強いクロであるが、小さくなった体では思うようにいかなかったようで、なかなかいい勝負らしい。
「ちくしょう……」
泣き交じりの声を上げながら、影丸がのろのろと立ち上がる。二人ともまだやる気らしい。
すっかり土塗れになったスカートをはたきながら、桜子は向かい合う二匹の猫を見つめる。
――酷い荒療治。
男の子ってこれだから、などと思いつつ嘆息する。もう、止める気はすっかりなくなって、落ち着いて傍観する用意ができてきた。
不器用な黒猫が、誰かを慰めるとか励ますとか、そんな器用な真似はできない。できるのは、自分が嫌われ者になって、わざと怒らせて、自分の足で立たせて、自分の拳を振るわせることくらいなのだろう。
もう気が済むまでやってろ――桜子は廃材の上に腰かけて見物を決め込んだ。
そんな時、ばたばたと足音が聞こえたと思ったら、公園に三人の猫耳少年が駆け込んできた。
「あ、見つけたぞ、影丸だ!」
聞き覚えのある声だ。声を聞いた瞬間、影丸が表情を変えたところを見ると、問題の苛めっ子らしい。そういえば逃げてきたんだっけ、こんなところで騒がしく乱闘騒ぎを起こしている場合じゃなかったっけと思い出すが、もう後の祭りだし、だいたい乱闘騒ぎを始めたのはクロの責任なのだから桜子にはどうしようもない。
ふと影丸を見遣る。拳をぎゅっと固めて、唇を噛みしめている。どこかで見た、誰かの表情と似ている。
怖い気持ち、哀しい気持ち、それが涙となって溢れて来そうになるのを必死で押しとどめている顔だ。きっと今までだったら、このまま逃げ出してしまっていたのだろう。実際、影丸の瞳は逃げるように泳いだ。
だが、その目が、対峙していたクロの冷ややかな嘲笑を捉えた瞬間。影丸は悔しそうにクロを睨んだ。また逃げるのか、と視線で問われて、悔しくて思いとどまった風だった。
「……るな」
ぼそりと、影丸の口から言葉がこぼれ出た。聞こえなかったらしく、猫耳少年たちは訝しげに首を傾げたが、小さな声でもクロにはちゃんと届いていたらしく、彼はこれ以上ないくらい愉快そうに唇を歪めていた。
「……邪魔するなって言ったんだ。あっちいけ!」
たとえ弱くても、弱いままじゃいられない。彼がそう理解した瞬間だったのだろうと、桜子は思う。
影丸の踏み出したほんの小さな一歩を目の当たりにして、桜子は微笑ましい気持ちになっていた。
そんな温かい気分に水を差したのは、リーダー格と見られる猫耳少年の不愉快そうな声である。
「こいつ、影丸のくせに生意気だぞ!」
リーダーの少年が拳を振り上げる。
しかし、それを振り下ろすことはなく、少年はびくりと震える。今までの威勢の良さはどこへいったのやら、無残なほどにぶるぶると震えている。今にも泣きそうな顔には同情すら覚える。見ると、後ろに控えている猫耳少年たちも目に怯えを浮かべて立ち竦んでいる。敵の豹変の理由が理解できないらしく、影丸はきょとんとしている。
やがて、三人の少年たちは脱兎のごとく逃げ出した。やってきたと思ったら何もしないで勝手に逃げ出した――影丸にしてみれば理解できない現象だろうが、桜子には、少年たちを怯えさせたものの正体が解っていた。
首を傾げる影丸をよそに、桜子はクロの元へ歩み寄り、すっかり小さくなったクロの頭にぽんと手を乗せる。
「大人げないわね、あなた」
クロはあくまですっとぼけた顔で言う。
「人聞きが悪い。何もしてないだろ」
「そういうことに、しておいてあげる」
まあ確かに、クロは何もしていない。少年たちに向かって殺気を剥き出しにする以外は。
邪魔者がいなくなったところで改めて始まった第二ラウンドは十分くらい続いて、小休止を挟みつつ第三ラウンド、第四ラウンドまで縺れ込んだ。手加減をしているのか素なのか、クロと影丸は割といい勝負で、両方ボロ雑巾みたいになったところで桜子によるレフェリーストップが入った。




