19 老婆か、狼か
「体育の成績で五を誇る桜子さんですから、これくらいの階段で音を上げたりはしないんだけど、でも婚礼の儀式の前に花嫁に肉体労働を強いるって絶対オカシイでしょ鬼貴降って」
「ぐちぐち言わずにキリキリ歩け」
ぶつくさ文句を言いながら階段を上がる桜子に、容赦のない叱責が飛んだ。こんな歯に衣着せぬ物言いをするのはクロだけである。
桜子の斜め後ろのあたりについてくるクロに向かって、桜子は振り返らずに言う。
「だってぇ、牛車で会場まで乗り付けると思ってたのよ、リムジンで乗り付ける新郎新婦よろしくさ。なのに徒歩って。車を降りたら即戦争だと思って決意を固めてたのに、こんな前哨戦があるんじゃ冷めちゃうじゃない」
「後ろから炙ってやろうか、丁度火は持ってるんだ」
そう冗談を言うクロの声は、いつもと少し響きが違う。付添いは面をつける決まりだということで、クロは般若の面をつけて鬼たちに交じっているからだ。ついでに服も、似非学生風制服姿から和服にチェンジしている。それら一式は忍からの借りものらしいのだが、それを借りる際にも「ありがたく使えよ馬鹿猫」「こんな乳臭い服着れるかアホ鬼」などと一悶着があったらしい。喧嘩するほど仲がいいとはいうが、ここまで度が過ぎると普通に仲が悪いだけのように思える。
「すまねえな、姫さん。本来、鬼貴降に出る巫女は妖力が強いから、わざわざ階段を歩いて上らなくてもすいすい飛んでったりできるもんなんだが」
「ねえそれ謝ってないよね? 遠回しに何もできない半妖小娘をディスってるよね?」
桜子が歩いているのに他の鬼たちが飛んでいくわけにもいかないので、全員桜子の歩幅に合わせてちんたら歩いている。忍の言が「お前のせいで不慣れな徒歩行程だぜ」というひそやかな嫌味に聞こえたのは、鬼貴降を前に桜子の気が立っているせいだろうか。
「おしゃべりはその辺にした方がいいぜ。もうそろそろてっぺんだ。息切れしながら会場突入じゃ格好がつかないだろ」
他の二人と違ってためになるアドバイスをくれる紅月。階段の終わりまで間もなくだった。
息を整えて階段を上りきり、「全然疲れていませんから」という顔で鳥居を潜った。鳥居の先には石畳が続き、正面に社が鎮座していた。
社の前では、黒頭巾で顔を隠した黒服の集団が待ち構えていて、桜子が前に進み出ると揃って頭を下げた。彼らが噂の黒衣衆――紫鬼家に仕える鬼たちなのだろう。
黒衣衆のうちの一人が前に出る。全身黒ずくめで顔も見えないせいで男か女か解らない鬼だが、声を発すると男だと解った。
「お待ちしておりました、葵様。私は黒衣衆の網代と申します。葵様をご案内する役目を承っております」
名前を呼ばれ、桜子は今自分が「葵」であることを思い出す。
「赤鬼家当主、葵でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
と、いつになく猫をかぶった声を出す。後ろでクロがひっそりと吹き出したのに、桜子だけが気づいて内心舌打ちした。
「さあ、こちらへどうぞ。紫鬼家当主・出雲がお待ちしております」
そう語る網代の表情は、相変わらず黒頭巾のせいで見えない。何も知らず儀式が行われることを心から喜んでいるのか、すべてを知った上でのこのこ死にに来た巫女を嘲っているのか、桜子には判断のしようがなかった。
クロたちと別れ網代について歩き出す。木造の階段を上がって建物内に入ると、そこは左右に伸びる回廊になっていた。すぐ正面に本殿が見えるのだが、直接そこには行けず、回廊を通って大きく迂回しなければ辿り着けない造りだ。一応、廊下の左右は胸のあたりまで柵があるだけなので、これを飛び越えて中庭に降りることも不可能ではないが、降りるのは良くても上るのが難しい高さだ。要するに、本殿で何かあっても、外から駆けつけるのも中から逃げ出すのも容易ではないということだ。
回廊の西側を通って歩いていく最中、桜子は網代の背に問いかける。
「ときに、先代巫女は息災ですか」
黒衣衆が紫鬼家とグルになっているのか否か、網代の反応から見極められれば、と思ってのことだった。網代は肩越しに振り返り、顔は見せないが、おそらく苦笑したのだと思う。
「申し訳ありません。黒衣衆は本殿に入られた巫女様と顔を合わせることはできないのです」
「あら、そうなのですか」
「はい。本殿に入れるのは基本的に紫鬼家の鬼と巫女のみですから、先代巫女様とお会いしたのは鬼貴降の当日のみで、言葉を交わしたのは本殿に至るまでのほんの短い間だけです。無論、有事の際は黒衣衆は本殿に呼ばれますが、幸いここ数百年は平和ですから」
そう語る網代は、少なくとも嘘をついているようには見えず、本心からそう思っているようだった。しかし、桜子はここのところ騙され率が高く、妖を見る目に自信を失くしつつある。網代に対する評価も、どこまで正しいかは謎である。
やがて、本殿の前に辿り着く。本殿は更に階段を数段上がった高いところにある。網代は階段の手前で身を引いて桜子を促した。
「この先に出雲様がお待ちです。私がご案内するのはここまでです」
「ありがとうございました」
「では、失礼いたします」
網代は東側の回廊を通って去って行った。
ここから先は、一対一だ。
ぺちん、と両手で頬を引っ叩いて気合を入れる。
「……よし」
怖くない。傍にいなくても、仲間がいると感じるから。
桜子は階段を上りきり、本殿の扉を開けた。
広がっていたのは二十畳ほどの板張りの部屋。部屋の四隅の燭台では蝋燭の火がゆらゆら揺れる。最奥には金色の屏風を背に座る白髪の鬼がいた。
桜子は少し意外に思った。婚礼の儀式というからには、紫鬼家当主はもっと若いものだと思っていたのに、実際にいるのは見るからに八十過ぎの老翁。しかも、人間でいうところの八十歳に見えるということは、実際には何百年生きているのやら。妖は長命だというが、この鬼は相当の長生きだろう。その長生きの秘訣が、鬼の心臓を食らったからでさえなければ、大人しく長寿を祝ってやるところだ。
さらに意外なことに、部屋には当主だけではなかった。当主の右手前に、黒髪を簪でまとめた着物姿の女がいた。若く見せようとしている努力は認めるが、その厚化粧ぶりと生え際の白さから、こちらもそうとう年老いた鬼だと解った。
だが、これらの意外な現実というのは、実のところ些末なことにすぎなかった。桜子は、部屋の中央にあった物を見て凍りついた。
「よく参った、当代の巫女よ。儂が、現鬼神の血を引く紫鬼家当主、出雲である。そこにおるのは儂の妹の葛葉である」
桜子の内心の戦慄など露知らず、出雲は鷹揚に笑いながら立ち上がる。老体の割にはしっかりとした足取りで桜子の傍まで歩いてくる。着物に焚き染められた甘い香が香ったが、桜子の心は酷く苦々しい。
部屋の真ん中に我が物顔で鎮座していたのは――布団。
「清めは済んでおるな? 床に入りなさい」
「…………」
――食われるってそういう意味!?
なんか違う。予想してたのとなんか違う。じじいのくせになんでこいつはこんなに元気なんだ。いや確かに鬼貴降はそもそも婚礼の儀式なんだから最終的にはそういうことをするかもしれないけれど、それにしても早すぎる。
ツッコみたいことはいろいろある。しかし、桜子は予想外すぎる事態にキャパオーバーを起こしかけていた。いろいろ修羅場を潜り抜けてきて、乱闘騒ぎには慣れてきたつもりだった。だが、この手の修羅場は初めてだ。
――だってまだ十六だよ!?
なんとか凌がなければ。婚礼の儀式といいつつロクに言葉も交わさないままいきなり初夜に突入しようとするじじいなんて御免だ。
「出雲様、実はまだ清めが済んでおりません」
「おお、そうだったか。まあ、それもそれでよかろう」
「…………」
――変態だ!
苦し紛れの言い訳は二秒で打ち砕かれた。
「お待ちください、兄様」
と、そこで救世主の如く待ったをかけてくれたのは、妹君である葛葉だった。妖艶に微笑む葛葉はゆっくりと立ち上がり桜子の前にやってくる。そして、徐に桜子の頤を掴んで顔を覗き込んだ。
「可愛らしい娘ですね……兄様は前の儀式で充分楽しんだではございませんか。此度は私にお譲りください」
「ん? そうだったか? 歳をとると物忘れが激しくなっていかん」
「誤魔化しても駄目ですよ。この娘は私がいただきます」
桜子は驚愕が表情に出るのを必死で抑えなければならなかった。
――まさかの百合だと!?
まずい。ついていけない。そんな趣味はない。
逃げ出したくなってきた。いやしかし、こんなところで敵前逃亡などできようはずもない。逃避しかける思考を押しとどめ、なんとか冷静になろうとする。
緊張して煩い鼓動を鎮めようと胸に手を当てる。すると、手の下に固い感触。ハンカチに包んで襟の合わせのところに潜ませてある「お守り」だった。
まだ、大丈夫だ。出雲と葛葉が言い争いをしている間に、ひそかに深呼吸して気持ちを落ち着ける。だんだん冷静になってくると、おかしなことに気づいた。
「……前回の儀式でも、出雲様がご当主だったのですか?」
鬼貴降では、当主と巫女が結ばれ、その間に生まれた子が次の当主になる。しかし、前の儀式でも出雲が当主だったということは、次に当主になるべき子が生まれなかったということになる。すなわち、この儀式で巫女が犠牲になっていること、桜子たちがかけていた疑いを、確実にするための傍証になる。
桜子が発した問いに、出雲と葛葉はぴたりと争いをやめ、先程まで穏やかに微笑んでいたのが一変して無表情になった。
「ああ、残念ながら子宝に恵まれなくて、私がずっと当主を務めているのだよ」
そう説明する出雲の声は、急に抑揚を欠いた。
「いつから、出雲様がご当主なのですか」
「ここ五、六回は私が鬼貴降を行っているよ」
「随分と長生きなのですね」
「私は千年以上生きている」
「そんなに長生きできるものなのですか」
「私は特別なのだ」
「長生きできる秘密があるのですか」
狼に問いかけをする赤ずきんのような気分だった。優しいおばあさんのフリをした狼との、少しずつ核心に近づいていく会話のよう。
目の前にいるのは誰だろう?
本当に心優しいおばあさんなのか、それとも狼なのか。
善良な神なのか、その皮をかぶった悪鬼なのか。
「巫女よ、知っているかね」
「何をですか」
「心臓の味を」
「っ!」
桜子は思わず飛び退いた。無表情な二人の鬼が桜子をじっと見ている。これが、獲物を虎視眈々と狙っている顔なのかもしれない。
「本殿には紫鬼家の者と巫女しか入れない。ここで行われていることは、黒衣衆でさえも気づかない。私がずっと当主のままでいることすら、彼らは知らないだろう」
「あなたはいつまで生き続けるつもりなの」
出雲は狂気に満ちた目で桜子を射竦めながら、悪びれもせずに答えた。
「食らう鬼がいなくなるまで」




