16 不器用同士が繋がって
その時クロが浮かべた表情は、四カ月前、桜鬼の話をしてくれた時と同じだった。
優しくて、けれどどこかやるせないような、切なげな表情。
それは、俺様な黒猫にとってはとても特別なことだった。
「もう気づいてるかもしれないけれど。俺はずっと、緋桜を探していた。別れも言えなかった主人を探していたんだ。見つけ出すのに十七年もかかっちまった。緋桜と同じ鬼の気配を持っていて、緋桜の顔に似た娘を見つけて、そいつの家に忍び込んだ。不法侵入までして辿り着いたところにあったのは仏壇だ。嗤っていいぜ、俺は遅すぎた」
桜子は笑わない。もしかしたらクロは、自分の愚かさを笑い飛ばしてほしかったのかもしれない。けれど、十七年間決して諦めず、忘れられなかった彼を、笑えるはずがなかった。
「俺がお前に声をかけたのはさ、仕方なくだったんだ。ここまできて、何も得られず、それどころか何もかも失って、胸の中に穴開けたまま終わりにするのが悔しくて、お前を緋桜の代わりにしようとした。無茶なことを言って、お前を試そうとした。けれどさ、一瞬で悟ったよ、お前は緋桜の代わりになんかなれっこないって」
かつて、桜子は自問した――緋桜を求めていたクロが代わりに見つけた桜子、それが母の面影すらないと思い知ったとき、クロは絶望したのだろうかと。
桜子は、偉大な母の足元にも及ばない、無力な少女だった。クロが求めていたものではない、代わりにはなりえない。
「けれど、不思議でさ……お前は緋桜とは全然違うのに、やっぱり親子だなって感じる時があった。似ているなって思う時があった」
「え……」
「正義感が強いところなんか、そっくりだよ。俺が猫の味方をしろって言った時、お前は食って掛かっただろ? 誘拐されてきて、見知らぬ場所で、怯えたっていいくらいなのに、お前は俺に向かって馬鹿って怒鳴ってた。そういう、曲げられないものを持っているのは、母親譲りだよな。……似ているところ、違うところを見つけるたびに、俺は、緋桜の代わりとしてじゃなくて、お前をお前として見るようになった。ムキになって喧嘩したり、いなくなったお前を探したり、ガラにもなく入れ込んだ。俺は基本的に他人と距離を置いているし、妖連中との関係なんかテキトーだし、だから、お前との関係は、俺にとっては珍しいことだった」
けれど、とクロは自嘲気味に笑った。
「今まで他人と真面目に付き合ったことがないから、俺はお前に入れ込むなんていう『らしくない』自分を持て余しちまったし、そもそも最初にお前と出会った理由が不純すぎるし、俺が今更誰かとちゃんと向き合うなんておかしな話だし。それに……もしもちゃんと向き合えたとしても、お前は人間の世界に生きる半妖だ。最後には緋桜のように、俺の前からいなくなることが決まってる。だから、突き放す以外に思いつかなかったんだ」
きっとクロは、あの時、もう二度と桜子と会わないつもりで突き放した。そうすれば、今までと変わらない日々が始まるだけ、桜子というイレギュラーとは二度と交わらないはずだった。実際、桜子は妖の世界に渡る術を持っていなかった。どれだけ会おうと思っても、会えなかった。蓬郷を通じて言葉を託した時も、クロは突き放した。
会いたい人と、会う気のない猫。こうして再び出会うことになったのは、不幸な、あるいは幸せな、偶然だ。
「ったく、何の因果かね……会うつもりのなかったお前が知らないうちにこっちの世界に来ていて、お前に何かが起きているって気づいた時には、助けに行かなきゃいけないような気がして、鬼の郷くんだりまで来ちまって」
この猫は、とても不器用だ。
疎まれ続けた彼は、大切な人がいなかった。やっと見つけた愛すべき主人とは、不幸な事故で死に別れてしまった。大切なものを大切にする方法を、彼は知らない。
そんな彼が、春も、この夏も、桜子を助けた。
――私は、あなたの「大切」の中に入れてもらえているの?
――お母さんとは似ても似つかない、出来の悪い半妖だけれど。
「なあ、桜子、事後承諾で悪いんだけどさ」
「うん」
「お前、俺のご主人様でもいいか」
「……」
「緋桜とは違う……けれど、緋桜と同じように、一緒にいたい気分なんだ」
突き放すことしかできなかった彼は、大切にする方法を覚えたのだろうか。
たぶん、学んでいる途中なのだろう。
「あなたのいう『ご主人様』っていうのが、私のいう『友達』と同義なら、意見は一致してるわ。私はずっと、あなたのことを友達だと思ってた。それが一方的な思い込みなんじゃないかって、ずっと怖かったの」
不器用なのは、桜子も同じだ。
不器用同士が手探りで、大切な友達を探している。
会えなかった空白の四か月は、そういう時間だ。
心情を吐露した黒猫は、少し恥ずかしそうで、それを誤魔化すように目を逸らす。彼のこういう間合いは心得ている。桜子はにやっと笑って言ってやる。
「まー、あなたみたいにひねくれた俺様にゃんこに付き合えるのなんて、超絶寛容で慈悲深い私くらいよね!」
「超絶短気でブチキレ常習犯のじゃじゃ馬が何言ってやがる」
小馬鹿にしたような顔で容赦ないツッコミを入れる彼は、もういつも通りの黒猫だった。
「――失礼いたします」
控えめな声に顔を上げると、障子に影が写っている。
桜子が応じると、静かに障子を開けられて、般若面が覗いた。だが、声からも着ている服からもこの般若が女性であることは明らかだった。すなわち、桜子を追い回していた般若衆とは別の者だ。
「お目覚めになりましたか、桜子様」
「あ、はい。お世話になりました」
「赤鬼家当主がお待ち申し上げております。おいでくださいませ。お召し物はこちらに用意してございます」
般若の女性は着物を寄越した。桜子が現在着ているのは裾を強引に引き千切って走りやすくカスタマイズしてしまった着物である。赤鬼家当主と面会するには、少々恥ずかしい格好だ。
桜子は服を着替え――その間クロのことは部屋から追い出した――クロを伴って葵の待つ部屋へ向かう。その途中、廊下から外を見ると空が闇色に染まっていて、桜子はようやく、自分が長い間眠っていたのだということに気づいた。
座敷では、美しい着物に着替えた葵が待っていて、桜子を見ると優しく微笑んだ。
「桜子、具合はいかがですか」
「もうすっかり元気よ。いろいろとありがとう、葵」
「いいえ、礼には及びません、元はと言えば我ら鬼の不始末ですから」
そう言って、葵は深く頭を下げる。
「事の経緯は忍から聞きました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「葵が謝ることじゃないわ、頭を上げて」
「いいえ、すべては私の責任です。忍は、私のせいでこのような暴挙に出たのです」
「どういうこと……?」
それを葵が答える前に、襖が乱暴に開け放たれた。
激しい音に驚いて顔を上げると、入ってきたのは忍だった。
忍はぎろりと桜子を睨みつける。その真意を問いただす前に、素早く桜子の前にクロが出た。忍に向かって「まだやんのかこの野郎」と威嚇をしているのが、背中を見るだけで解った。
「忍、おやめなさい」
「クロ、落ち着いてっ」
葵の堂々とした命令と桜子の慌てた制止で、血気盛んな男どもは渋々大人しく座る。
「申し訳ありません。忍は少々気が立っておりまして……」
「葵、そういうあんたはどうしてそんなに落ち着いていられるんだ!」
忍が苛立たしげに叫ぶ。葵はそれを視線で制するが、忍は構わず続けた。
「今からでも遅くない、考え直してくれ、葵。このままじゃ、二日後の鬼貴降であんたが紫鬼家に食われることになるんだぞ!」
「えっ……!?」
忍の言葉を聞いてもさして驚いた様子がなかったから、クロはもしかしたらすでに気づいていたのかもしれない。だが、桜子はその時初めてそのことを知り驚愕した。そして、忍の行動の意味を瞬時に悟った。
忍は葵を――愛する女性を守るために、桜子を犠牲にしようとしたのだ。
「鬼貴降の巫女は、葵なのね?」
「……そうです。二日後の鬼貴降で巫女の役目を果たすのは私です。最初は、私が巫女として鬼貴降に行くのを、誰もが当然と考えていました。ですが、鬼貴降まであと数日という時になって、鬼貴降で紫鬼家が巫女の鬼を食らっているのではないか、という疑惑が浮かび上がりました。そのせいで、忍をはじめとして多くの鬼が、私が巫女になるのを止めようとしました。ですが、確たる証拠もなく役目を放棄するわけにもいかず……私は覚悟を決めて巫女になるつもりでした」
「俺はそんなの認められなかった」
忍は悔しそうに声を出す。
「そんなの、みすみす葵を死なせに行くようなものだ。だからまず、葵を鬼貴降に行けないように閉じ込めた。そして、葵の代わりに差し出す鬼の女を探した。桜鬼の末裔である半妖が野牙里の郷にやってきたって噂は聞いたことがあった。だから、あの郷で詳しい情報を集め、桜鬼が人間の世界のどこにいるのか突き止めた。人間の世界の制服に詳しい妖怪が、野牙里の郷に来ていた時に桜鬼が着ていた服を覚えていて、そのおかげでだいたいの目星はついた。あとは地道に妖怪の気配を探るだけだ」
隣でクロが小さく舌打ちし、「俺がこいつ見つけんのに何年かかったと思ってやがる」と桜子にだけ聞こえる声で愚痴った。もっとも、忍の仕事は迅速だったが、手掛かりゼロから桜子を見つけ出したクロと単純に比較できるものでもないだろう。
それに、忍がそれだけのことをやってのけられたのは、何が何でも葵を救いたいという執念がゆえだろう。
「ただの問題の先延ばしだってのは解ってた。他人を犠牲にするなんて汚いことだってのも解ってた。だが、それでも俺は、今、葵を守りたかった」
そう語る忍の瞳からは、まだそれを諦めていないことがありありと窺えた。
「後悔はしてない。だから、俺はお前に謝らん」
潔い忍だったが、即座に葵に頭を叩かれた。
「謝りなさい馬鹿者」
「すみませんでした……」
潔いが、意志は弱かった。
「その鬼貴降って、ばっくれるわけにはいかないの? ドタキャンが拙いっていうなら、きちんとした合議の上で儀式を廃止するとか。もう形骸化した儀式なんだから、取りやめる口実は整ってると思うけれど」
桜子が提案すると、忍は心底馬鹿にした顔で言う。
「そんな簡単に行くなら俺はあんたを生贄にしようとはしなかった」
「うっ」
「鬼の上下関係ははっきりしている。紫鬼家は鬼の頂点に立つ最も高貴な家だ。神の家だぞ、神。神に逆らうなんて言語道断、それが鬼の郷の掟だ。話し合いってのは対等な立場でやるもんだろ、つまり紫鬼家とは話し合いが成立しない。紫鬼家がやるといっていることだ、俺たち下々の鬼が意見したって取りやめにはできない。紫鬼家が鬼を食らうことを欲しているなら、なおさら廃止になんてしてくれないだろう。それと、ばっくれたりなんかしたら、紫鬼家は郷に罰を下す。見せしめに何人殺られるか」
「そんな横暴ってないでしょ。もうさ、思い切って謀反起こしちゃうってどう?」
「それも無理だ。あんたには言ったと思うが、紫鬼家は何よりも反乱を恐れている。だから、それを防ぐための手は打ってある。俺や葵のような力のある鬼は、紫鬼家当主と主従の契約を結ばされている」
「契約?」
「契約を結んだからには、従属する側の鬼は主人に刃を向けることはできない。そういうふうに縛られている。ちなみに契約は合意の上でなければ破棄できない」
八方塞なんだよ、と忍は悔しそうに嘆いた。




