13 牙を剥く鬼、爪を立てる猫
「妖刀『鬼薙丸』……こいつで叩き潰されたくなかったらそこをどきな、化け猫」
忍は肩に載せていた金棒を片手で苦も無く持ち上げ、先端を地面に降ろす。それだけで、地震でも起きたかのように地面が揺れ、桜子を竦みあがらせた。
尋常でなく重い音。そして、それを軽々と扱う馬鹿力。あんなもので殴られたら、比喩ではなく本当に叩き潰される。振り回された金棒に掠っただけでも重傷コース、骨折で済めば御の字というレベルだ。
「ヤバいヤバいヤバい、ガチでヤバいでしょあれ! こんな反則級の怪力馬鹿系の敵と正面切って格闘とか論外でしょ! 全力で逃げるに一票! 脱兎のごとく逃げよう、猫だけどっ」
泡を食って後ろ向きな提案をする桜子だが、クロは不敵な笑みに僅かに焦りを浮かべて却下する。
「んな簡単に逃げ切れるんなら苦労はねえっつの。運よく逃げられたとしても、どこまでもしつこく追いかけてくるからストーカーって言うんだよ。このクソ野郎はここで迎え撃つ、腹括れ」
「でも負けるかもしれないんでしょ?」
「そん時は諦めてストーカーと仲良くやってくれ」
「冗談よしてよ! あなた状況理解してる? 私捕まったら殺されるんだってば!」
「それ先に言えよ。どう痴情が縺れたらそんな修羅場な展開になるんだよ」
「痴情の縺れ関係ないし。そんな浮ついた話じゃないし」
「じゃあどういう関係なんだ」
「未成年者略取誘拐の犯人とその被害者」
「人間の女を有無を言わさず誘拐とは、サイテーな野郎だな」
「自分のこと棚に上げて何言ってんだこの特大ブーメラン野郎」
「……あんたらこの状況でなんで言い争い始めてるんだ?」
忍が呆れ気味に眉根を揉んだ。
「ったく、前回といい今回といい、お前、面倒な奴に絡まれすぎだろ、くそったれ。お祓いするなら早いうちがいいぞ」
雑なアドバイスをくれながら、クロは己の影から吐き出された刀を手に取る。彼の妖刀「猫戯らし」、その美しく研がれた刀身を見て、桜子は率直な感想を漏らす。
「……向こうのと比べると貧相ね」
「失敬な」
受け太刀した瞬間折れてしまいそうな細身の刀には、正直不安しかない。
「丸腰の半妖小娘はテキトーに下がってろ」
そんな投げやりな言葉を残して、クロは駆けだす。その瞬間、彼の纏う空気が変わったのを、桜子は感じた。いい加減で俺様な黒猫が、本気になった瞬間だったのだろう。
頑張れ――無意識のうちに、桜子は祈るように手を組んでいた。
クロは素早く忍に肉薄して斬りかかる。その速さは、桜子が目で追うのがやっとなくらいに、素早い。しかしそれを、忍は最低限の動きで躱す。重量級の武器を携えているとは思えない身軽さだ。
素早く身を引いた忍が鬼薙丸を振り下ろす。鉄の塊が地面を抉り、砂塵が煙る。その轟音だけで身が竦む。だが、竦んでいたのは桜子だけだ。クロはその大振りの攻撃を跳躍で避けた。
重量級の武器は一撃食らうだけで致命的だが、逆に言えば食らわなければいい。重く大きな金棒による攻撃は、強力であるゆえに隙が大きい。加えて小回りが利きにくいから、懐へ飛び込めばクロの間合いだ。攻撃を外したその隙をついて、クロの太刀先は忍の喉元を狙う。
それを忍は、避けずに受けた。
「!」
急所を狙った突きの前に、忍は左腕を盾にした。
喉をやられたら致命的だから、代わりに腕を犠牲にする。その判断は冷静だ、だが、恐ろしいほど冷静すぎる。普通は咄嗟の判断で腕を一本くれてやることはできない。
忍は刃に貫かれたままの腕を振るってクロの剣筋を逸らす。それに引きずられる形でクロは態勢を崩した。
左腕から血が流れているのも構わず、忍は右手一本で持ち上げた金棒を横に薙ぐ。クロが反射的に太刀を手放し飛び退いたのと、忍の得物がクロを捉えたのはほぼ同時――直撃か、かろうじて掠り傷で済んだのか、桜子にその判断がつく前に、クロの体は吹き飛ばされた。
「クロ!」
思わず駆け出しそうになった桜子だが、忍と目が合ってびくりと立ち止まる。
金棒をずしりと地面に突き立て、忍は左手に刺さった刀を煩わしげに抜いた。そのせいで出血が酷くなるが、表情を変えずに太刀を明後日の方へ投げ捨てる。
刺された時も、刃を抜いた時も表情を変えなかった忍が瞠目したのはその直後だった。
吹き飛んだばかりのクロが瞬時に立て直し、忍に飛びかかったのだ。刀を拾うより先に忍に掴みかかり、刀に勝らずとも劣らない鉤爪で忍を切り裂いた。それは、引っ掻くというような可愛らしいものではなく、肉を深く抉るものだった。
――クロはどこから読んでいたのだろう。
左手に刺さった刀を抜くためには、一度、右手の武器を手放さなければならないこと。
吹き飛ばされたクロを見て油断した忍が、一瞬でも武器を手放すことを良しとすること。
急所を狙えば左腕でガードしてくるだろうこと。
予想外の反撃に苦戦しているように見えた。だが、今にして思えば全部クロの掌の上で、順調な詰将棋だったように思える。
現に今、忍はあの凶悪な得物を手放し、クロの爪にかかった。
鋼の爪が縦に一閃。
逃れるように飛び退る忍。その弱気な逃げを嘲笑うように、クロは忍の顎を蹴り上げた。人体の急所である顎だが、人間と同じ場所に脳があるからには、妖怪である忍にとっても急所であるはずだ。それを全力で跳ね上げられた忍は、その重い体を地面に倒れさせた。
「すご……」
思わず零れたのは、素直な称賛の言葉だった。弱気なことを言っていたから不安だったが、予想以上にクロの優勢だ。その状況に桜子は浮かれかける。
これならいけるかも――そう思った直後、クロが僅かによろけ、桜子はどきりとした。
クロの左肩。服が破れ血が流れている。先刻の攻撃で掠った場所だ。否、本当に掠り傷だけで済んでいるのかは遠目には解らない。ただ、痛々しそうな傷を負った肩をそっと押さえた。
クロの攻撃は当たった。それは攻撃を当てるまでの詰めが確かだったからだ。四月、狗猫の長老たちを会合でだまくらかしたときの「読み」からも解るが、クロは知略に長けている。力量差のある相手を潰すための戦術を組み立てることが得意なのだろう。
――そんな彼にとって誤算があったとすれば、クロの攻撃も策略も、「小さな悪あがき」と一蹴し叩き潰してしまえるほどの、敵の強靭さとパワー。
「この程度か、化け猫」
「……!」
攻撃は通っていた。だが忍は即座に起き上がってきた。
起き上がりざまに忍の掌がクロの頭蓋を掴んで勢い任せに押し倒す。
そのままマウントを取ろうとした忍だが、クロの爪が眼球を狙っていくのに怯んで飛び退く。その間にクロは立ち上がり、一旦後ろに下がって距離を取った。
あれだけの攻撃を食らっておきながら、忍は息を乱すことすらしていない。対するクロは、たった一発掠っただけでつらそうだ。優勢なんてとんでもない、どう考えても劣勢だ。
どうにか援護できないものかと、桜子は武器になりそうなものを探す。そのへんに細切れの竹槍なら落ちているが、こんなものを投げつけたところで当たるはずがないし、当たっても傷一つつけられないことは解りきっている。どうしよう、と悩んでいると、忍の後方からわらわらと、般若集団の増援がやってきた。
「猫は俺が始末する。お前たちは桜鬼を確保しろ」
「御意!」
威勢のいい般若男が十人ばかり、クロをスルーして桜子を狙ってくる。さすがのクロも、忍と相対しながら片手間に雑魚を始末する余裕はないらしく、肩越しに振り返って、
「桜子、テキトーに逃げてろ!」
まったく参考にならない大雑把な指示をくれた。
クロを置き去りにするのは忍びないが、ここで桜子が捕まったらクロが戦っている意味がない。迷ったのは一瞬だけで、桜子は踵を返し走り出した。
しかし、テキトーに逃げろと言われても。
地の利はどう考えても敵にある。地図もコンパスもないのに見知らぬ場所を駆けずり回るなんて不毛だ。この鬼ごっこがいつ終わるのかも見当がつかない。
走りながら考える。
ただ走っているだけではじきに追いつかれる。そうならないために、知恵を絞れ。
せめて自分にも武器になるようなものがあれば、と視線を巡らせていると、通りがかった民家の玄関先に、スコップが立てかけてあるのが見えた。土がこびりついた重そうなスコップである。
「こ・れ・だ!」
困ったときの鈍器。桜子は走りながらスコップを拝借した。持ってみると意外と重い、これを持って走ったら余計に遅くなりそうな気もしたが、丸腰でいるよりは安心感がある。
四つ辻を左に折れ、建物の陰に潜む。そして、般若面の連中が顔を出すのを見計らって、スコップを振りかぶる。
そして、タイミングを合わせて大きく横に振りまわす。どんぴしゃりで飛び出してきた先頭の男の脇腹に見事直撃する。衝撃に飛ばされた男が後続の連中を巻き込んで縺れ合って転倒した。
「っしゃあ、ばっちこい!」
しかし、頑張った割には四人しか倒れなかった、しかもすぐに立ち上がってこれそうな程度のダメージだ。
「よし、迎撃中止」
迎え撃つのはあっさり諦め、桜子はスコップを抱えて再び走り出した。
今度は何度も道を曲がることで追っ手を撒く作戦に出た。右に曲がって左に曲がって、そうしているうちに直線上から般若面の男たちが消えたところで、連中をやりすごそうと、桜子は近くの蔵のような建物に滑り込んだ。そして、都合よく中に転がっていた棒で引き戸につっかえ棒をする。
扉に耳を付けて外の音を拾う。ばたばたと慌ただしい足音が通り過ぎていくのが聞こえた。
「とりあえず、うまくいったかしら……」
その安堵から、桜子はふうと一息ついた。あとは、連中が遠ざかったのを見計らって逆方向へ逃げよう。
そう考えていた桜子に、
「もし」
突如かけられた女性の声。
深く考えずに飛び込んだが、住居ではなくいかにも物置用らしき蔵だから、中に人がいるとは思っていなかったため、桜子は跳び上がるほど驚いた。
だが、凛とした女性の声は、桜子を追いかけてきた野蛮な般若連中とは違う種類の者の声だった。声の方を振り返って、桜子は目を見開いた。
鉄格子を挟んだ反対側に、美しい女性がいたのだ。




