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俺様にゃんこの躾け方  作者: 黒いの
2 猫とすれ違う夏
25/104

9 本性を見せる

 音のする方へ、桜子は近づいた。

 近づくにつれて音は鮮明になっていく。川の流れる音だと判断できるまでに近づくと、暗闇に慣れてきた目でもそれを見ることができた。

 決して大きな川ではない。暗いせいで、はっきりと解るわけではないが、音から察するに流れはさほど急ではない。おそらく、泳ぎの得意な子どもなら水遊びできる程度の川だろう。

「川……」

 そこで桜子ははっと思い出す。確か、クロに郷の説明をされたときのことだ。もう四か月も前のことになるが、鮮明に覚えていた。

『ここら一帯は野牙里の郷っていって、狗だの猫だの狸だのの獣妖怪連中が多く住んでいる。郷の北側を流れてる川沿いに上流の方に行けば鬼連中の郷、下流の方に行けば付喪神連中の郷があるが、そっちに用はないから、詳しいことはまあいいだろう』

 もしも目の前にある川が、野牙里の郷の北を流れていたあの川と同じものだとすれば、この川に沿って下流の方へ行けば、いつかは野牙里の郷に辿り着けるということだ。

 もっとも、二つが別の川なら意味はないのだが、何の指針もなく進むよりはいいはずだ。桜子は下流に向かって走り出した。

 野牙里まで辿り着ければ、知り合いの妖に会えるだろう。そうすれば、頼れそうな心当たりも何人かいる。人間の世界に帰してもらうか、それが無理でもせめて匿ってもらうくらいはできそうだ。そう思うと、希望が見えてきた。

 その時、遠くで大きな叫び声が聞こえた。闇夜の静寂を切り裂く怒号にびくりと肩を震わせ、桜子は後ろを振り返る。何を言っているのかは不鮮明でよく聞こえない。だが、声を上げているのは一人や二人ではない。何人もの鬼の声が飛び交っている。こんな夜中に突然の騒ぎ――おそらく、逃げ出したことがばれたのだ。

 その直感を裏付けるように、闇の中に小さくオレンジ色の光が浮かび上がった。一つ、また一つと増えていく光は、あっちこっちを慌ただしく動き回り、次第に大きくなっていくようだ。

 松明だ。

 炎はめらめらと燃え上がり、闇に潜む桜子をあぶり出そうとしている。

 急がなければならない――桜子は慌てて走り出す。

 直後、桜子は前方を塞いでいた壁にぶつかってよろめいた。

「――どこへ行くんだ、桜鬼」

「っ!」

 静かな怒りを秘めた低い声に、桜子は身を強張らせる。

 鬼たちがまだ遠くにいると思って油断していた。いつの間に追いつかれたのか――ここまで近づかれたのにまったく気づかなかった。おそらく今までは気配を消していたのであろう、目の前にいる鬼は、声をかけると同時に殺気にも近い気配を放ち始める。昼間、桜子と話していた時とはまるで別人のようだった。

「忍……!」

 じりじりと後退りながら、桜子は忌々しげに吐き捨てる。

「屋敷に戻ってもらおうか」

「……昼間とは随分態度が違うのね。猫をかぶっていたのかしら、鬼のくせに!」

 恐怖で竦みそうになる体を何とか奮い立たせるために、そして怯えを相手に悟らせないために、桜子はせいぜい強気に振る舞う。それがどの程度通用しているのか、忍の抑揚のない声からは判断がつきかねた。

「一応忠告しておくけれど、内緒話はもっと声を潜めた方がいいわ」

「こいつは迂闊だったな。昼間の会話を盗み聞きしていたのか、行儀の悪い姫さんだ」

「言っとくけど、盗み聞きする気なんかなかったわ。屋敷で迷子になりかけてたら偶然聞こえちゃったのよ。今となっては、迷子になりやすい屋敷の複雑さに感謝したいくらいね。そうじゃなかったら私、何も知らないまま喜んで地獄に突っ込む間抜けになってたもの」

「地獄か……確かに、俺があんたを送り込もうとしていたのは、ある意味では墓場だ」

「最初から私を生かして帰す気なんかなかったのね」

「そういうことだ。俺としても苦渋の決断だったがな」

「何が苦渋の決断よ」

 桜子は鼻で笑う。

「申し訳なさそうな顔してれば許される? 拠所ない理由があったらオールオッケー? そんなわけないじゃない。こんな酷い嘘ついといて、被害者ぶった顔してんじゃないわよ。私ってば、つくづく騙されやすい馬鹿なのね、自分で自分に呆れちゃうわ。何も知らない半妖小娘を欺くなんて簡単だったでしょう。思えば、前にこの世界に来た時も、私は馬鹿だからまんまと騙された。でも、あの時私を騙した猫は、悪びれるどころか悪ぶってた、私のための嘘だったのにさ! それに引き換えあなたはクソ野郎ね、自分のための嘘をついて、しおらしい顔しちゃうなんて!」

 ばたばたと乱れた足音が近づいてくる。松明に照らされてあたりが徐々に明るくなってくる。無表情の忍の顔が煌々と照らし出されていた。

 桜子は肩にかけた鞄をすとんと地面に落として、忍に相対する。屈するつもりはない、その姿勢に、忍は訝しげに眉を寄せる。

「長々と話をしているから、大人しく投降するつもりかと思えば……わざわざ鬼たちに包囲されてから戦うつもりか」

「どうせ包囲されてたってされてなくたって、あなたを倒さないと先に進めないのは解りきってた。だったら、お仲間の前であなたを公開処刑してやった方が、面倒な下っ端どもの戦意を削いでやれるでしょう」

「成程、合理的だ」

 忍はにやりと笑う。

 武器を持っている様子はない。半妖の小娘如き素手で充分ということか。

 ――まあ、その目算は大正解だけど。

 見つかった時点で、無事に逃げ切れる可能性などほとんど皆無。半妖の女子高生が鬼に敵うはずもない。だが、だからといって黙って連れ戻されてはたまらない。もしかしたら、天文学的超低確率で忍を倒せる可能性も、なきにしもあらず。

「半妖が鬼に挑む、その度胸には敬意を表そう。――お前たちは手を出すな」

 松明を持った鬼たちは、忍の命令で、桜子を包囲するだけで控えている。

 一対一というわけだ。とはいっても、人間換算では十対一くらいの感覚かもしれないが。

 不思議なことに、恐怖で震えていた心は、今では驚くほど冷静だ。

 ――最近修羅場くぐりすぎて心臓に毛が生えてきたかも。

 恐ろしいのも度が過ぎると、一周回って頭が冷えるのかもしれない。

 手を抜いてやる余裕はないし、そんな義理もない。薄ら笑いを浮かべている顔面に、渾身のストレート。こんな隙だらけで大振りの攻撃を、忍は避ける様子もなく突っ立っていた。

 桜子の拳が忍の頬を捉えた。妖怪に比べたら小さくて軽い拳かもしれない、だが全力で振るった拳である。だというのに、忍はよろけもしないし呻き声一つあげない。壁でも殴ったみたいに、こちらの手が痛くなっただけだ。

 不意打ちだったとはいえ、クロをぶん殴ってやったときは、殴られた奴らしく殊勝に鼻血を出していたのに、この鬼ときたら何事もなかったかのように平然としている。「今何かしましたか?」みたいな嫌味な顔で腹立たしい。

「随分と面の皮が厚いのね」

「お褒めにあずかり光栄だ」

「褒めてないわ!」

 悔し紛れに鳩尾に蹴りを入れてやるが、これまたびくともしない。皮膚の下に鉄板でも詰め込んでいるのかもしれないと本気で思ったほどだ。

 それまで大人しくしていた忍が、戻そうとする桜子の脚を掴んだ。

「殺しはしないが、灸は据えてやる」

 忍は力任せに桜子の体を振り回す。「最近私投げられてばっかりじゃない?」と愕然としながら、桜子は放り投げられた。投げ飛ばされた先が固い地面ではなく川の中だったのは、殺してはいけないから、という忍の配慮だったのかもしれない。激しく水飛沫をあげて水底に叩きつけられ、油断していた口と鼻から水を吸い込んだ身としては嫌がらせとしか思えなかったが。

 溺れるような深い川ではない。が、だからといって準備もなしに叩き落されてはたまらない。夏とはいえ夜に、しかも着衣で水泳なんてやってられない。

 すぐに立ち上がろうとするが、服が川に沈んだ障害物か何かに引っかかったようで上手く動けない。焦って息を乱しそうになったところで、上から手が伸びてきて桜子の腕を引っ掴み強引に立ち上がらせる。その拍子に、びりっと不穏な音がした。

 忍に手助けされたことは屈辱だが、桜子はどうにか底に足をつけて立ち上がることができた。軽くむせ返りながら濡れた前髪をかきあげ、忍を睨み上げる。

「まだ抵抗するなら、何度でも沈めるぞ」

 川べりに仁王立ちする忍が、桜子を見下ろしながら脅迫する。

 桜子は一瞬で計算する――武器はない、殴る蹴る以外の有効な攻撃は思いつかない、忍にはさっぱり歯が立たない。ここで無駄に抵抗して体力を削られるのは得策ではない。

 ここは大人しくしているべきだ。問題の鬼貴降は三日後――日が変わったから二日後だ。それまでに隙を見つけてこっそり逃げる、それしかない。

 ここで逃げ切れなかったのはつらいが、仕方がない。桜子は深く溜息をつく。それを諦めと判断したらしく、忍は部下に命じて桜子を川から引き上げさせた。水を吸って重くなった制服を絞ると、先刻聞こえた不穏な音の正体を理解した。

「あーもう……どうしてくれんのよ、スカート破けたじゃない!」

 やけっぱちになりながら叫ぶと忍は怪訝そうな顔をした。桜子は、できたばかりのスカートの無様なスリットを見せつけてやる。

「あなたが無理に引っ張るから、みっともないスリットが入ったわ」

「俺が引っ張らなかったら溺れてただろうが」

「そもそもあなたが川に落とさなければよかったのよ」

「それは……」

「弁償させるからね、覚悟しておきなさいよ」

「墓場に供えてやるよ」

 忍は鼻で笑った。これから死ぬ奴が、制服の心配なんかするなと言いたいのだろう。

 だが、桜子は死ぬつもりなどない。絶対にここから逃げ出して、この不届きな男に敗れた制服の弁償をさせてやると誓った。

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