表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺様にゃんこの躾け方  作者: 黒いの
2 猫とすれ違う夏
24/104

8 夜闇を駆ける

 精進潔斎、というからには、当然肉も魚も断たねばならない。未成年だから酒を飲めないのはどうでもいいことだが、お茶すら飲めず、飲んでいいのは白湯だけ、というのは寂しい話だ。

 育ちざかりの女子高生にこの質素な夕飯はないのではないか。桜子は少し前まで朝昼兼用にサンドイッチしか食べないという質素な一日二食生活をやっていたことを棚に上げて、心の中で不満を述べた。

 今のところ、やれと言われたことは祝詞の練習のみ。潔斎中はできるだけ人との接触を避けるべきだということで、部屋には桜子以外誰もいないし、食事の時や、事務的な連絡がある時に忍の家来らしい般若面の妖怪が入ってくる以外は誰も訪ねてこない。娯楽になるようなものは勿論何一つ置いていない。

 言われた通り大人しく祝詞を読んでいればいいのだが、それに三分で飽きた桜子は、はっきり言って退屈していた。

「あ、そうだ……鞄」

 思い出して、桜子は自分の鞄を引き寄せる。中には、今日の午前中の課外授業で使った筆記用具とテキスト類、携帯電話、そして母の日記帳が入っている。こっそり宿題でもやろうか、と思ったが、今日は特に課題は出されていない。

「お父さん、心配してるよね……」

 携帯電話を手に取り、一応確認と思って開いてみるが、やはり圏外。人間の世界との連絡手段は断たれている。

 四月に妖の世界に連れてこられたときも、父が心配しているだろうと、桜子は随分と気を揉んでいたのだが、実はクロが父には置手紙を残してあったため、結局大事にはならなかった。しかし、今回は本当に、何の連絡もナシに桜子は消えてしまったことになる。

 家に帰してほしい、という願いはすでにしたが、忍には聞こえなかったことにされてしまった。しかし、桜子は忍の頼みを引き受けることにした。それはもう、決めたことだ。ゆえに、桜子は別に逃げたりなどしない。その点を強調すれば、一旦人間の世界に戻って父に連絡をするくらいのことは、許してもらえるかもしれない。

 そう思った桜子は、忍に交渉するべく立ち上がった。

 部屋の襖を開けて外に出る。

「あれ?」

 出た先は、今までいた部屋とパッと見ただけでは違いが判らない和室だった。この手の屋敷は似たような座敷がいくつも繋がっていて、どこがどう違うのかよく解らない。加えて、部屋は単純に廊下でつながれているわけではなく、ある部屋に行くために別の部屋を突っ切らなければならない、ということが往々にしてある。

「忍、どこにいるのかな……」

 独りごちながら、桜子はあっちこっちの襖を開けて忍の姿を探す。広い屋敷の割に人気はほとんどない。無駄に部屋が余ってるな、と思いながら進む。

 いくつか襖を通り抜けていったところで、近くで話声がするのが聞こえた。忍だろうか、と思って、声がする方の襖に近づいていく。

「――気取られていないだろうな」

 低い緊張した声が聞こえて、桜子は襖に掛けようとした手を思わず引っ込めた。今のは忍の声だった。しかし、桜子と話をしていた時とは声の調子も口調もだいぶ違う。その上、今発した言葉が、どうもきな臭いような響きを持っていたことが、桜子に出ていくことを躊躇させた。

「問題ありません。疑う様子はなく、部屋で祝詞を唱えています」

 答えたのは、夕食を運んできた般若面の男だな、と桜子は気づいた。

「葵は」

「先ほどまで暴れていましたが、今は牢で大人しくしています」

 牢?

 またしてもきな臭い言葉に、桜子は息を殺して耳を澄ませた。

「しっかりと見張っておけ。ここで邪魔をされるわけにはいかない」

「承知しております」

「桜鬼にも決して気取られるな。とにかくあと三日だ。鬼貴降が始まってしまえば桜鬼に逃げ場はない」

「しかし、よいのですか。例の話が真実なら、桜鬼の命は……」

「仕方がない」

 それきり、二人の会話は聞こえなくなった。声が止んだのではない、桜子の頭が真っ白になって、何も聞こえなくなったのだ。

 手が震えるのを必死に抑えなければならなかった。うるさい心臓の音が相手に聞こえていないだろうかと桜子は恐怖した。

 一歩、二歩と後退り、桜子は今来た順に襖を開けて、与えられた元の部屋に戻った。そこまで戻ってきてようやく、乱れた息を吐き出した。

「何、今の話……」

 どんなに鈍くても、解る。

 あの家来の男は、このままいくと桜子の命はないと言おうとしていた。

 混乱する思考で、桜子は必死で考える。

 おかしい、これはどういうことだ、どうしてこうなった。

 鬼貴降は平和を願う神事ではなかったのか。それがどうして、逃げ場がないだの、命がないだのの話になるのだ。

 桜子は確信する――信じたくないことだが、騙されたのだ。本当の鬼貴降は、平和的な行事などでは決してない。命に関わるヤバい物だ。間違っても半妖の小娘が関わっていいものではない。

「……逃げないと」

 人間の世界へ帰ることはできない。だが、このままここにいたら間違いなく命が危ない。忍という鬼は、物腰は丁寧で、ちょっと調子のいい奴だが決して悪い奴ではないと、そう思っていた。だが違う。彼の本性は、「仕方がない」のたった一言で半妖の小娘の命を切り捨てられる残忍なもの。黒猫以上の、正真正銘のド鬼畜野郎だ。

 だが、逃げるといっても、追いかけっこで妖怪に勝てるわけがない。すなわち、桜子は見つからないようにひっそりこっそり逃げなければならない。桜子が騙されていたことに気づいたことも、勿論忍に知られてはならない。知られてしまえば、忍は桜子が逃げられないように手を打ってくる。

 馬鹿な小娘がまんまと騙されている、と向こうが思っているうちに、先手を打たねばならない。

 しくじれば、死ぬ。

 桜子はごくりと息を呑む。

 震えそうになる体を抱いて、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。

 大丈夫、命の危険を感じたことなら前にもあった。

 狼に殺されそうになったとき、あのときだってちゃんと、逃げずに狼に立ち向かえたのだ。

 ――いや、あの時は結局言いたいこと言ったはいいけど体が竦んで動けなくなったんだったっけ!

 都合の悪いことを思い出してしまって、桜子は忌々しげに舌打ちした。

 あの時は、クロが助けてくれた。だが、ここにクロはいない。

 自分で何とかしなければ――桜子はここから逃げ出す作戦を練り始める。



 作戦といっても、さほど頭のいい策略が考え付くわけでもないので。

 部屋に敷いた布団に包まって、桜子はじっと、屋敷の鬼たちが寝静まるのを待っていた。午前零時を過ぎたころ、ひたひたと足音が近づいてくるのが聞こえた。そして、そっと襖を開ける音。桜子は気づかずに寝ているふりをした。

 薄く開いた隙間から、鬼の目がじっと見つめてくるのを、桜子は気配で感じ取った。だが、気づいていることに、気づかれてはいけない。目を閉じて、それまでと変わらぬ呼吸をして、鬼が去るのをじっと待つ。

 やがて、襖が静かに閉じられ、足音が去って行った。足音が完全に聞こえなくなるのを待ってから、桜子は布団から這い出した。

 走るのには不便そうな装束を脱いで、自分の制服を着る。律儀にスカーフを巻いている暇はないので、結ばずポケットの中に突っ込んだ。逃げるのには身軽な方がいいとは思ったが、いざという時に武器になると思って鞄を肩にかける。

 襖の前に立ち、呼吸を整えながら暗闇に目を慣らす。電灯の存在しない屋敷は、真夜中になると本当に真っ暗だ。携帯電話をライト代わりにするのは簡単だが、ここでそんなものを使うのは危険すぎる。今日は月が明るければいいのだが、と思う。

「……よし、行こう」

 小さく言葉に出して決意を固め、桜子はそっと襖を開ける。

 顔を覗かせて、あたりに誰もいないことを確認すると外に出る。

 縁側から庭に降りて、体を屈めて走る。外から玄関に回ると、特に不寝番の者はいないようで安心した。玄関で靴を回収し、夜闇に紛れて門を抜ける。屋敷の外に出てしまえば、多少の足音は気づかれないだろうと思いローファーを履く。これで心置きなく走れる。

 空を見上げて、桜子は舌打ちしかける。月はほとんど新月に近い。おかげで外もほぼ真っ暗だ。真夜中に見知らぬ道を逃げなければならないなんて無謀にもほどがあるが、立ち止まってもいられないので、仕方がない。

 桜子は昼間の記憶を引っ張り出す。昼間屋敷に来た時、霊鬼山が見えた。山に向かって突っ込んで行っても仕方がないから、たぶん山とは反対の方に行けばよいのではなかろうか。

 ――こんな大雑把な逃亡計画でほんとに大丈夫か私。

 駄目な気がする。だが、出てきてしまったものは仕方がない。桜子は昼間に通った道を逆方向へ駆けた。

 あたりには民家が点在しているが、この時間ではどの家も寝静まっているらしい。誰かにすれ違うこともなく、何軒かの家を通り過ぎて行った。

 自分の呼吸の音と心臓の音、そして足音しか聞こえない。それくらい静かだった。

 時折思い出したように吹く風は生温い。夏の風は決して寒いはずがないのだが、髪の毛をさらわれるたびに桜子はぶるりと身震いした。誰かの見えない手が迫っているような、そんな錯覚がするのだ。

 こんな真っ暗闇を手探りで進んでいくなんて、高校一年の時の文化祭で、奈緒に誘われてお化け屋敷に突入した時以来である。あの時は、相手がお化けに扮したただの人間だからよかった。おどかし役の生徒にまんまと嵌められてびびった桜子は大絶叫のままにその生徒を思わず殴り飛ばして奈緒に「女子は女子らしく可愛く驚いとけよ」と呆れられたという逸話付きだが。

 結局のところ、作り出された恐怖のシチュエーションや、びっくり系のホラーは平気なのだ。一瞬だけは驚くけれど、その後はちゃんと体が動く。

 だが、ぞくぞくさせられる系はとんと駄目だ。命が関わるものも勿論駄目。体が動かなくなる。

 こうして歩いている間も、いつ誰かに見つかるのではいかと内心ではびくびくしている。だが、それを表に出したら余計に見つかってしまいそうだから、必死に押しとどめている。

 震えて立ち止まりそうになる脚を、ここで止まったらいけないと叱咤して前に進ませる。

 そうして、しばらく歩いていくと、自分の呼吸と鼓動と足音以外に、桜子の耳が別の音を拾った。一瞬追っ手かと思ったが、話し声や足音や、そういう類の音ではない。

 水の音だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ