2 敵も味方もへんなひと
午後二時を回ったあたりで、お開きということになった。なぜか流れるように、桜子は例の新聞を押しつけられた。奈緒曰く「ロマンを身に着けたまえ」ということだ。
会計は奈緒が済ませ、二人は店を出た。そこからは帰りの方向が違うので、駅ビルの中で別れた。
建物を出ると、桜子は西口のバスターミナルへ向かう。しかし、数歩進んだところで、ふと奈緒の与太話を思い出して立ち止まる。話に出てきた椙浦モールは、ここから目と鼻の先にある。
自信を持って断言できるが、異世界だのの噂話はまるっきり信じていない。だが、こういう噂話は基本的に怪談と一緒だ。「幽霊なんているはずがない、だけど、もしかするといるかも?」と思うから怪談は怖いのだ。「異世界なんてあるはずない、だけど、もしかするとあるかも?」と、ほんの少しでも思えて、実際に見に行ってみようかしら、などと行動力を発揮することができたら、奈緒の言うロマンとやらが解るかもしれない。
――ロマン……ないよりはあるほうが、人生楽しいよね。
どうせ午後からは暇なんだし、家に帰ったってソファに転がってドラマの再放送を見るくらいしか能がないのだから(勉強しろよ)、ちょっとばかし探検に出かけるのもいいだろう、と思う。
そうと決まれば方向転換。
夕暮れ時に通りかかれば少し心細くなりそうなモール前の通りは、しかし、日中明るいうちに通る分には怖くない。もっとも、仮に薄暗かったとしても、桜子は一応高校二年生、たかだか夜道でいちいちびくびくはしないだろうが。
モールの周辺は、やはり人気がない。奈緒は、タイミングが悪いだけだろうというようなことを言っていたが、ではいつならここが賑わっている場面に巡り会えるのだろうか。ふらりと歩いてみると、一階には土日定休のカフェがある。ここなどは特に、平日昼間に頑張らなければ稼ぐときが存在しないはずなのだが、ガラス戸越しにちらりとのぞいた感じでは閑古鳥が鳴いている。せっかくここまで来たのだから売り上げに貢献してあげた方がいいだろうかと思って店の前に出ていた黒板を見てみたが、高校生の財布ではちょっと手が出せないお値段が書かれていたため、何も見なかったことにして素通りした。
ゆったりとした足取りでモール沿いに歩いていく。途中にある路地を覗き込んでもみたが、空間が歪んで見えるとか、そういうことはなかった。周りに人もいない。和装美女もいない。じっくり歩いてみるのは初めてのことなので、最初のうちは「こんな店があったのかー」とわくわくしていたのだが、それも一往復で飽きた。
「解っていたけど、やっぱり何もなかったわね……」
当然だ、異世界に通じる道なんてあるはずがない。何もなくて当然、これが普通だ。「あるわけない、でも、あったらあったで面白いかなー」という心理状態でいたため、いざ本当に何もないと解ると、ほんの少し、小指の先っぽほど僅かに、がっかりである。
噂話がやはり根も葉もない与太話だと納得したところで、桜子は今度こそ帰ろうと歩き出す。
その時。
「すみません、そこの方」
後ろから声がかけられた。振り返ると、杖をついた老婆がそこにいた。上品なワンピース姿の女性は、心底困ったような顔をしていて、その視線の先にいるのは間違いなく桜子だった。
「道を教えていただけませんか」
見知らぬ人間に声を掛けられた桜子は少々警戒していたが、相手が老婆で、道に迷っているだけらしいと解ると緊張が解けた。
「ええ、どちらへいらっしゃるんですか」
親しげに微笑みかけながら、桜子は老婆に近寄る。
「ここなのですが」
老婆は左手に小さな紙を持っている。地図だと思って、桜子はそれを覗き込む。
瞬間、がしりと、老婆の外見からは想像できないくらい、驚くほど強い力で手首を掴まれた。ちょっとふらついてしまって近くにいた桜子に縋った、というだけでは説明できないほどの力だ。まるで、相手を逃がさないように捕まえているような、そんな強さ。
そうなってから、桜子は遅ればせながら気づく。今、モール前を一往復したが、誰ともすれ違わなかった。にもかかわらず、歩みの遅そうな高齢の女性は、桜子の後ろにいた。いったい、どこから現れたというのだろう?
「道を教えていただけませんか」
老婆は繰り返した。手首を掴んだまま、にっこりと桜子に笑いかけながら。
「ええと……ど、どちらまで?」
引きつり気味の笑みを浮かべそう返すと、老婆は白い歯を見せて答える。
「冥土まで」
にょきっ、と地面から病的なほど白い手が伸びてきたのは、その不気味な言葉と同時だった。獲物を求めて彷徨っていた手は、桜子の脚に触れるとがっちりと鷲掴みにした。
「ひっ!!」
断じて幻ではない。掴まれている感触がある。だが、普通人間の手は地面から生えてこない。では、自分の脚を捕えて離さないこの手は何だ。混乱する桜子は頭が真っ白になる。
「は、離せ! 離して!」
「ひひひ……活きがいいねぇ」
「人を魚みたいに言わないで!」
「そう……まさしく今のあなたは魚……まな板の鯉……」
「洒落にならん!」
「よく見ると胸もまな板だね」
「どさくさに紛れて失礼!」
相手はばばあだ、力づくで逃げちまえ、と思って抵抗するが、どうやらこの老婆のいかにも弱弱しそうな外見は詐欺らしく、掴まれた手はびくともしない。脚も同様だ。
まな板の鯉はこのまま捌かれるしかないのか。桜子は絶望の淵に立たされていた。
そんな時、桜子に救いの手が降りて来た。
正確には、落ちてきたのは脚だった。
行儀の悪い黒い脚が、老婆の顔面へ容赦ないキックをお見舞いしたのである。
「ぎょえっ」
奇声を上げて老婆は地面に転がる。その拍子に手は外れ、どういう原理か、地面から生えていた手も消えていた。
「そこまでだ、耄碌ばーさん」
高齢者に対する敬意の欠片もない声と共に、黒い脚が華麗に着地した。桜子の前に颯爽と降り立ったのは、黒い髪、黒い服の青年だった。
それだけなら、少々鬼畜なものの桜子を救ってくれた通りがかりの素敵な人、で終わりだったろう。だが、青年の外見には、一目でおかしいと解る特異な点があった。
すなわち、頭の上に耳が生えている。獣の耳だ。たぶん猫耳。
――コスプレ野郎?
自分を助けてくれた恩人に対して、失礼にも桜子が一番に思ったのは、それだった。
突然の闖入者が信頼できる相手なのかどうか測りかねていると、老婆が「いたた」とたいして深刻ではなさそうな声を上げながら立ち上がる。顔面ドロップキックをお見舞いされた割には元気そうだし、杖も使わず立ち上がったし腰もちっとも曲がっていない。やはりこの老婆、見た目通りのばばあではないらしい。
老婆は青年をキッと睨むと、不満を爆発させた。
「このっ、のらくら化け猫! あたしの食事を邪魔しようってのかい?」
「若い娘から精気を奪って皺だらけの肌に潤いを取り戻そうとしている馬鹿馬鹿しい行為を食事と呼ぶんなら、そういうことになるな」
「馬鹿馬鹿しいとはなんだい、男のお前には解らないんだよ、いつまでも若さを保っていたいという乙女の気持ちが! 精気をほんのちょっぴりいただくだけじゃないか、『あんちえいじんぐ』って奴だよ!」
「お前はすでに手遅れだ。鏡見てみろ、乙女だなんておこがましい」
「きぃ!!」
ハンカチがあったら噛み千切りそうな勢いで老婆は悔しがる。
「ああ、そうさ……解っているさ、あたしの肌が手遅れなんてことくらいね。若い頃に調子に乗ってお肌のケアを怠っていたばっかりに、歳を取ったらあっという間にこのざまだ。しわくちゃ、しみだらけ」
「たかだか五千円の化粧水をケチった奴が悪い」
「言っておくがね、あたしだけが悪いんじゃないさ。『千年堂』の化粧品はぼったくりなんだよ。丙の奴、足元見やがって」
ぶつぶつぐちぐちと不平不満を漏らしていた老婆は、不意に桜子の方を見ると、しわくちゃの唇を歪め、
「あんたもね、今は若いからいいけどね、お肌の曲がり角はもうすぐだよ。三十過ぎたらせいぜい気を付けるんだね! あばよ!」
なぜかそんな忠告を残して颯爽と走り去っていった。
「……なんだったのマジで」
助かった、という安堵よりも、「マジなんなんだあのばばあ訳解んねえ」という脱力感が襲ってきて、桜子はしばらく呆然と立ち尽くしていた。