1 待ちぼうけの夏休み
姫路桜子は、椙浦モール一階にあるちょっとお高い喫茶店の常連になりつつあった。はっきりいってこの喫茶店、ほとんどのメニューが高校生の財布には厳しいお値段設定だ。だが、桜子は気づいた。
サンドイッチ一つで朝昼もたせればお安くあがるんじゃない?
それまでは放課後、モールの前をぶらぶら歩いて時間を潰すだけだったが、その不審者じみた行動に危機感を覚えていた桜子は、夏休みに入ると同時に喫茶店に入り浸るようになった。午前十時に開店凸して、広々としたテーブルに夏休みの宿題を広げ、焼き立てホットサンドが完全に冷え切るまで時間をかけてちびちび齧って午後四時まで踏ん張る。一日やってみて解ったことだが、この喫茶店はガチで客が入らない。
店主はパン一つで粘るはた迷惑な桜子を、しかし貴重な客として歓迎してくれた。「店に一人でもお客さんがいれば、他のお客さんも入りやすいしね!」と人の良さそうな三十代くらいの男性店主はにっこり笑った。
八月も二週目に突入したある月曜日。桜子はいつものように喫茶店「砂時計」に開店と同時に突撃した。紺色のエプロンをつけた店主は奇妙な女子高生相手でも嫌な顔一つ見せず、「いつものでいいかな?」と問う。「いつもの」という注文は、とても常連感があって格好いいぞ、と思いながら桜子は「お願いします」と答える。
毎日通い詰めていると、自分の定位置というものができてくる。桜子はモール前の通りを臨む窓際の席に腰かける。夏休みの宿題は早々に片付いてしまったので、特にやるべきことがない。桜子は鞄から、家から持って来た文庫本を取り出した。やるべき課題がない今、無難な暇つぶし方法といえば読書だ。ただし、本の内容に夢中になってしまうようではいけない。文字を目で追いながらも、周りに注意を向けておく必要がある。
「お待たせしました、ミックストーストです」
少しすると店主がテーブルにサンドイッチを運んできた。軽食メニューの中で一番財布に優しいという理由で桜子が毎日注文しているものだ。
「ありがとうございます」
桜子は礼を告げてトーストに手を付ける。左手に文庫本、右手にサンドイッチ、そして視線は本と窓の外とをいったりきたり。ゲームに興じる某伯爵よろしく行儀の悪いながら食いである。ながら食いは太りやすいというのでそれだけが心配な桜子である。
いつものように時間を潰し始めた桜子だが、ふと振り返ると、店主がまだテーブルの脇に立っている。首を傾げると、店主は苦笑する。
「いや、悪いね。前から不思議に思っていたんだけれど、君はどうしていつもここに来てるんだい?」
「ああ……まあ、そうですよね、変ですよね」
「まあ、僕は常連さんができて嬉しいんだけど。ここはあまり高校生が来るような店じゃないし……というかそもそも高校生に限らず誰も来ない店なんだけど」
後半ひっそりと呟かれた自虐発言は聞かなかったことにする。
「最初はさ、夏休みだし、宿題をやるのに丁度いいから来てくれてるんだと思ってたんだ」
勿論、そうではない。確かに、テーブルは広いしゆったりできるし、勉強するのに悪くはないスペースだが、宿題をやる場所を確保するために毎日金を払うのは、高校生には厳しい出費だ。そんなことをするくらいなら、冷房がガンガン効いてて快適な図書館にでも行けばいい。実際、椙浦市の高校生は市立図書館をよく利用しているらしい。桜子が喫茶店で宿題を広げていたのは単なるついでであり、時間潰しの材料でしかなかった。
「でも、もう宿題は全部終わっちゃったみたいなのにまだ来てくれる。だから、ちょっと、気になってね」
隠すことでもないので、桜子は説明する。
「実は、人を探してるんです」
「人を?」
「はい。ずっと会いたくて探してるんです。どこにいるか解らないから……初めて会った場所がこの近くなので、ここで待っていたら、もしかしたらまた会えるかと思って」
「そういうことだったのか。どうりで、毎日のように来るわけだ」
店主は得心いったようで大きく頷いた。
「ついでに聞くけれど、学校がないのに毎日制服を着ているのも、そういう関係?」
店主の言うとおり、桜子の格好は椙浦二高指定のセーラー服だ。口うるさい生徒指導の教師と遭うわけでもないのに、律儀にスカーフの結び目の左右の大きさを揃えるところまでやってある。
「私服は見せたことがないから、制服の方が相手も気づいてくれやすいかと思って」
「成程ね」
「けど、あんまり意味はないですね……夏休みは毎日ここにいるし、一学期は放課後になるたびこのあたりに来てたんですけど……一度も姿を見ません」
「遠くに住んでいる人なのかな?」
店主の疑問に対しては、答えを濁しておく。
店主には一つの点を除いてはすべて正直に話した。
ただ一つの嘘、他人には話せないこと。
桜子が探している相手は人ではなく、妖怪だ。桜の季節に突然現れて、桜子を拉致って、用が済んだら一方的に別れさせられた、酷い猫の青年。
桜子が持ち歩いている鞄には、あれ以来、一冊の日記帳が常に入っている。いつ彼に会っても、渡せるようにと、肌身離さず持っている。
これは彼が持つべきものだ。何としても渡してあげたい。そう思って、ずっと探している。
だが、四月の嵐のような三日間の後、野良猫のクロは一度も桜子の前に姿を見せていない。
夕方、四時を回ったところで、桜子はいつものように店を出る。本当はもう少し粘っていたいところではあるが、そろそろ家に帰って夕飯の準備をしなければならない。
帰途に就く前に、未練がましく近くの路地裏を覗き込んでみる。だが、誰もいないし何もない。別の世界に通じる道は開いていなかった。今日も一日、徒労に終わった。一日喫茶店で座っていただけだから、徒労、と言えるほど何かをしたわけでもないのだが、精神的には結構疲れた。こうして何の収穫も得られず一日を終えると、こんなことをして何になるのだろうという気になる。
もう四か月も経つのだ。その間、顔を見せることはおろか連絡一つすら寄越さなかった。こんなに長い間音信不通では、これから先だって、収穫があるとは思えない。これはもう、向こうが桜子と完全に縁を切ろうとしているとしか思えない。
ならばこうして、来る希望のない相手を待ち続けるなんて不毛なことではないのか。
「今ならハチ公の気持ちが解るかもしれないわ……」
疲れきった声で桜子は呟く。
「クロ……」
名前を口にしたら、途端に、今まで抑えてきた感情が溢れだした。
「……っ、だいたい! なんで私がこんなことをせにゃならんのだ!!」
怒り大爆発である。
「せーっかく人が親切にも届け物をしてやろうとしてんのに、連絡ナシってどういうこと!? 散々人のこと利用しといて、使い終わったらポイ捨てなわけ? そりゃあたいしたことはできなかったけどさ、こっちはいきなり訳も分からないまま拉致されたのに、本来ならぶち切れてはっ倒してもよさそうなところを慈悲深く協力してやった人格者よ? 世話になっといて暑中見舞いもナシとはどういう了見だッ!! あんたのためにこの夏休みどれだけ私が散財したと思ってんだ! ちっくしょう、あんたなんかもう知るか、ばかばかばーか!!!」
ばーか、ばーか、と叫び声が建物に反響して、やがて吸い込まれていった。罵倒の言葉を吐いたところで、届かないのならば相手は痛くもかゆくもない。桜子の喉が痛くなって、そのへんにいるかもしれない通りすがりの人に「なんだこの行儀の悪い娘は」と貶されるだけである。
虚しくなってきた。
「帰ろ……」
げんなりしながら、桜子はとぼとぼと歩き出した。
不毛なことをしている、という自覚はあった。来る当てのない相手を待つということも不毛だし、そもそも、仮に、万が一待ち人が現れても、彼に対して桜子がしようとしていること自体が不毛なことである。
桜鬼はかつて黒猫と別れたことが心残りだった。一緒に来てほしいと願った猫は、来てくれなかった。しかし、桜鬼は、自分を選んでくれなかった猫に恨み言一つ言わず、ただ友の幸せを喜んでいた。
だが、その幸せは勘違いだ。猫が約束の場所に現れなかったのはただの事故で、けっして幸せになれたからではない。単なる思い違いで喜びを綴った日記を、猫が喜ぶのだろうか。
もしも、鬼が猫を大切に思っていた気持ちを、猫が素直に嬉しく思ったとしても、それが何になるのか。鬼はもう死んでいる。今更鬼の想いを知ったところで、猫は約束の場所に行けなかったことをいっそう後悔するだけではないのか。
母の日記を読んだときは、なんとしてでもこれを伝えなければと思っていた。しかし、四か月、黒猫を待ち続ける間に、冷静に考えてみると、桜子は自分の行動の虚しさを感じるようになった。後ろを振り返らせるためだけの行為は本当に必要なのか。
来てほしい、伝えたい――しかし同時に、来てほしくないという思いが、心の中でむくりと目を覚ましていた。矛盾する気持ちを抱えながら待ち続けて、今日もまた、誰にも会えず日が暮れた。




