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俺様にゃんこの躾け方  作者: 黒いの
1 猫に出会う春
15/104

15 すれ違いの鬼と猫

 ぴちぴちと鳥のさえずりが聞こえる。うっすら瞼を上げると、柔らかい日差し。あー平和だなー、と思える長閑な朝だ。いきなり妖の世界に連行されたときには、こんな穏やかな朝を迎えることができるようになるとは夢にも思わなかった。

 桜子の気分は晴れやかだった。いろいろとありはしたが、妖の世界に慣れてきたというのもあるし、ここへ連れてこられた目的である問題が解決したというのも大きい。

 部屋の隅に目を向けると、桜子の制服が綺麗に畳まれている。自分でやった覚えはないからクロが用意しておいてくれたのだろう。地味に気が利く奴だ。

 寝間着を畳んで制服に着替えていると、外から男の話し声が微かに聞こえた。腕時計で時刻を確認すると朝の七時。ずいぶん朝早くの来客だ。

 障子を開けて縁側を歩いていくと、徐々に声が鮮明になってくる。

「――悪かった」

 曲がり角に差し掛かった時、そんな言葉が聞こえてきて、桜子は思わず足を止めた。紅月の声だ。どうやら紅月がクロを訪ねてきていたらしい。角からちらりと窺ってみると、屋敷の庭に紅月が立っていて、クロは縁側で胡坐をかいて紅月を少し見上げる格好だ。

 なんとなく出ていきづらくて、桜子は顔を引っ込める。

「どれの話だよ。心当たりがありすぎてわかんねえな」

 クロは飄々とした調子で茶化す。だが、紅月はいたって真面目そうに続ける。

「十七年前の」

「……なんでそんな昔の話」

「昨日嬢ちゃんに会って、お前ととっとと仲直りするようにって言ったんだ。だが、俺はそんな偉そうなことを言える立場じゃねえと思い返して、まあ、けじめをつける気になった。今更謝ったところで取り返しがつかないのは解っているが……」

 けじめ。取り返しがつかない。

 思いのほか深刻そうな話題に、桜子は完全に出ていくタイミングを逸して、結果として立ち聞きするような具合になってしまった。聞いてはいけない話な気がする、だが、気になる。

「最初からちゃんと謝っておけばいいのに、俺はお前と顔を合わせるたびに憎まれ口ばかりしか言えなくて……悪かったな、クロ」

「……」

「言いたかったのはそれだけだ。じゃあな」

 去っていく足音。

「……俺は」

 去って行く紅月に、ぽつりとクロが漏らす。立ち止まる足音。

 桜子からは見えない。だが、なんとなく解る。

 紅月が驚いたように振り返ると、クロはきっと恥ずかしいのを誤魔化すように目を逸らしたまま、できるだけ表情を抑えて、けれどほんの少しだけ口元が緩んでいるのを隠せないまま、言うのだ。

「お前と喧嘩するのは嫌いじゃないよ。……だいたい、十七年も前のこと、いつまでも怒ってるわけないだろ。そんなにねちっこくないし」

 すると、紅月がふっと笑う気配。

「……そうか」

 短くそれだけ言うと、紅月は今度こそ去って行った。

 二人の間に何があったのか、詳しい事情はよく解らない。だが、二人の間にあったわだかまりが、どうやら解けたようであることは、解った。桜子は、その切欠になれたのだろうか。

 ――そうなら、いいのだけれど。

 紅月が帰った後もなんとなく出ていきづらくて立ち往生していると、

「立ち聞きとは行儀が悪いな」

「うっ」

 明らかに自分にかけられた声に桜子がそっと顔を出すと、クロがにやにやと笑いながら桜子の方を見ていた。とっくにばれていたらしい。

「きっ、聞かれてまずい話だったのかしら!? ……ごめんなさい」

「開き直るか謝るかどっちかにしろよ」

 クロは小さく吹き出す。怒ってはいない様子なので、ほっと胸を撫で下ろす。

 桜子は大人しく出ていって、クロの隣に腰を下ろす。

「お前の母親の話をしてやろうか」

「え?」

 唐突な話に驚いた。クロは桜子の返事も待たずに勝手に話し始める。

「緋桜は妖たちから感謝されてたし、尊敬されてたし、親しい奴はたくさんいたんだ。けれど、仲間と呼べる奴がいたかは怪しい」

「そうなの?」

「気まぐれで全国津々浦々旅してる奴だからな、それについて行こうっていう酔狂な奴はなかなかいない。それに、あいつは桁外れに強くて美しい女だったから、その隣に並ぼうって気になる奴はいないものだ」

「成程ね……」

 自分よりはるかに優れた者がいたとしたら、自分はその者の隣に立つのにふさわしいとは、思えないだろう。

 桜鬼は大勢の妖から敬われ、崇められていた。しかし。

「緋桜は孤高の妖だった。敵も多かっただろうな。緋桜が作っていった秩序をよく思わない奴もいる。あの狼兄弟がその典型だ。強い力を持ってる奴ほど、緋桜を邪魔に思っていた。緋桜はこの世界に優しかった……けれど、この世界は緋桜に必ずしも優しくはなかった。少なくとも、戦いと縁を切って平穏に生きるには、厳しすぎる場所だった。今ならなんとなく解るよ、緋桜が消えてしまった理由が」

 クロはそっと目を閉じる。昔を思い出すように。その横顔は寂しそうだった。


★★★


 大事な話があります、と緋桜は言った。

 緋桜はいつも優しく微笑んでいる女性だった。そんな彼女が、いつになく真面目な顔で、クロにそう告げた。

「少し遠出をしようと思うのです。この郷には……もう帰ってこないかもしれません」

「あんたはいつもあっちこっち旅して回ってて、ここにいることの方が少なかったじゃないか」

「確かにそうですね。ですが、それでもわたくしにとって、ここが戻るべき場所でした……今までは。ですが、いろいろと事情がありまして、ここへ帰れなくなりました」

 かもしれない、ではなく、帰れないのだと彼女は言いなおした。正しく言うなら、もう帰ってくるつもりがないということなのだろうと、クロは察した。

「あなたも一緒に来てくださいませんか」

「え?」

「わたくしは今まで多くの旅をしてきました。ですが、誰かに一緒に来てほしいと頼むのは、これが初めてです。なぜだか、あなたのことを置いていくのがとても気がかりなのです。ですから、一緒に来てほしいのです」

「……」

「勿論、急なことですから、今すぐ返事をしてほしいとは言いません。一週間後の正午……初めて会ったあの場所で、待っていますから」

 そう言い残して、緋桜は去って行った。


★★★


 思えばあの時、緋桜は妖の世を去り、人の世で生きる決意を固めていたのだろう、とクロは語る。

「それが、十七年前の話」

「十七年前……」

「俺は約束のあの日、緋桜に会いに行くつもりだったんだ……が、途中で狗共と出くわしたのが運の尽きだったな」

 その時のことについて、クロはもう吹っ切れているらしく、狗たちを恨んでいるというより、ただただ自分の失態にへこんでいるという様子で、自虐的な調子で語った。

「つい数日前にぶちのめしたごろつき共がリベンジにきてさぁ。あの日は俺も浮かれてた……油断してたところに一服盛られて袋叩きにされて死にかけてた」

「さらりと恐ろしいこと言わないでよ。その中に紅月が?」

「まさか。あいつは騒ぎに気づいて来たんだが、黙って見てた。まあ、大方、止めた方がよさそうだけど狗の仲間をしょっ引くのも気が引けるし相手が野良猫だからまあいっか、って感じだったんだろうけど。別にあいつが何かしたわけじゃないのに、まだ気にしてるとは知らなかったな」

「それで……あなたは、待ち合わせの場所に行けなかったのね」

「そういうこと。間抜けな話だろう? 随分遅れて辿り着いたときには、当然緋桜はいなかった。俺は置いてかれちまったってわけ。俺の方は、まあ、日ごろの行いが悪かったから自業自得って奴だけど。緋桜には悪いことをしちまったよ」

 誰かに一緒に来てほしいと願うのは初めてだったという――その初めての相手が、しかし自分を選んでくれなかったと思った緋桜は、どう思っただろうか?

「緋桜は悲しんだだろうか、恨んだだろうか……緋桜はずっと俺によくしてくれていたのに、俺は何も返せないまま、最後の最後で裏切ることになって……それが気がかりでさ」

 孤高の妖怪は、約束の相手がついに現れず、孤独のままにこの世界を去って行った。

 それが、十七年前のこと。

 ――私が母のお腹の中にいた時のこと。

「クロは……お母さんのこと、好きだったの?」

「そういうんじゃねえよ。俺とあいつがいくつ歳離れてると思ってる」

「いくつなの」

「人間で言うと……三十くらい」

「親子ほども離れてたわけね」

「俺にとって緋桜は恋愛対象じゃねえよ。あいつは……俺の初めてのご主人様みたいなもんだ」

「主人?」

「猫の飼い主だよ。俺が生きてきた中で、緋桜と一緒にいた時だけが、俺が飼い猫だった時間だ」

 ゆえに、緋桜がいなくなった今、彼はただの野良猫。

 胸の奥が、ほんの少しずきずきした。

 母が妖の世界を去った理由が、桜子にも解ったからだ。

 ほんの少しだけ、罪悪感で俯く。

 その瞬間、びしりとクロにデコピンされた。

「いたっ!?」

 突然、割と思い切り、しかも尖った爪付きでデコピンされるのは結構痛い。桜子は額を擦ってクロを睨みつける。クロはにやにや笑ってる。さっきの寂しそうな顔など、とっくにどこかへ吹っ飛んでいる。

「足りない頭で難しいこと考えなくていいんだよ」

「足りない頭とは失礼ね!」

「ほら、そろそろ行くぞ。支度はいいか?」

「行く? いったいどこに」

 思わず喧嘩腰で尋ねると、クロは呆れたように肩を竦めた。

「どこって。帰るに決まってんだろ、お前の世界に」


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