14 桜に乾杯
汚れた格好のまま会合に出席するわけにもいかないだろう、という指摘と共に、桜子はクロによって着物屋に放り込まれた。着物を買うような金はないと告げると、「千草にツケとく」という容赦のない言葉が返ってきた。
店の奥の座敷で、汚れた制服を脱いで、珊瑚色の小紋に袖を通す。
「覗かないでね。絶対ね」
衝立越しに念を押すと、
「貧相な体に興味はない」
配慮も何もない返事が返ってきた。
デリカシー皆無かよ、とぶつぶつ文句を言いながら着替えていると、クロが何か言いたそうにしている気配を感じた。言おうか言うまいか迷っているような間が空いて、やがてクロは徐に切り出した。
「誰から聞いた?」
目的語のない一言だったが、言わんとすることは解った。
紅月に聞いた、と正直に告げれば、「おしゃべりなわんこだ」とクロは毒づいた。
「ま、別に隠してるわけじゃないからいいけどな」
「嘘つき。私には隠し通す気だったでしょ」
ほとんとあてずっぽうだったが、クロは押し黙った。図星だったらしい。桜子の勘も捨てたものじゃない。
「私が怖気づくと思った?」
「……杞憂だったな」
ぼそりと呟かれた言葉。いつも生意気な奴が素直な言葉を漏らすと、聞いているほうが照れくさくなる。気恥ずかしく顔が赤くなったのを、誤魔化すように――クロには見えるはずがないとは解りつつも――言葉を重ねる。
「そ、そうよ、超杞憂。というかね、私に悪く思われたくないんだったら、出生の秘密とか隠すよりも先に紳士的な言葉を選びなさいって話よ。初対面女子に『ボロ雑巾になるまで利用してやる』宣言してる時点で第一印象は底辺だからね!」
「こんな無駄に肝の据わった粗暴な女に気遣いは無用だったな」
「粗暴は余計だッ」
少しは素直になったかと思えばすぐに減らず口を叩く。近づいたかと思って手を伸ばすとひょいとかわしてしまう。つかみどころがないあたりは、まさしく猫だ。
この猫は、少し複雑だ。きっと、そう簡単に心を許しはしない。
だが。
『あんたさえよければ、あいつの傍についていてやってくれよ。あいつの味方は、たぶんあんたしかいない』
紅月の言葉を思い返す。ああして心配するようなことを言ってるくらいだから、少なくとも紅月はクロの味方なわけで、クロの味方が桜子しかいない、というのは少々言い過ぎだろう。だが、味方が少ないことはおそらく事実だ。
クロは本来なら、本当の桜鬼――緋桜を頼りたかったはずだ。それなのに、辿り着いた先で彼女はすでに亡くなっていて、いたのはその娘である半妖のちんちくりんだった。
母の代わりにはなれない。だが、数少ない味方の一人になることは、きっとできる。
人間として生きてきた桜子に、そんなことをする義理も義務も、本当はないのかもしれない。だが、どんな理由だとしても、出会い方が微妙で第一印象が最悪だったとしても、自分勝手な俺様野郎だとしても、自分を頼ってくれた手を振り払うことは、したくない。
「ねえ。あなたはどうして、今回の事件に首を突っ込んだの」
「は? 何だよ、今更」
「……ううん、やっぱりいいや」
着替えを終えて、衝立の向こうに顔を出す。
「どう? 似合ってる?」
くるりと回って着物を見せびらかしてやる。最初は、出所したらいつの間にか着物のツケを背負わされていることになる狼男に同情する気持ちも無きにしも非ずだったが、綺麗な着物を着終える頃にはそんな些末な問題は吹っ飛んで(酷い)、新鮮な装いに気分も高揚していた。
クロは僅かに目を見開き、感嘆するように溜息をついた。
「驚いた」
「そう? そんなにいい感じ?」
「俺は今、馬子にも衣装という言葉の偉大さを目の当たりにしている」
「嫌味!? フェイントかけてからの盛大な嫌味なの!?」
「はいはい、そろそろ行くぞ暴れ馬」
「誰が暴れ馬だ!」
調子に乗った黒猫の頭を引っ叩いたら、すぱーんと小気味良い音が響いた。
再び座ることになった、床の間を背負うお誕生日席。再びずらりと並び相対する猫たちと狗たち。しかし、前回は険悪な雰囲気を垂れ流しながらメンチ切りあっていたのに対し、今回はみんな示し合わせたようにばつの悪そうな顔をしている。
真犯人が明らかになり、互いが互いにかけていた疑いは言いがかりだったことになる。しかし、大人たちのプライドは、素直に謝罪することを難しくさせている。
謝るべきなのは解っている、だが威厳を失いたくない。そんな葛藤が、虎央の顔にも竜厳の顔にも解りやすく浮かんでいた。
会合を主催したはずの二人がなかなか話を切り出せずにいるので、まず桜子が口火を切ることにした。
「最初に、私から謝らせてください」
狗猫たちが怪訝そうな顔で桜子を見遣った。視線が一斉に集まる、だが桜子は、もはやそれに怖じることはなかった。
「昨日、庭の桜を咲かせたこと……あれは私の力でやったんじゃありません。騙してごめんなさい。私、半妖なんていっても、本当は何の力も持っていないんです」
頭を下げると、ざわりと戸惑いが広がった。
「じゃ、あの桜は……」
代表して紅月が尋ねると、桜子が言う前にクロが答えた。
「ああ、あれ、俺の仕業。あんたらが単純で短絡的で馬鹿なのに付け込んで騙してすみませんでした」
「お前謝る気ないだろ」
「俺が素直に謝ったら気持ち悪いだろうが」
「確かにきしょい」
「否定してくれよ」
きしょいって酷くない? クロは憮然とした面持ちでふいっとそっぽを向く。彼もまた、余計なプライドのせいで素直になれない一人だ、これくらいが限界なのだろう。
クロが素直になれない代わりには、桜子が真摯になる。
「私はみんなを騙した。けれど、争いをやめてほしいという気持ちは嘘じゃない。今回の事件の犯人は明らかにした。けれど、それだけじゃ駄目だって、きっと、みんなもう気づいていると思う。また同じようなことが起きた時、このままではきっと、何の証拠もなくお互いを疑って、また溝を深めてしまう……そんなことは、もう繰り返さないでほしい。そんなことを繰り返したくないって、そう思っているのは、私だけじゃないでしょう?」
すぐには無理かもしれない。少しずつでいい。
種族なんかに囚われないように、変わっていってほしい。
「彼女の言うとおりだと思う」
ざわめきの中に放り込まれた言葉が一つ。そう言ったのは、化け狗の少年、安曇だった。
「狗だから、猫だから、なんてことに拘るなんて馬鹿げてる。妖が種族のつながりを大事にしてるのは解るよ、血がつながってなくても家族みたいなものだ。でも、じゃあ、自分の家族以外は敵なのかな? よその家族と仲良くすることもできないなんておかしいよ。隣の家の人ともご近所付き合いするのが常識じゃないか」
「安曇……」
「だいたい、家のしがらみのせいで自由恋愛もできないなんて僕はまっぴらだね! そんな悲劇はシェイクスピアにでも任せてればいいのさ!」
「安曇君、よくぞおっしゃいました!」
猫の陣営から感動の声が上がり、猫耳少女がパッと立ち上がる。どうやら彼女が、安曇と恋仲の少女らしい。それを見た安曇が顔いっぱいに喜びを浮かべて立ち上がり少女へ駆け寄った。
「安曇君!」
「野菊さん!」
そして二人は人目があるのも気にせず熱い抱擁を交わす。
「ああ、安曇君、安曇君。あなたはどうして狗なのですか? 狗の名をお捨てになって。それが駄目なら、せめて私の恋人であると誓ってくださいまし。さすれば私はもはや猫ではありません!」
「もう狗だの猫だの関係ないよ僕たちの愛は永遠だ!」
「おいそこ勝手にバルコニーシーン始めるな!」
周りを完全に無視して突然始まった告白劇に、我に返った狗猫連中(非リア)からブーイングの嵐が巻き起こった。
集会場の真ん中で二人が愛を叫び始めたころ、隅っこの方では猫の少年・柊が、いつか喧嘩していた狗耳少年と話を始めていた。
「俺、意地張って食べられもしない饅頭買い占めるのやめるよ」
「柊、お前……」
「ごめんな。よかったらうちにおいでよ、昨日買った饅頭まだ余ってるんだけど」
「え、いいの? じゃあ俺、昨日拾った『すりーでぃーえす』持ってくから一緒に遊ぼう」
年頃の少年らしく後腐れなく仲直りできたようである。「すりーでぃーえす」については落とし主が泣いてるような気がするが、落とした方が悪いということで勘弁してもらうほかあるまい。
それらの出来事を皮切りに、あちらこちらで狗と猫が勝手に話を始める。
あっちでは狗の男が猫の女性に長年温めてきた愛を告白し、それをきっかけに「待て、清美さんのことは俺の方が先に好きだったんだからな」と横槍を入れる奴が続出して逆ハーレムが形成されつつある。
こっちでは「やっぱり自由恋愛って素敵だね、この際だから言っちゃうけど、俺、お前の他にも母親と狗の女児と旅先で会った女の子たちとも付き合ってるんだ」と化け猫男が光源氏的所業をぶっちゃけ、残念ながら光源氏ほどのイケメンではなかったために奥方との修羅場に発展していた。
徐々に収拾がつかなくなっていく会合に、クロが「俺もう帰っていい?」と投げやりに零した。お願いだからこんなところに一人置いて行かないでほしい。桜子はぎろりとクロを睨みつけてその場に留まらせる。
「ええい、静まれ!」
「皆の者、静粛に!」
虎央と竜厳が同時に叫んだ。さすが長老の言葉は重みが違う。騒がしかった場がぴたりと静まり返った。
二人の長老は苦々しげな顔だった。今まで一族は対立していた、自分たちが先導してそういう空気を作り上げてきた。だが、実際にはそんな対立を望まない者がこんなにいる――その事実を彼らは目の当たりにしたのだ。
一族の象徴同士が、静かに向かい合う。彼らが次に発する言葉を、周りの者はじっと待った。
「桜が……」
ぽつりと、呟いたのは猫の長、虎央だった。
「桜が、綺麗に咲いておる」
それに応じるのは狗の長。
「ああ……そうだな。美しい花を肴に、酒を酌み交わすのもいいだろうな」
「お前、屋敷の地下に後生大事にとってある葡萄酒、持って来いよ」
「ワインで花見か? ……まあ、いいか」
それから二人は息ぴったりに桜子を振り返り、穏やかな微笑む。
「どうやら儂らが愚かだったようだ」
「礼を言おう、桜鬼殿」
二人の言葉は、桜子の胸にじわりと染み入る。
これでよかったんだよね――そう問うように、隣のクロを見遣ると、彼は相変わらずの不敵な微笑みを浮かべている。
おつかれ――クロの唇がそう動くのを、桜子はしっかりと見た。
[参考文献]岩崎宗治編注『大修館シェイクスピア双書 ロミオとジュリエット』1988年、大修館書店




