13 不埒な輩はお引き取りを
思えば初めて出会った時も、クロはドロップキックで桜子の窮地を救ってくれた。いつも彼は、流星の如く現れて、白馬の王子様の如く助けてくれる。が、いつもその後酷い台詞で全部台無しにするのだ。
ピンチに颯爽と現れたクロに、桜子の心臓はどきりと跳ね上がる。しかし、今までの経験と照らし合わせると、頬に差した赤みもすぐに引いた。
落ち着け桜子、こんな奴にときめいては駄目だ、これは詐欺だ。
桜子は冷静に、目の前のクロを見た。
「姿が見えねえと思ったら、なにこんなところで生ゴミと戯れてるんだ。自衛もできないちんちくりんが一人でうろちょろするな」
相変わらず口が悪い。またちんちくりん呼ばわり。
何か言い返してやれ、と思って口を開けば。
「ごめん!」
ずっと言いたかった言葉が口をついて出た。
クロが驚いて瞬きする。珍しく戸惑っているようだった。しかし、そんな姿はすぐに滲んで、歪んで、見えなくなってしまう。
「酷いこと言ってごめんなさい。私が悪いのに、クロのせいにしてごめん……お茶ぶっかけたのも謝る……ごめん、ごめんね……」
「……」
「……来てくれて、ありがとう…………」
やっと言えた――そのせいで緊張が切れたのか、言葉と一緒に余計なものまでぼろぼろ流れ出してしまった。きっと酷い顔をしているに違いない。
クロの顔は、よく見えない。
だが、くすりと小さく笑っているのが、気配で解った。
「なんだよ、まだそんなこと気にしてたのかよ、律儀な奴。あんなの五秒で水に流すだろ、いちいち気にしてんじゃねえよ、ばーか」
そう告げる声は、しかし、決して馬鹿にしているようではなく、今まで聞いたことがないくらい優しい響きだった。
「いつまでも泣いてんな。ただでさえブスなのに、泣いてると三割増しブサイクになる」
「な、泣いてないし、ブスでもブサイクでもないわ……」
慌ててごしごし涙を拭う。デリカシーのない言葉のはずなのに、その中に柔らかな気遣いを感じてしまうのは、桜子の気のせいだろうか。
「おい、お前ら!」
濁声で怒鳴られてはっとする。すっかり忘れかけていた千歳がご立腹だった。
「兄貴を踏んづけながらいつまで乳繰り合っているつもりだ!」
その言葉にカチンと来て、涙も吹っ飛んだ。
「これのどのへんが乳繰り合い!? どのあたりがリア充なわけ!?」
「てめえいっぺん広辞苑持って来い、角で頭殴るぞ!」
泣いているときでも怒るべき時に怒れるのは桜子の数少ない才能の一つである。
「いい加減どけお前ら……!」
地を這うような声が響く。クロが踏みつけている千草が立ち上がろうとしていた。
クロはぴょんと飛び降りて、桜子の手を引いて下がらせる。ごごご、とでも効果音が聞こえてきそうな勢いで千草が起き上がる。さすがは狼、筋金入りの頑丈さだ。鼻血出てるけど。
「兄貴、大丈夫か!」
兄思いの弟が駆け寄り身を案じると、千草はぺっと血混じりの唾を吐き捨てクロを睨む。
「この程度、蚊に刺されたようなものだ」
「お前は蚊に刺されると鼻血が出るのか」
クロの指摘に千草はごしごしと鼻血を拭い、
「この程度、蚊に刺されたようなものだ」
やり直した。
「ここには結界を張っておいたはずだ。なぜここまで来れた」
「来る時に見た、千年堂印の結界符のことか? あれは全然効果がないって先月リコールされたやつじゃねえか」
「何と!」
妖怪の世界にもリコールとかあんのか。ついツッコミを入れたくなったのを、桜子はなんとか我慢した。
「ま、まあいい。猫が一匹増えたところで状況は変わらない。猫畜生が狼に勝てると思うなよ。先刻は少々不意打ちを食らったが、もう同じ手は食わない。猫も狗も鬼もまとめて挽肉にしてくれる、墓には合挽ハンバーグを供えてやるぞ」
「喜べ桜子、今日の晩飯は狼肉でステーキを作ってやる」
「どっちも要らん」
狼二匹とクロは不敵に笑い睨みあう。どちらも自分が敗けるとは思っていない自信に満ちた顔だ。しかし、桜子はふと不安に思う。いくらなんでも、猫が狼二匹に挑むなんて無謀なのではないか。
「クロ、大丈夫なの? 相手狼だよ? ヤバくない?」
「急に弱気だな。いつもの威勢の良さはどうした」
「だって、狼だもの。腕っぷしだけは本物よ」
桜子の心配をよそに、クロは不安など微塵も感じていないような強気な表情で、狼に対峙する。今まで生意気にしか見えなかった黒い背中が、今は頼もしく見える。
「まぁ、心配しないで高みの見物してろよ。これ以上、お前に手出しはさせねえからよ」
不意に、クロの足元で影が蠢いた。闇色の光が幾本も立ち上り、陽炎のようにゆらゆら揺れながら収束する。まるで猫の尻尾みたい、と桜子は思った。
クロが手を伸ばすと、光はふわりと霧消する。代わりに彼の手の中に残ったのは、一振りの刀だった。
それを見た千歳が顔色を変えた。
「兄貴、この猫ヤバいぜ! あの刀!」
「ああ……妖力の強い者だけが持つことができる『妖刀』……それにあの金色の瞳! 思い出したぜ、お前は……『虐殺ぶらっく』、『デビル猫耳』の異名を持つ化け猫のクロか!」
「おいそのダサい名前で呼ぶな馬鹿! そいつは紅月の野郎が嫌がらせで広めた奴じゃねえか!」
本気で恥ずかしいらしく、クロは頬を赤くして抗議した。確かにダサい。
妖刀とやらを使える妖怪はそれだけで強いという認識のようで、狼兄弟は厳しい顔つきになった。しかし、それもほんの数秒のことで、切り替えが早いらしい千草は上から下までじっくりクロを値踏みすると、途端に侮る表情を見せる。
「妖刀など大仰に出してみせるから少々驚いたが……まさか噂の化け猫がこんな優男だったとはな。容易く捻り潰せそうな猫ではないか。お前をぶちのめせば、俺の格も上がるというもの。まずはお前から潰してやる!」
逸った千草が飛び出した。刃に劣らず研がれた爪で、クロに飛びかかる。狙うは喉笛。
その素早い動きを、クロは見切っていた。
「叩っ斬れ――『猫戯らし』」
太刀を無造作に振るう。キン、と金属がぶつかり合う甲高い音。
「あ、兄貴!」
事態を見守っていた千歳が悲痛な叫びを上げた。それと同時に、地面にぽろぽろと尖った物が落ちた。それを見た千草がさぁっと顔色を変える。
「お、お、俺の爪が! 五年間切らずに伸ばし続けていた爪が!!」
「校則違反だ、爪はマメに切るよーに」
そう茶化して、クロは呆然と立ち尽くす千草の鳩尾を蹴り飛ばす。クロよりもひとまわり大きな巨体が、しかし軽々と吹っ飛ばされる様を見ると、あの巨体の中に詰まっているのは綿か何かなのかと錯覚してしまう。だが、実際に詰まっているのは血肉であり、恐るべきはそれをあっけなくはねのけることのできるクロの膂力だろう。
「さァ、弟の方の不潔な爪も綺麗に切り揃えてやろう。ついでに無駄に長くてダサい校則違反気味の髪もまとめて切ってやるから、大人しくそこにスッカスカの雁首を揃えてろ。ああ、うっかり動かれると手が滑って首を落としちまうかもしれねえから、せいぜい気を付けてくれ」
その顔は、間違っても校則違反の生徒を叱る教師ではなく、下級生を苛めたおす不良学生そのもので、どっちが敵か忘れるくらい邪悪な笑みを浮かべていた。
とりあえず狼の冥福を祈ろう――桜子は思わず敵の心配をしてしまった。
そして狼たちは、その象徴とも言うべき鋭い爪と、たてがみのようにふさふさぼさぼさしていた長い髪を綺麗に切り取られ、優等生並みの爪の短さと野球部の如き丸坊主を手に入れた。そして、ついでとばかりにクロに容赦なく斬り捨てられ(とはいっても峰打ちだったらしい)、名誉の負傷というか単に不名誉な傷を負った。
語るべきことはいろいろあるかもしれないが、結果だけ見ればクロの圧勝だし、ほとんど弱い者いじめをしているような有様だったので、あまり吹聴するのも可哀相になってきた。今見たものは自分の心の中だけにとどめておいてやろう、と桜子は決意した。
「ぐっ……猫風情に後れを取るとは……」
地面に膝をついた千草が悔しそうに声を絞り出す。ほんの数分の間に千草はぼろ雑巾のようにされていて、ビフォーとアフターで見比べたら同一人物だと解らないかもしれない。
「猫なめんな。お前とは踏んだ場数が違うんだよ」
いったいどんな修羅場を潜り抜けてきたらこんなふうになるのか、クロは涼しい顔でのたまった。弱い妖と見下していた猫に敗けたことは相当屈辱らしく、千草は血が滲みそうなほどに唇を噛んでいた。
しかし、不意に嘲りの色を浮かべて、千草はふっと笑った。
「そうか……猫とはいっても、群れを追い出された化け猫らしいな、お前は。その金色の瞳が何よりの証……どこまで行ってもつきまとう血の呪い……『虐殺の系譜』」
「……」
ぴくりとクロの指が僅かに動いたのを桜子は見逃さなかった。
「お前は否定しているかもしれないが、今の戦いぶりを見れば誰もが得心する。お前は確かに、裏切り者の血を引いて、」
「うるせえっ!」
頭を踏んづけて千草の言葉を遮り罵ったのは、桜子である。
「負け惜しみ? ねえ負け惜しみなの? 自信満々勝ち誇ったみたいな顔してたら思いのほかあっさりやられちゃったのが恥ずかしいんでしょほら恥ずかしいですって言ってごらんなさいよ。そんなぼろ雑巾みたいななりでねちねち負け惜しみ言ったって見苦しいだけなのよ潔く土下座しなさいばかばかばーか!」
すでに強制的に土下座させながら桜子はまくしたてた。
「桜子」
名前を呼ばれ振り返ると、すっかり毒気を抜かれた様子のクロが肩を竦める。
「……そのアングルだとパンツ見えるぞ」
「きゃあ!」
見るな馬鹿、の意を込めて千草にとどめの一踏み。
セクハラ野郎は何をされても文句を言えないのが女子の世界の理である。少々理不尽だが。
その後の後始末。
桜子が千草を口汚く罵っている間に、安曇が郷の自警団を呼びに走っていた。駆けつけた自警団は狼兄弟を連行。狗猫双方の長老襲撃事件の黒幕が彼らであることはあっという間に郷中に広まった。あらぬ疑いをかけあった狗猫たちは気まずい様子であったが、それを尻目に安曇は嬉々として猫の少女との逢引に向かったとか。
そしてその日の夕方、虎央と竜厳により会合が設けられることになった。桜子は勿論強制参加という旨を通知された。




