32 これがお手本
「ありえないありえないありえないッ! いくら緊急事態だったとはいえ前後不覚の相手を押し倒して強引に唇奪ったのにその生まれて初めてのキスは下手くそだって罵られその上実はマウス・トゥ・マウスである必要はなかっただなんてこんなのってありえない!!!」
わんわん喚きながら全力疾走していく少女を、道行く妖たちはあからさまに不審げな目で見ていたが、奇異の視線を向けられていることすら、桜子は気づかない。思考回路は既にショート済みである。
息が切れるまで、逃げるように走り続け、郷の外れの長尾橋まで辿り着く。周りには誰もいない。誰も聞いちゃいないと思って、桜子は叫び続ける。水面に映る自分の顔はまるで茹蛸だ。
「やばいやばいやばいやばい、こんなんでどんな顔してりゃいいわけ!? 破廉恥! 不埒! ふしだら! はしたない! 恥ずかしいいいいいい!! 穴があったら首吊りたいッ!!」
微妙に慣用句を間違えてしまうほどに桜子はテンパっていた。
いつまでたっても鼓動がはねあがったまま煩いのは、決して全力疾走のせいだけではない。冬の寒さなど忘れてしまうほど、体が熱くなっていた。
契約にはキスが必要、と言われて、当然のように唇同士を触れ合わせることを考えた。というか、それしか思いつかなかった。額や頬に触れるキスのことなど思いもよらなかった。そして実際、躊躇いなく唇を触れ合わせた。
冷静になって思い返してみれば、その思考回路はいろいろおかしい。なにかがおかしい。偏っている。いきなり「キスしろ」と言われて当たり前のようにファーストキスを捧げるなんて、絶対おかしい。
自覚するのは遅かった。だが、自覚する前から桜子は、それほどまでにクロに想いを寄せていたということだ。それを今更ながらに思い知って、桜子は愕然とする。
――いくらなんでも、ニブすぎるだろ、私!
橋の上で膝を抱えて蹲り、なんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
ごたごたが過ぎ去ってしまえば、もう誤魔化しはきかない。
緊急事態だったから、とか。助けるためだったか、とか。
そういう言い訳は通用しなくなってしまった。
だが、どうしろというのだろう? 中途半端に気持ちを知られていて、でも決定的な言葉は口にしていなくて。こんな調子で、改めて、面と向かって言えと? いったいどんな顔をすればいいのだ。
「無理無理無理無理、なんでこんなハードル上がってんの? 棒高跳びじゃないのよ、高すぎるだろッ! 絶対恥ずかしい奴だと思われてる、もういや、つらい」
言ってるうちに泣きたくなってきた。目尻に涙を滲ませて、桜子は深く溜息をついた。
「あー……もう、どうしよう」
「そろそろ気が済んだか?」
「ひぃいッ!?」
当たり前のように後ろから声を掛けられて、桜子は跳び上がる。振り返れば、いつからいたのか、クロが橋の欄干に凭れて腕を組んでいる。桜子は慌てて涙を拭って喚く。
「しれっと追いついてきてるんじゃないわよバカ! 人の全力逃走を何だと思ってるの!」
「一応こっちは妖なんだから、逃げられるわけないだろうが」
「どこから聞いてたの」
「ありえない、って叫んでたあたりから」
「案の定最初から! 最っ悪!」
ただでさえ恥ずかしくて仕方がないのに、その恥ずかしさを嘆く台詞までばっちり聞かれていたとなったらさらに恥ずかしくてそろそろ入る穴を自作するレベルだ。クロはすっかり呆れ顔をしていて、それを直視するのがつらくて、桜子は目を逸らす。
「な、なにも聞かなかったことにして。全部忘れて」
「無茶言うなって。別にいいだろうが、お前の言動が少々恥ずかしいのは今に始まったことじゃないし、若いうちは黒歴史の一つや二つ、あったほうが経験値上がるぞ」
「他人事だと思ってテキトーなことを!」
「俺が基本的にいつでもテキトーなんだよ」
「開き直らないでよ……」
いっそ自分も開き直れたらいいのに、と桜子は思う。
だが、そう簡単な話ではない。いくらクロが好きで、クロを助けるためだったとはいえ、それを伝える前に、意思も確かめずに、意識がないところを半ば襲うようにして、必要もないのに口づけした。その事実は、桜子の中ではけっこう恥ずかしいし、罪深い。
「あの……その、ごめん」
真っ赤な顔を俯かせて、スカートの裾をしわくちゃになるまで握りしめながら、やっとそれだけ言えた。それを聞いたクロは、聞こえよがしに盛大な溜息をついた。
「あのなぁ……そこで謝られたら俺の立場がねえって」
えっ、と不思議に思って聞き返す間もなく、クロの顔が目の前に迫る。
戦いの中で俊敏な黒猫は、その時も驚くほどの早業だった。
手を桜子の頭の後ろに回して顔を引き寄せ、優しく口づけた。
「……!」
どこぞの下手くそな女子高生と違って唇を噛み千切ることなど当然なく、優しく穏やかで、そっと触れるようなキスをした。
痺れるような甘さと、誓いを捧げるような神聖さ。
たぶん、これが正しいキスのやり方に違いない、と無意識に目を閉じながら、桜子は思った。
体が心地よく火照っている。さっきまでの壊れ気味な興奮状態とは違って、その昂ぶりはとても快い。
優しい口づけで桜子を宥めると、クロは深追いはせずにそっと離してくれた。上気した頬のまま桜子はクロを上目遣いに見る。少しは照れくさそうにでもしていれば可愛いものを、クロは悪戯っぽく笑って言った。
「これが手本だ。覚えとけ」
「……」
そう平然としていられると、桜子の方ばかり恥ずかしくなる。不公平だ、ずるい、と思う。
するとクロは少々調子に乗って――あとから思えば彼も密かに高揚して、照れ隠しをしていたのかもしれないが――耳元で囁いた。
「なんなら、キスの先も教えてやろうか?」
その意味を理解した瞬間、いつものように真っ先に手が出た。
「――このセクハラにゃんこがッ!!」
「……で、なにがどうなったらそうなるのか、面白そうだから詳しく教えてくれよ、思春期ガールとバカにゃんこ」
二人そろってパーティー会場に戻ると、紅月が呆れた調子でそう言った。桜子の隣で憮然としているクロの頬にはくっきりと手形がついている。誰の手形かは言うまでもない。
「万年発情期のオス猫が調子に乗ったから殴っただけ」
桜子がかなり大雑把に説明すると、クロは面白くなさそうにグラスの酒を呷った。自棄酒モードらしい。
「ところで……他のメンバーはなぜ一様にぶっ倒れてるのか、私はそっちの方が面白そうだから気になるんだけど?」
嫌味全開に聞き返すと、紅月は渋い顔をした。紅月を除く他のメンバーはもれなく畳の上で爆睡している。桜子が出て行ったときに比べて部屋に転がっている酒瓶の数が五倍くらいに増えている気がする。
「そりゃあ、嬢ちゃんの武勇伝を肴に飲みまくった結果に決まってるじゃん」
「思い出しただけで悶絶したくなるような過去を武勇伝呼ばわりなの?」
ほんの少しむくれながら自棄酒を呷ると、同じタイミングでクロが自棄酒を飲み干した。一応病み上がりの猫はいったいどれだけ酒を飲んでいるのだろうと見ると、クロの頬は赤らんでいて、目はとろんと半分閉じて潤んでいる。
あれっ、と桜子は怪訝に思う。春の花見酒の席では、クロはいくら飲んでもふだんとちっとも変らない様子だったから、彼は相当ザルなんだな、という認識を持ったのだ。だが、今の彼は酔っている。間違いなく酔っている。
「ねえ、飲みすぎじゃない? 酔ってるでしょ」
「……酔ってない」
二秒で嘘だと解る台詞を吐くと、クロは懲りずに飲もうとするので、桜子は慌てて手を引っ掴んで止めた。
「そのへんでやめときなさいよ」
するとクロは少し不満げに桜子を睨む。とはいっても、眠そうに潤んだ目で睨まれてもちっとも威厳がない。寧ろ無駄に色気があって困る。
やがてクロは掛け値なしで酔いが回ったらしく、ふっと目を閉じるとぐらりと倒れ掛かる。慌てて支えると、クロの頭が桜子の膝の上に落ちてきた。
「ちょ、寝るなら布団にしなさい、風邪ひくわよ!」
「んー……」
人の話を聞きやしない。
困ったことに、クロは人の膝を枕代わりにしたまま、静かに寝息をたてはじめる。叩き起こしてやろうかとも思った、だが、彼の寝顔があんまり気持ちよさそうだから、それも忍びない気がして、桜子は盛大に溜息をついて、現状に甘んじることにした。
その一部始終を目撃していた紅月はくつくつと小さく笑う。桜子は唇を尖らせて紅月を咎める。
「他人事だと思って笑わないでよ……」
「いや、失敬。けど、まあ、たまにはこういうことがあってもいいんじゃないのか? クロがそんなふうに無防備に寝顔を晒すなんて、今までだったらありえないことだったぜ。俺は天変地異を見てる気分だ」
「それはさすがに大袈裟じゃ?」
「大袈裟じゃないさ。いつでも神経をぴりぴり張りつめてるような奴だからさ、そんなふうに幸せそうに眠るなんてありえないことだったんだよ。それに、こんなちょっとの酒で酔いが回るのだって、ありえないことだった。よほど嬉しいことがあったらしいな?」
「……」
嬉しいこと。
桜子は指先で自分の唇にそっと触れてみる。
「……そりゃあ、嬉しいのは私も同じだけどさ」
誰にも聞こえないように密かに独りごち、桜子は膝の上で呑気にすやすや寝ている黒猫の髪を梳いてやる。いっこうに起きる気配のないクロだが、黒い耳はくすぐったそうに揺れていた。