30 大事な物は
外に出て、地上に下ろされると、途端に冷たい風がびゅうと吹き付け、桜子は身を震わせた。冬の空は澄んでいて、星は綺麗に瞬いていた。
あたりを見回すと、星明りに照らし出された森は、一部が陥落している。爆破された地下空間は埋まってしまっている。それを見て、桜子ははっとする。
「みんなは? 無事かしら?」
とりあえず潰されたのは朽葉がいた部屋だけだが、他の部屋も脆くなっている可能性はある。崩壊は時間の問題、長居するのは危険なはずだ。他の仲間たちは大丈夫だろうか。
桜子が心配していると、丁度タイミングよく声が聞こえてきた。
「桜子! 無事ですか!」
「嬢ちゃん! と、ついでにクロ?」
振り返ると、葵がぱたぱたと駆けてくる。その後ろから紅月がやってきて、一応助けに来た相手であるはずのクロをついで呼ばわりする。さらにその後ろから忍が歩いてきて、いつの間にかメンツが増えていて、ぞろぞろと百花、空湖、鏡花がやってくる。その上百花は縄でふん縛った雛魅、細波、弦巻をつれていて、やたらと大所帯になってきた。
「桜子! 忍と紅月が一緒だからと思って安心して送り出したというのに、紅月に聞きましたよ、ラスボスの元には結局一人で乗り込んで行ったとか! なんて無茶をなさるんです! 心配しましたよ!」
桜子の元までやってくるや、葵はそうまくしたてながら、桜子の体中をぺたぺた触って具合を確かめる。遅れてやってきた紅月がその様子を見ながら問う。
「意外と元気そうなのはよかったが、そこそこぼろぼろだし、首に痣ができてるのが気になるなんだが、大丈夫なのか?」
「だいじょーぶ! 体育の成績五を誇る桜子さんは頑丈なのが取り柄だしね!」
本当をいうと体中あちこち痛いのだが、せめてクロの前では気丈に振る舞っていようと、桜子は平静を装って空元気を振り撒いた。
するとさらに後から追いついてきた忍が疑わしげな目線を寄越す。
「本当だろうな? 姫さんは平気で無茶をするからな、平気だなんて言って、本当のところは怪しいぜ」
「なにをぅ」
桜子が言い返そうとすると、それを遮るように紅月と葵まで便乗して、
「嬢ちゃんは時々、というかしょっちゅう考えなしだからなぁ」
「当たって砕けられては困りますわよ?」
「その向こう見ずっぷりをもう少し直してくれたらなあ」
三人で好き勝手に言い始める。心配してくれているのは解るのだが、そこはかとなく罵倒が混じっているような気がして、桜子は頬を膨らませる。
「そういうみんなは、大丈夫なの?」
「え」
すると三人そろって仲良くあからさまに目を逸らす。
「まあ、私は基本的に忍なんかよりずっと強いですから、あの程度の敵に後れを取ったりしませんし、全然ぴんしゃんしていますし」という葵は、なんだかぼろぼろに見える。
「ははっ、姫さんが心配することじゃねえさ、一応俺はこう見えても鬼の当主なんだからな、ははは」と若干わざとらしく笑う忍は、なぜかずぶ濡れである。
「どっからどう見ても俺が一番無傷で元気だな、うん、さすが俺」と嘯く紅月はどう見ても一番顔色が悪い気がする。
三人の明らかに嘘っぱちをさらりと暴露したのは百花である。
「全員もれなくぶっ倒れたところを私が介抱してやったんだ。持つべきものは優秀な医者の友だと身に染みただろう。言っておくが、喧嘩で怪我をしても保険給付は下りないから、全員自費診療だぞ」
妖にも健康保険はあるらしい。
「十割負担はきついぃぃ」と紅月が頭を抱えて嘆く。それから、ぱっと顔を上げてクロを睨み、
「だいたいな、お前が面倒をかけるからこういうことになるんだ。超絶俺様野郎のくせに、肝心要の時にヘマ踏みやがってよぉ。これに懲りて少しは日頃の行いを改めて日々迷惑を被っている俺に土下座しろ」
無茶苦茶を言っている。だが、決して本気でクロを責めているわけではないのは、彼の表情から明らかだった。普段憎まれ口を叩き合ってばかりの悪友であるがゆえに、いざというときになんだかんだできっちり助けに駆けつけたことが、紅月としては照れくさいのだろう。
ついでに忍も便乗して、にやにや笑いながら文句を言う。葵は「しょうがないんだから」と言いたげに苦笑している。
だから、彼らにとって、クロの口から零れた言葉は、この上なく意外だったことだろう。
クロは照れたような、人懐こい笑みを浮かべて、告げたのだ。
「ああ……悪かった。来てくれて、ありがとう」
「……」
全員そろって、鳩が豆鉄砲でも食ったような顔をした。桜子だけが、素直な感情を吐露したクロを、微笑ましい気持ちで見ていた。
――あなたにはこんなに、素敵な仲間がいるのよ。
――よかったね、星影。
彼の真名をひっそりと胸の中で呟き、桜子は微笑んだ。
他のメンバーはといえば、クロの、おそらく彼らには初めて見せるのだろう屈託のない笑みに仰天して、泡を食っていた。
「大丈夫か、クロ? 悪いものを食ったか?」
「頭を打ったんだろう。なあ、そうだって言えよ」
「熱があるのではありませんか? 早く休んだ方がいいですわ」
「お前ら言いたい放題だな」
そう言った時には既に、いつもの不敵な笑みを浮かべている。
そこにいるのはもう、いつも通りの、俺様なにゃんこである。
その後の後始末。
紅月たちが倒した朽葉の部下、黄金の日暮れ団の四天王のうちの三人は、一番元気でぴんしゃんしていた百花が連行し、野牙里の郷が誇る警察組織・白旗組に引き渡した。
妖の世界を震撼させた史上最悪の裏切り者、金色の瞳の猫・朽葉の死という報せは、郷中を瞬く間に広がった。それに付随して、桜子たちと朽葉たちとの間で繰り広げられた乱闘騒ぎの話、そして、朽葉とクロの関係についても噂となって、郷のあちこちでは好き勝手に話が膨れ上がっていった。
やはりクロは裏切り者の血を引いていたのだ、とか。
だがクロは朽葉を倒したのだから関係ないじゃないか、とか。
クロに対する考えはいろいろだった。クロを悪く思っていた気持ちが少し変化する奴がいたり、そう簡単に偏見を払拭できるわけでもない奴がいたり、無関心な奴がいたり。いろいろな考えの妖たちが、いろいろなことを噂し合っていた。そうして盛り上がるあれやこれやの話は、しかし、話が盛り上がっている時期にすっかり疲れ果てて家で泥のように眠っていたクロの耳にはさっぱり入らなかったのである。やがて噂話は少しずつ沈静化していく。
もっとも、仮に耳に入っていたとしても、クロはさして気にしなかっただろうな、と桜子は思う。
クロには心を許せる仲間がいる。それを、クロ自身もよく解ったはずだ。それ以外の他人が何を好き勝手に言おうと、そんなことで、もうクロが揺らぐことなどはないだろう。
それを裏付けるように――
長い時間、蛇に憑依され、その上重ねて朽葉に術をかけられていたせいで、クロは外傷こそさしてないものの、酷く消耗していた。郷に戻ってくるなりクロはぶっ倒れて、そのまま丸二日は眠り続けてちっとも起きなかった。鬼の郷での一件で「猫騙し」を使った時でさえ、動くことはできなかったものの意識は割としっかりしていたのだから、今回の件でクロが相当ダメージを負っていたのは推して知れよう。クロが眠っている間、桜子はずっとやきもきして、「どうしよう」と日に百回は唱えていた。
ようやくクロが目覚めた時、桜子はそれまで心配しすぎて半狂乱気味だったことなどちっとも悟らせないような晴れやかな笑顔を浮かべた。それを密かに見守っていた紅月がひっそりと失笑していたことは、桜子は知る由もない。
そんな具合で、少々ばたばたしつつもクロが目覚めたその日、それを見計らったかのように、化け猫の長老・虎央からお呼び出しがかかった。偉い人から呼び出しを受けるとロクなことがない、というのが持論である桜子は冷や冷やしたが、クロはしれっと涼しい顔で呼び出しに応じた。そして、当然の如くクロとセットで出向を命じられた桜子は、半ばクロに引きずられるようにして虎央邸に赴いたのである。
「無事に戻ってきたのだな、クロ」
虎央はまずそう言った。喜んでいるのか、はたまた残念がっているのか、真意を悟らせない声だった。
「初めにはっきりとさせておこう。お前は朽葉の子なのだな?」
虎央は単刀直入に問うた。クロは端的に答える。
「そうだ」
「……」
「俺は最初からそれを知っていた。あんたに拾われた時も……だが、あんたには結局言わなかった。まあ、話すまでもなく、あんたは俺をそういうふうに扱ったけど」
「それを後悔はしていない。郷を守る立場として、自分の選択に間違いはなかったと、自信を持って断言できる。だが……お前は朽葉の血をひきながら、しかし、朽葉を否定した。朽葉を屠り、朽葉とは違う、お前自身の高潔な血を証明した」
「まだるっこしいな。結局、何が言いたい」
「お前に、これを」
虎央は懐から小さな木箱を取り出し、畳の上に置いた。蓋を開くと、中には透き通るような金色の石が入っていた。それは、クロの瞳にとてもよく似た宝石だった。
長から贈られる石――一族の仲間と認める、証の石。
桜子はその石の美しさに、そして虎央の心変わりに目を瞠った。
「何をいまさら調子のいいことを、と思うだろう。だが、これは儂なりのけじめだ。儂がお前を拒む理由は、もはや無い」
「……」
差し出された石を、クロは無表情に見下ろしていた。どうするのだろう、と桜子は緊張した面持ちで成り行きを見守る。
やがてクロは、ふっと小さく息をつくと、徐に立ち上がり、木箱の蓋を閉めると、箱を虎央の方に押し戻した。虎央はかすかに表情を曇らせた。それは、哀しみの顕れのように見えた。
「そうか……それが、お前の答えだというなら、もう何も言うまい」
クロは石を受け取らなかった。だが、それは決して、虎央の決意を歯牙にもかけなかったわけではない。拒絶したのでも、蔑ろにしたのでもなかった。その証拠に、クロはにやりと笑って、告げた。
「そいつは、俺にはもう必要ないんだ。大事な物は、もう全部、持ってるからさ」
すると、もう言いたいことは言ったというように、クロはさっさと踵を返して屋敷を出て行った。
彼らしいな――そう思いながら、桜子はクロを追いかけた。