10 仲間外れの黒猫
空は晴れやか、だが、心はこれ以上ないというくらいどんよりと曇っていた。
勢い任せで店を飛び出した桜子は、走って、走って、遠くへ逃げた。茶をぶっかけられたクロが怒って追いかけてくるかもしれない、だが今は顔を見たくない、見られたくない。そう思って逃げた。
商店街を抜け出し、人気がなくなってきたところで、ようやく足を止めて溜息をついた。いつの間にか辿り着いていた場所は河原だった。川底が見えるくらい澄んだ水が緩やかに流れる川に、木製の橋が架かっている。
橋の真ん中まで行って、ふと欄干から身を乗り出して水面を覗き込んでみる。浮かない顔が浮かんでいる。深い溜息は浅い川に吸い込まれていく。
「橋の向こうには行かない方がいいぜ」
不意に男の声が聞こえた。自分にかけられた声だと気づいて徐に顔を上げると、市街の方から狗耳青年――紅月が歩いてきた。
「橋を渡った先からは人気がぐっと少なくなって、たまに賊が出る。一人歩きはしない方がいい」
桜子は橋を渡って先に行く気はなかったが、紅月は心配して忠告してくれたらしい。
「ありがとう、先には行かないことにする。……あなたはどうしてこんなところに?」
「今は昼休みだからな、ふらふらと散歩してたのさ。あんたの方は……今日は一人か? 猫は一緒じゃないのか」
この街に猫は大勢いる、だが、紅月の言う猫はクロのことだろう。そう気づいた桜子の表情が、わずかに曇ったのだろう、紅月は怪訝そうな顔をした。
「何かあったのか」
「まあ、いろいろ」
「あいつに関わると苦労するんだ。めんどくさい奴だから。性格悪いし、汚いことも平気でするし。あんたも、いろいろ迷惑かけられてるんだろう?」
肯定しかけて、桜子は思いとどまった。
「……ううん、迷惑かけてるのは、私の方」
クロは酷いことをしたと思った。酷いことを言ったと思った。だが、桜子は結局言い返せなかった。彼の言ったことは、酷いことだったが、正しかったからだ。クロが裏で手を回していなければ、長老たちの話し合いは始まることすらなかっただろう。
クロは汚いことをした。だが、そうさせてしまったのは桜子の無力さが原因だ。ようやく頭が冷えて、桜子はその事実を受け止めた。
「自分が何もできないのを棚に上げて、八つ当たりしちゃったの」
「……詳しいことは解らねえが、あんまり思い詰めないことだ。ちょっと八つ当たりされた程度のこと、あいつはさらっと流して五秒で忘れるからな」
何か心当たりがあるらしく、紅月は苦々しい顔をした。
「あんたばっかり深く悩むことはないさ。あんた、あいつに随分無茶を言われてるんじゃないのか。俺たちの抗争に首突っ込むことになったのも、元はと言えばあいつが無理を言ったんだろ」
「まあ、ね」
「あんたは半妖……桜鬼の血を引いてるっつっても、今まで人間として生きてきたんだろう? 本来なら、妖の問題に責任を負う必要なんかないはずだ。だが、成り行きとはいえ、猫の無茶に付き合ってる。あいつにどれだけうんざりしても、それでも投げ出す気なんてないって顔だ。それだけでも充分すごいことなんじゃないか?」
「そういうものかしら……」
紅月は慰めてくれるが、桜子はそこまで自分に都合よくは考えられない。確かに投げ出す気はない、だが、最後まで付き合ったところで、無力な自分に何ができるだろう。何もできないなら、いないのと変わらない。そう思って、桜子の心は自己嫌悪でずぶずぶ泥沼に沈んでいくようだった。
「……あいつは酷い奴だけど、できれば見捨てないでやってくれよ、嬢ちゃん」
「え?」
少し唐突とも思える意外な言葉に、桜子は瞬きする。
紅月はクロのことを嫌いなのだと思っていた。紅月の口から、クロを案ずるような言葉が出てくるとは思わなかった。桜子が大げさに反応すると、紅月は気まずそうに頬をかく。
「あなたは、クロと仲が悪いんじゃなかったの? それに、猫と狗は喧嘩してるのに……」
「まぁ、確かに俺とクロは顔合わせるたび憎まれ口を叩き合うような関係だが、別にあいつのことが憎いとか、そういうわけじゃねえよ。ま、あいつは俺が嫌いかもしれないけどな」
「うーん、喧嘩友達ってこと?」
「んー、その一言でまとめられるのは不本意だが、まあ、近いな。猫連中とは確かに対立中だから、狗の者はおおっぴらに猫と仲良くできる空気でないのも確かだが、あいつは猫っていってもはぐれ猫だし。それになぁ、別に俺は猫の一族に個人的な恨みもあるわけじゃないから……」
「へぇ……」
一族の象徴が傷つけられたからには、猫と仲良くするわけにはいかない。だが、かといって、猫たち全員に罪があるわけではない。商店街で出会った猫の柊と狗の少年は、相手を嫌っていたわけではなく、「嫌っていなければいけない空気」を感じて争っていただけなのだろう。
「小学校高学年の女子生徒みたいな……」
「は?」
「いえ、なんでもないわ」
長老襲撃事件の真相が明らかになれば、空気に流されて争うようなことが、なくなるかもしれない。そのためなら、もう少し頑張ってみたい、という気持ちになる。とはいっても、何を頑張ればいいのか、何を頑張れるのか解らないのは、変わらないのだが。
だが、争いの解決を望んでいる妖がいる――そのことが、桜子を鼓舞する。こんなところで沈んでいる暇はないぞと気持ちを引き揚げていく。
「あの……ありがとう。私、頑張るから。猫と狗が争わなくていいように、事件を解決する。何もできないかもしれないんだけどさ……でもとにかく頑張る、うん」
「礼を言われるようなことはしてないさ。あいつともさ、仲違いしてるんなら早く仲直りしちまえよ」
「そうね……」
謝らなければならない、という自覚はある。だが、かなり激しい勢いで捨て台詞を残して出てきてしまった手前、まだ顔を合わせにくい。
「……あんたさえよければ、あいつの傍についていてやってくれよ。あいつの味方は、たぶんあんたしかいない」
「私しか?」
「嬢ちゃん、あいつが何で猫連中から除け者にされてるか知ってるか?」
「性格が悪いからじゃないの?」
迷いのない答えに紅月は苦笑した。
「そいつは逆さ。爪弾きにされたせいであいつの性格は歪んじまったんだ」
「じゃあ、どうして……あ、ちょっと待って、やっぱり本人がいないところで聞いたら悪いんじゃない?」
「気にすることはない。別にあいつも、隠してることじゃないし、このへんの妖なら誰でも知ってる。あいつは、猫の一族から爪弾きにされて、他の妖からも疎まれてる……その原因は、あいつの瞳だよ」
クロの、金色の瞳が思い出された。
「あいつの他に、金色の目をした妖を見たか?」
これまでにあった何人かの妖たちの顔を思い出す。さまざまな瞳の色を見てきた。たとえば、紅月は真紅の瞳を持っている。虎央は琥珀、竜厳は翡翠だった。同じ目の色をした妖も何人か見た。だが、不思議と、金色の瞳の妖は、クロ以外に会わなかった。
「いいえ、いないわ」
「金の瞳はかなり珍しいんだ。そのせいで、疎まれてる」
「珍しいからってだけ?」
そんなつまらない理由なのかと桜子は目を瞠る。だが、紅月はゆるゆると首を振って否定した。
「まさか。詳しい説明は省くが……昔、猫の一族の中に、金色の瞳を持つ男がいたんだ。その男は一族を裏切って、そこらじゅうの妖たちを次々と虐殺したのさ」
虐殺――その言葉が、桜子の胸にずしりと重くのしかかった。
「史上最悪の裏切り者――金色の瞳は、裏切りの象徴なのさ。その男は郷から姿を消し、今はどこにいるのか、そもそも、生きてるのか死んでるのかすら解らない。そして、それから数十年の後にクロが現れた。あいつは捨て猫だった」
「親に捨てられたってこと?」
「そう。誰が親なのかは解らない。虎央様が育てることになったが、内心気が気じゃなかったろうぜ。何せ、大虐殺を起こした男と同じ目をしてるんだから。金の瞳が非常に稀だっていうのがまずかった。誰もが思っただろうさ――」
ごく珍しい形質を持つ二人がいた場合。
考えられる可能性は、偶然か――遺伝。
「――あいつは裏切り者、虐殺の猫の血を引いてるんじゃないかって」
クロは、受け継いでいるかもしれない犯罪者の血のせいで疎まれているのだ。
「そんな、理由があったなんて」
知らなかった。知らないで、酷いことを言ってしまった。
昨日の会合で、虎央は、猫の一族の結束は固いと言った。それを聞いたクロが浮かべた皮肉っぽい表情を桜子は覚えている。何も言わなかったが、内心では面白くなかったに決まっている。
固い固い、一族の結束。その輪に含まれていないはぐれ者。
そんな彼に向かって、
『そんなんだから仲間外れにされるのよ!』
とても、酷いことを言ってしまった。
クロが除け者にされていること――それは、勢いで言っていいようなことではなかった。自分が放ってしまった言葉と共に、クロの顔が思い出されてくる。
無表情に桜子を糾弾していたクロが、あの瞬間だけ、目を見開いて、どこか哀しそうな顔をしていなかっただろうか?
横暴で、傲岸不遜な彼が、あんな顔をするなんて!
「私、行かなきゃ……ありがとう、紅月!」
一刻も早く謝りたい。
桜子は弾かれたように走り出した。




