ある男の話(2)
・・・。
少しばかり、妄想がすぎたかな。兎にも角にも、ゴキブリを侮ってはいけないということだ。では、ゴキブリの思考パターンをトレースしながら、どうすれば、彼らへのパルチザンが成功するか考えてみようではないか。
ここで、先ほど、トイレに向かったゴキブリを、ゴキ太郎と一応名づけておこう。ゴキ太郎は何か意図があって、俺に姿を見せ、洗面所へ行ったとしよう。それに、俺はほいほいとついていこうとしていた。そのまま行くと、俺がゴキ太郎を洗面所の隅に追い詰め、ゴキジェットの噴射口を彼に向けることになっただろう。
しかし、仮に、仮にだぞ。こういうことは考えられないだろうか。俺が彼にノズルを向けるや否や、それが合図となって、洗面台の影に息を潜め、隠れていたゴキ太郎の仲間であるところのゴキ之介(仮)率いるゴキブリ軍総勢100名が、ゴキ太郎に気を取られている俺を背後から強襲するということはないだろうか。
そう、俺をおびき寄せたかったからこそ、いつも閉まっているはずの洗面所のドアは開いていたのだ。私たちを影から支配している彼らが人間に劣るところは、その体躯の小ささ。しかし、奇襲戦法をとれば、いくら、人間がゴキブリの何十倍、いや、何百倍大きい体を持っていようと、そして、人類の英知を結集したゴキジェットという大量無差別兵器を持っていようと関係がない。流石、ゴキブリ、パネェな。
そう考えると、俺は手も足も出せない。3歩程度進んだところにゴキ太郎がいるのに。俺は、ゴキジェットを持っているのに。これほど、もどかしいことはない。
このような時、過去の偉人たちはどうしたのであろうか。俺は、この膠着状況を打開するために、先人の知恵を借りることにした。
俺が恐れているのは、ゴキブリの伏兵がいるかもしれないということ、そして、彼らに虚を突かれるかもしれないということだ。つまり、伏兵がいるかいないか、わかればいいのである。まぁ、サシなら勝つ自信はあるからな。
そこで、俺は平安時代後期の武将、源義家の「雁行の乱れ」の逸話を思い出した。
それは、御三年の役の際、義家軍が敵の城に進軍中のこと。空を飛んでいた雁の群れがいきなり、列を乱して、てんでばらばらに飛び別れて行った。
それを見た義家は、中国の兵法の一節を思い出した。そして、「雁は普通、列を成して飛ぶもの。それが乱れたということは近くに伏兵が隠れているからに違いない。」と言って、家臣たちに付近を探させた。そうすると、近くの沼に敵兵が埋伏しており、これを無事、全滅することができた。めでたし、めでたしというものだ。
それをこの場に当てはめて考えれば、ゴキブリの埋伏兵がいれば、雁が隊列を乱したり、何がしかの変化が洗面所付近に見られるに違いない。まぁ、トイレに雁はいないから、家にいる虫。蟻が隊列を乱したり、蜘蛛が異常行動をとったり、何かはするのかな。
・・・。
するわけがない。
そもそも、隊列を組むほど、大量の蟻が我が家を闊歩するような状態になれば、それはそれで恐ろしい。
ゴキブリ100匹を加えれば、まさに地獄絵図である。彼らと闘うのを放棄し、一時撤退、つまり、就職してから7年間の長きにわたって住んでいるこの愛しい我が家から、引っ越しをするのが賢明な判断と言えるだろう。勝てない戦を続けるよりも、引き際を見極めることも、これまた肝要。ここら辺が、敗軍の将に対する後世の評価を分ける重要なポイントなのである。
さて、そんな事を言っている間に、もう帰宅してから、1時間たっていることに俺は気づいた。ふと、脇に置いていたコンビニのビニール袋を見ると、買ってきた発泡酒が入れっぱなしになっていた。ゴキブリとの戦いに集中しすぎて、冷蔵庫に入れるのを忘れていたようだ。発泡酒のアルミ缶の外側にはたくさんの大粒の水滴がついていて、コンビニのクーラーボックスから取り出した時の、あの冷たさを失っている。
連夜の残業に疲れた俺の喉を唸らせるには、あの神々しいまでの冷たさが必要なのに。
俺は、そう思ったが、後の祭りだ。ギンギンに冷えた発泡酒の旨さを味わうには、少なくとも、冷蔵庫に1時間ぐらい入れておかなければならないだろう。冷凍庫に入れれば、もっと早く冷やすことができるかもしれないが、もし、長く入れすぎてしまった場合には、かちんこちんに凍って飲めない。無理やり、開けようとすれば、アルミ缶が爆発する可能性もある。ハイリスク・ノーリターンだ。
友人から勧められた株で失敗して、親から借金したという過去を持つ俺ではあるが、流石にそんな馬鹿なことはしない。
何てことだ。明日も、普通に仕事があるのに。
こんなことで時間を取られていたら、本も子もない。ゴキブリとの戦いは短期集中決戦で終わらせなければならない。そして、ギンギンに冷えた麦100%の発泡酒を思う存分味わう。いつもは、「ビールの方が旨いのに、ちくしょう。金があれば・・・。」なんて思うが今日は違う。言葉通りの「勝利の美酒」となるのだ。その味たるや格別だろう。
そのためにも、伏兵の存在に怯えて動かないままでいては、状況は全く進展しない。やらないで後悔するなら、やって後悔する方がいい。俺はそう決意を固めた。
ざっ
俺は洗面所に一歩足を踏み入れた。
しかし、伏兵が大挙して襲ってくるのではないか。その恐怖に足がすくむ。鳥肌が立ち、寒気がし、頭も重くなる。
やっぱり、俺にはできないかもしれない。
小学生の時に見た、飛ぶゴキブリの映像の恐怖とトラウマが襲う。
所詮、俺は弟に彼女を先に作られるような、しょぼい男。
人類の未来を切り開けるような大きな人間じゃない。部屋の隅っこで、ゴキブリの影におびえて、生きていくのが関の山。ゴキブリ様の支配を知っていながら、彼らに貢ぐ、そういう生き方しかできないんだ。
もう駄目だ。
そうやって、俺が、絶望のどん底に叩き落とされている時、何故か、昔に母が発した言葉が頭に浮かんだ。
「もう!やす君はへたれね。そんなんだから、彼女できないのよ。まったく。」
弟に彼女ができて、落ち込んでいた俺を見て、母はこう言った。ただでさえ、ブルーになっている俺に追い打ちをかけるようなことを言って、本当にひどい女だ。俺は、悔しかった。
しかし、その言葉に言い返すこともできなかった。そのことがまた、情けなく、悔しく、俺は母に何も言えずにその場を離れ、自分の部屋に戻って、ベッドにうつ伏せになって、さめざめと泣いた。自分のあまりの小ささを憎んだあの頃。
それから、10年超。あのころから、何も変わってないじゃないか。
それでいいのか、俺。
俺は精神の強靭さをゴキブリに見せつけるんじゃなかったのか。
諦めんなよ。
もっと、熱くなれよ!!!
俺は、勇気を振り絞り、震える足を上げ、洗面所にもう一歩を進めた。しかし、今度は先ほどと同じように歩みを止めたりはしない。ゴキ太郎を視認した。彼も俺が来たのに気づき、その俊足をフルに生かして、逃げようとする。
「させるか!!!!!」
俺は、彼にゴキジェットのノズルをロックオンし、有毒ガスを大量に噴射した。
決着は一瞬のうちについた。
ゴキ太郎は、最初は懸命に逃げようとしたものの、ゴキジェットの恐ろしいまでの風圧にひっくり返され、さらに、有毒ガスを大量に吸い込み、けいれん状態に陥り、最後は動作を完全に止めるにいたった。
「勝ったな。」
あっけない幕切れだった。しかし、戦いの終わりとはそんなものだ。勝利の喜びや安堵感よりも虚しさの方が先に立つ。達成感といったものは、後から、じわじわ感じられるものなのだろう。
俺は、キッチンの下の物置から、キッチンペーパーを取り出した。そして、必要な分だけを破り取り、それでゴキブリをつかんだ。そっと、潰さないように。この哀れな屍を見ると、先ほどまで考えていたゴキブリ陰謀論が馬鹿馬鹿しく思えてきた。やはり、ゴキブリは人間様には勝てないのだ。
「ゴキブリが人間を支配してるなんてことはないんだよ。へっ。ざまぁ、見ろ。」
そう言って、俺はその厚手のキッチンペーパーをゴミ箱に捨てた。
すべての後処理を済ませ、俺はようやく、リビングに帰ってきた。
「はぁ、疲れた。しかし、よくやったよ。俺。」
ネクタイを外し、リラックスモードに入る。ゴキブリとの1時間超に渡る激闘のせいで、もともと残業帰りで疲れた体はより、お疲れだ。それでも、冷えた発泡酒は飲まなければな。忙しいサラリーマンにとって、酒と戯れる時間が唯一のオアシスである。
「とりあえず、冷蔵庫に~と」
俺はぬるくなった発泡酒を冷蔵庫の中に入れた。流石に冷めた発泡酒は不味くて飲めない。ギンギンに冷えた酒こそ、俺を快楽にいざなってくれる。
さてと、発泡酒が冷えるまでの時間、何をしようか。手持無沙汰に何もしないで待っているのは、それこそ、時間の無駄というものだ。時は金なり。有効に使わないとな。
「おっ、そういえば」
そこで、俺は隣に住んでいる女子大生の佐々木さんに借りているDVDの存在を思い出した。そういえば、1週間くらい借りっぱなしになっていた。すっかり、忘れていた。
彼女に借りてから、テーブルの上に置きっぱなしにしていたDVDを取り、それをDVDプレーヤーに入れる。テレビをつけて、リモコンで操作してっと、よしっ、始まった。
俺はリビングのソファに雑魚寝しながら、DVD鑑賞を始めることにした。
その内容はいたって普通のものだった。
主人公は、どこにでもいそうな大学生の男、中田ヒロ。特にケチのつけようもないこれまたありがちな生活、ようするに、勉強はそれなりにしつつ、サークルも楽しみつつ、バイトもしつつ、彼女もいるみたいな暮らしを送っていた主人公の周りで異変が起き始める。何なのだろうと思っていたら、いきなり、彼を狙う敵の組織が現われる。彼女もその組織にさらわれた。絶対に彼女を助けなければ。そして、敵の組織の真意とは・・・。ダイジェスト版にするとこういう話。
「彼女、これ、すごいおもしろいって言ってたけど、そうでもないな・・・。」
どうせ、彼女は助かるし、何だかんだで敵の組織を潰して、ハッピーエンドだ。主人公の中田君の家が剣道の道場をやっているという設定の時点で狙いすぎじゃないか。何だかんだで、敵をばっさばっさと切り倒して、勝つに決まっているのだ。
だいたい、中田君は自分語りナレーションで、「俺の名前は中田ヒロ。どこにでもいるような普通の大学生。そんな俺の周りに、異変が起き始めていた。」と言っていたのに、まず、彼はイケメンというね。全然、普通じゃないというね。何かそこらへんからして、不快だわ。大変遺憾に感じるわ。
あ~、だんだん、眠くなってきた。
瞼も重くなってきたし、欠伸をこらえきれないし。あ~あ~あ・・・。
次の朝に気づくことではあるが、俺はそのまま眠りの世界に入ってしまったようだ。
冷蔵庫に発泡酒を入れたままで。DVDの終わりも見ないままに。