ある男の話(1)
「はぁ。今日も仕事疲れたな。さて、家帰って、発泡酒でも飲みますか。」
俺の名前は田中泰治。残業を終え、帰りにいつも立ち寄るコンビニで発泡酒とつまみを買い、一人で飲む準備万端で自分が住むマンションに帰ってきた。
エレベーターで5階まで上がり、廊下を歩いて、俺の住む507号室の前で立ち止まる。そして、カバンから、おもむろに家のカギを取り出し、いつもと同じように玄関のドアを開ける。
「ただいまぁ」
別に付き合っている人がいるわけでもなく、俺の部屋は当然のごとく、真っ暗で、迎えに立つ人もいない。しかし、そんな虚空に向かって、この言葉を放つのも、これまた、いつものことだ。
そして、玄関にある廊下の電気のスイッチを押す。今まで、真っ暗闇だった世界に、暖かな明かりが灯り、いつもと同じ見慣れた世界が映し出される。
我が家へ帰ってきた。仕事で疲れている体が、緊張から解放される瞬間である。
カバンをわきに置き、靴を脱ぐ。そして、玄関を上がり、キッチンと一体化した廊下をリビングに向かって進む。俺の安らぎタイムまで、あと少しだ。
カサカサカサ
「あれ・・・?」
俺の目の前を、細黒い物体が素早く通る。
「もしかして、あれは。」
カサカサカサ
「・・・。」
俺は気づいてしまった。俺の帰りを待ってくれていた同居人の存在に。
しかし、それは、嬉しいことでは全くない。むしろ、その逆だ。
彼の、やたらと触覚が長く、黒光りするフォルムは人々にこの上ない嫌悪感をもって迎えられている。人が住むところに、彼はいる。そう、人類は彼と永久に戦うことをプログラムされていると言っても過言ではないのだ。
忌避の念と、ある種の尊敬をもって、人は彼のことをこう呼ぶ。
ゴキブリと・・・。
うちの家にゴキブリがいるなんて、何てことだ。
奇麗な部屋とはとても言えないが、掃除だって定期的にやっているし、生ゴミはちゃんと捨てている。ホウ酸団子も配備しているし、ゴキブリホイホイも置いている。なにより、害虫対策に、クモまで飼っているというのに。(※クモが自然に繁殖しているだけです)本当に、クモはゴキブリも食べずに何をしているというのだ。そんな体たらくで君たちはよくもまぁ、益虫の名を語れるな。
しかし、ゴキブリを見つけてしまったらしかたない。今、俺のやるべき事はたった一つだ。
彼を殺す。
日進月歩で、技術が進歩している現代において、ゴキブリを新聞で叩いて殺すなどという前時代的な事はやっていられない。そんなことをしてしまえば、大破した彼の骸の一部が、床にこびりついてしまう。それを処理するのは大変だし、なにより、エグい。文明人である我々は、そのような惨劇を見慣れていないのだ。精神的にもショックが大きい。
今の時代、ゴキジェットに代表されるような、殺虫剤というものが、スーパーやコンビニに所狭しと並べられている。いや、所狭しといほどではないか。そんなものが、大量に置かれるというのは、全くもって想像したくないことではある。そんな事になるのは、それこそ、人類がゴキブリとの最終戦争で劣勢を期し、総力戦でゴキブリと相対しなければならない時ぐらいだろうからな。
それはともかく、俺はキッチンの下の物置の中から、ゴキジェットを取り出した。彼を見つけ次第、ロックオンして、即座に仕留めなければいけない。なにしろ、彼は飛ぶのだ。
何の番組だっただろう。おそらく昼にやっていた生活情報番組だったような気がする。
あの時、俺はまだ小学生だった。
夏休み前の期間で短縮授業だったので、昼前には家に帰ってきていた。そして、扇風機が回り、風鈴が涼やかな音を奏でて揺れる典型的な夏の一家団欒の風景の中で、母親と弟と一緒に昼飯のそうめんを食べながら、テレビの画面を何の気なしに見ていた。
その生活情報番組でゴキブリへの対処法などを紹介した特集が組まれていたのだが、そのなかで彼が飛ぶ非常にショッキングな映像が流された。
番組に出演していた芸能人たちは、その姿に一様に驚き、映画の宣伝か何かでゲスト出演していた、当時売り出し中の女優なんかは、「きゃー、気持悪い」などと叫んでいたが、俺の驚きようはその比ではなかった。
背筋が凍った。
箸でそうめんを持ちあげた右手が空中で浮遊した。
口がボーっと、半開きになった。目が見開いたまま、20秒間、瞬きをしなかった。両の鼻の穴を通る空気の行き来が完全に止まった。
それほどのショックを俺は受けたのである。
母親と弟はその俺の様子を見て、一瞬死んだのではないかと勘違いしたという。
実際、俺の意識は20秒くらい飛んでいて、ゴキブリが飛んだ映像を見た後に、俺の瞳孔が結んだ像は、俺を心配して、泣きじゃくる母親の姿であった。その後、母親が、テレビ局に「食事の時間に、あんな刺激の強い映像を流さないでください。息子が死にかけたのよ」と大真面目に抗議の電話をかけたのは余談ではある。
俺はそれほどに、彼を、そして、彼の飛ぶ姿を恐れたのだ。
しかし、ゴキブリが飛ぶ映像をテレビで見ただけで、驚いて失神するという小学生らしい可愛いエピソードを持つ俺も、なんやかんやで大人になった。中学にも、高校にも、大学にも通い、そして、今は社会人7年目。もうすぐ、30歳を迎えようというところだ。ゴキブリなんぞ、恐れてはいられない。
過去にトラウマがあったとしても、それではビクともならないぐらい、俺は成長した。そう、大人の男としての貫録を彼には見せつけてやらねばならない。彼が、俺に向かって飛んできたとしても、それに臆してはいけない。俺は、どんな状況にあっても、ミッションを成功させる殺し屋。決してターゲットに向けた銃口を離してはいけない。それほどの冷静沈着さと、冷徹無比な心を持ってしなければ、彼に対して圧倒的な勝利を得ることはできない。
彼に対して、見せつけてやらなければならないのだ。彼らをものともしない、人類が築き上げてきた英知を、そして、過去のトラウマにも打ち勝った俺の精神の強靭さを。
おっと、自己陶酔が過ぎたかな。しかし、人類が未来永劫戦い続けるであろう仇敵との戦地に赴く決意を固めるには、これくらいの覚悟は必要に違いない。
俺が、そう思っていると、
カサカサカサ
今まで、廊下の隅に身を潜めていたらしい彼が、今度はキッチンと廊下を挟んで向かい側にある洗面所の方へ向かっていくのが見えた。しかし、なぜ、洗面所のドアが開いているのだろう。いつもは閉めているはずなのに。
ふっ。まぁ、いい。
今まで、俺の前から、姿を隠していた彼も、ついに、俺とのサシの勝負に臨む覚悟がついたという訳か。面白い。物陰から、俺の不意を突いて、いきなり、飛びだしてくるのではなく、あたかも、「俺にも覚悟がついたぜ。さぁ、戦場はこっちだ。来なよ。」と誘ってくるようなお前の後ろ姿には、ライバルとして、大きな好感が持てる。
しかし、甘い。甘いぞ、ゴキブリよ。洗面所の方向は袋小路。俺のゴキジェットのノズルから噴出される有毒ガスから、例えお前が逃げようとしても、そこは一面の壁、壁しかない。お前を洗面所の隅に追い詰めてしまえば、俺の勝利は決まったも同然。人間の永遠の讐敵とはいえ、所詮、ゴキブリ。人間の高度に機能化された頭脳には勝てないということか。
ふふふ。ふふふ。俺は、あまりの余裕っぷりに、自然と零れる笑みを止めることができなかった。
しかし、油断は禁物。油断や驕りが、敵に虚を突かれる原因となるのだ。過去の歴史をひも解いてみれば、それは一目瞭然だ。1560年に行われた、かの有名な桶狭間の戦いにおいて、今川義元が、織田信長に討たれてしまったのがいい例である。義元が、もう少し警戒していれば、討たれることはなかったであろうに。楽勝ムードで、余裕ぶっこいていたから、信長などという「うつけ」の術中にはまってしまうのだ。
と、ということは、もしや・・・。俺も、かの今川義元のごとく、ゴキブリの策に嵌められてしまっているということも考え得るのではないだろうか。
慎重な俺はその可能性を考えるに至った。
人間は地上で一番知能の高い存在だ。それは、「天地創造」において、神が「地を這うすべてのもの」を治める存在として、人間を創ったことからも明らかであろう。
ただ、よく考えてみてほしい。豚や牛や鳥と言った家畜は人間が生きていくために必要不可欠である。だから、神が彼らを創造したというのは理にかなっている。しかし、ゴキブリは我々人類に何かしらの恩恵を与えてくれているのだろうか。その答えは、当然、否だ。ゴキブリは人間の生活に寄生するのみで、不快感を与えこそすれ、我々の為になることは何もしてくれない。彼らは全人類の敵なのだ。
「人間は退屈を嫌う動物である。だから、そんな困った人間たちを退屈させないように、神は我々と対立する存在としてのゴキブリを生んだのだ。」
という人もいるかもしれない。
しかし、そもそも人間同士が対立しあい、いがみ合う世の中にあって、これ以上、心を煩わせる敵は必要ないのではないか。
会社のパソコンでエロサイトを少し覗いたからといって、無駄にキレる上司とか、営業成績が俺よりいいからといって、俺の事を小馬鹿にする態度をとる東大出のエリート面した後輩とか、会社の飲み会でやたらとコールをかけて、俺を潰そうとする恐ろしい女子社員とか、俺の周りには数多の恐ろしい敵が存在している。もう役者は揃っているのだ。だから、神が我々のために、ゴキブリを創ったなんて、論理は成り立たない。
ここで、少し視点を変えてみよう。まぁ、神様とはいっても、日曜日はちゃっかり休むような奴だから、休日出勤している俺の方がたいがい働いているかもしれない。そう考えると、神が天地創造の際にヘマをやらかしたということも考えられるわけだ。実は、人間を一番偉く創ったつもりが、それに寄生する上位種として、「GOKIBURI」を生み出してしまうということもあるかもしれないのだ。
例えばの話、地主の金持男さんと小作農の与作さんがいるとする。どっちが、ちゃんと働いているかと言えば、当然、畑に出て作物を生産している与作さんである。しかし、贅沢な暮しをし、「喜び組」をはべらしているのは持男さんである。地主は、小作農がいないと生きていけない。しかし、寄生しているはずなのに、何故だか、彼らより、おいしいものを食べて、楽しい暮らしをしている。
次に、ゴキブリと人間がいるとする。人間は汗水たらして、食い物を生産する。で、ゴキブリは何の労もなしにそれを食べる。ゴキブリは何も生産していないはずなのに、ばんばん子孫を増やしている。隕石が地球に落っこちて、人間が滅亡しても、ゴキブリだけは生き残る。
ここまで言えば、わかるだろう。人間よりもゴキブリは上位に立っているのだ。「知的活動を行っているのは、哺乳類のみであり、その中でも人間は最上である」という発想自体、ゴキブリが人々に抱かせた幻想なのかもしれないとさえ、俺は思う。私達が脈々と築き上げてきたと思っている、この文明世界も、実は上位種であるゴキブリにいかに、効率的に大量の食物を供給するかを追求した、ゴキブリの為の社会システムに過ぎないのだとしたら。ゴキブリが人間社会を背後から操っているのだとしたら。
何て、恐ろしい話だ。俺はとんでもないことに気づいてしまったかもしれない。その衝撃は、俺より先に俺の弟に彼女ができたことを知った時に劣るとも勝らないほどのものだ。知らなきゃよかった。
しかし、知ってしまったからには何がしかの行動を起こさねばならない。
俺はゴキブリの圧政から、人類を解放しなければならない。気づいたということは、俺はその使命を与えられたということなのだ。俺は長く続いた暗黒の時代に希望の光を与える存在となる。どんな困難が待ち構えているかはわからない。しかし、自由をこの手に掴むまで、我々の戦いは終わることはないのだ。そして、果てしない戦いの果てに、我々は歌うだろう、勝利の凱歌を。