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山全体に心地よい風が駆け抜けると、それに合わせて赤や黄色と美しく色を付けた木々が、枝を揺らして秋の訪れを歓迎していた。
「ちょっと、もう少し早く飛びなさいよ!」
「いや、これが限界だって!」
しかし俺たちは、紅葉を楽しむ余裕もなく山の上を高速で飛行していた。
背中には、小学生くらいの大きさの熊を背負って。
「もうちょっとだから、頑張って!」
その言葉は、残念ながら俺に向けられたものではなく小熊に向けられたものだろう。俺に背負われている小熊は、意識があるのか判別できないほどにぐったりとしていた。そしてその体毛には、至る所に泥や砂、そして血液が付着している。
この小熊を見かけたのは、つい数分前のことだった。少なくなった食料を補充するべく、俺と雪女は山の中へ向かった。その途中、崖の下で血まみれの小熊を見つけたのだ。今は雪女が傷口に手を当てて血液を凍らせ、なんとか止血をしている状態だが、衰弱していることは変わりない。
「よし、着いたぞ!」
随分と長い時を過ごし、俺の中ですっかり我が家として定着した、氷像のような家に到着した。家の手前でゆっくりとブレーキをかけ、小熊にできるだけ衝撃の少ないように着陸。雪女は小熊から手を離すと、流れるような手さばきで開錠し、破らんばかりの勢いで扉を開けた。
「さあ、早く早く!」
俺も雪女に続いて慌ただしく中に入った。扉を閉めるのも忘れて、俺がいつも使っている雪でできた布団に小熊をそっと寝かせた。布団は氷とは思えないほど柔らかく、適度に冷たいので、俺の背中に乗っているよりよっぽどいいだろう。
雪女は食料庫の中から、薬になりそうな野草を引っ張り出して、調合とやらをしているらしい。まさか、適当に採っていったら「こんなもの集めて、あたしもあなたも怪我する時はいつになるかしらね?」と皮肉られた野草が役に立つ時が来るとは。
俺にできることはもうなくなってしまったので、とりあえず小熊の様子を見ていることにした。
動物というのは熊に限らず、人間でさえも、子供には親が一緒になって行動するものだと思うけれど、小熊の近くで親熊の姿を見つけることができなかった。親がいないということは生き物である以上ないだろうし、まさかライオンの親子よろしく、親熊が小熊を崖から突き落としたということもあるまい。あれは、ここ数日に降った雨のせいで崖が崩れやすくなっていただけだろう。
とりあえず、今は小熊の怪我を治療することが最優先だ。
二週間後、俺は再び背中に小熊を乗せて、山の上を飛行していた。今日は飛行機ではなくヘリコプター程度の速度で、山をぐるりと一周するようなルートだ。
小熊の容体も幾分良くなったということで、俺たちは小熊の親探しを行っていた。
「そっちにはいた?」
全然、と首を横に振る。お互いに収穫なしということらしい。
「まいったわね……巣に篭っているのかしら?」
「それじゃあ、俺たちには見つけられないんじゃないか?」
もしかしたら、小熊なら場所が分かるかもしれないが、今はまだ歩かせるには心許ないし、一匹で戻れるという保証もないので、小熊を自発的に帰す、というのは積極的に採用できる案ではなかった。
「仕方ない。少し休みましょうか」
地面をちょいちょい、と指差して降下のサイン。
「んじゃ、ここらで昼飯かな」
たしか、この辺りは以前来たことがある川の近くだ。今日の昼飯は川魚だろう。小熊もいるので、鮭でも捕れれば上出来だ。
地上に降りて作業分担。雪女は川へ入り、いつも通りつららで魚を捕っていく。俺にはできない芸当だし、なんとなく雪女に火を使わせるのが許せなかったので、俺は火起こし担当だ。小熊を下ろして近くに座らせると、適当な木の枝を集め、渡されていたライターで火を点ける。
「ほら、捕ってきたわよ」
仕事もなくぼんやりと焚火の火を見ていると、雪女が大量の魚を担いできた。今日は小熊の分もあるので、その量はいつもの三倍はある。俺や雪女とは比べものにならないほど食べるので、食料の消費速度は格段に増した。やっぱり小熊でも熊なんだなあと、感心してしまう。
手ごろな木の枝で魚を串刺しにし、地面に刺して焚火で炙る。小熊は生のままでも食べるので、さっさと魚にかぶりついていた。別に鮭でなくてもいいらしい。野性味溢れるその食べ方は、動物園じゃなかなか見ることができないだろうな。
「しかし、本当にこいつの親熊は見つかるのか?ざっと見ただけでも、ここはかなり大きい山だろ」
「そうねえ……そう簡単に見つけることは難しいかも。その時は熊用の部屋でも作って、うちで育てるしかないんじゃない?」
「そりゃあ骨が折れそうだ」
そう言って、小熊の方をちらりと見た。小熊は我関せずといった様子で、魚の山を一心不乱に食べ散らかしていた。
「なあ、今さらだけど、どうしてこの熊を助けたんだ?」
まだくべてない枝を一本拾い、魚に夢中になっている小熊を軽くつついてみた。少しくすぐったそうにしてから、予想以上に強い力で枝を弾かれた。食事の邪魔をするなということだろう。
「そりゃあ、人間との約束があるからね」
「それは『人間の為に』ってことじゃないのか?熊にまで手を焼く必要はなかったと思うんだが」
それも、あんなに必死になって。
「なーに言ってんの。怪我した子供が倒れてたら、人間だろうが熊だろうが関係なしに助けるでしょ、普通。それに、あなただって必死に手伝ってくれたじゃない」
そう言って、雪女は余っていた木の枝を焚火にくべた。火は、より勢いを増す。
「それで納得しないなら、母性ってことで片づけておきなさい。あたしの溢れんばかりの母性が、傷ついた小熊を助けるように駆り立てた、ってね」
「母性……ね」
男の俺からすると、理解できない領域なのかもしれない。それとも、雪女になれば少しは分かるのだろうか。
「さあね。あたしは元々女だったから知らないけど。それに、雪女になる前から母性ってのはそれなりに持ち合わせていたと思うし。こう見えても、子供だっていたんだからね」
「…………え?」
もう何度目かもわからない、衝撃の事実だった。
「本当に?」
「本当よ。と言っても、とっくの昔の話だから、今はもう死んじゃってると思うけどね」
そう言って、雪女はもう一度枝をくべる。必要以上に火は燃え上がり、炎となって周りの魚を包み込む。
「思うって……会ってないのか?」
「雪女になってしばらくしてから、一度だけ会いに行ったわ。怖がられて、気が狂ったみたいにビービー泣き叫ばれた。旦那には『命だけは取らないでくれ』って涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした顔で土下座して懇願されたし、なにより別の人が『お母さん』として家にいたから、仕方なく帰ってきちゃった。あなたも、家族に会いに行くのはお勧めしないわよ。あ、雪女になるならの話だけど」
「……………………」
「まあ、最近はあたしのおかげで雪女の評判も悪くないみたいだから、もしかしたら歓迎パーティなんて開いてくれるかも。その時はあたしに感謝してよね」
そう言うと雪女は、ふふ、と力なく笑った。炎に照らされたその横顔は、少しだけ人間らしく見えたような気がした。
「「ごちそうさまでした」」
せっかくの新鮮な魚だったけれど、あまり美味しいとは感じられなかった。それは、黒こげになってしまったこと以外にも理由があったのだろう。
雪女が火や煤の後片付けをしているうちに、俺は小熊を連れて行くために辺りを見渡した。小熊は、俺たちの何倍もの量を食べていたくせに、さっさと食べ終わって少し離れた日向で寝転がっていた。近くまで行って両手を掴み、その大きな体を背中に回すと、ずしりと重たい感覚が体全体にのしかかる。
「お前なあ、少し食べすぎじゃないか?背負って飛ぶ俺の身にもなれよ」
よほど食べたのか、さっきの何倍も重く感じる。これを背負って飛ぶのは随分と骨が折れそうだ。
「さ、行くわよ。小熊忘れないようにねー」
「おう。準備ばっちりだぞー」
そう言って、軽いステップで雪女の所まで飛んでいく。我ながら上手くなったもんだ。
「何してるの?早く小熊を連れて行きなさいよ」
そんな俺の軽やかなステップをよそに、雪女は訝しげな視線を送る。ほら、と指を差した先には一匹の見慣れた小熊。
「…………ん?」
俺は首を精一杯後ろへ回し、そこに何があるのかを確認した。やはり、愛くるしいとはお世辞にも言えない、毛むくじゃらの顔面があった。重量感もあるので、幻覚の類ではないだろう。
「グググ……」
鼻先で熊による低い唸り声が響き、生暖かい風が顔面を覆う。最近は雪女の涼しげな風しか感じていなかったから、それなりに不快だった。
「え?それって……」
雪女も唸り声で気づいたのか、俺の体を迂回するようにして体を伸ばし、背後を見る。驚いた表情をしたので、これが実在するものだという確信がより一層深まる。
「……だよなあ」
熊を背中から下ろすと、のっしりとした足取りで小熊に近づいて行った。
親熊が二、三回小熊の顔を舐めると、小熊は甘えるように全身を親熊に擦りつけた。しばらくそんなことを続けた後に、二匹は振り返りもせず茂みの奥へと消えてしまった。
「これで良かった……よな」
「ええ、当たり前じゃない。じゃあ、用事も済んだし帰りましょうか」
答えるよりも早く、雪女は空中にふわりと浮いた。そのまま飛んで行ってしまうのを、着物の裾を捕えることでなんとか阻止する。
「何かしら?」
雪女特有の冷たい視線が、全身を突き刺す。しかし、その目はいつもより寂しげなように感じたのは、俺自身が少し寂しかったからだろうか。
「いや……俺って、まだそんなに上手く飛べないだろ?」
「そうかしら?もう充分飛べていると思うけれど」
雪女の言葉は無視して、続ける。
「で、今日はずっと小熊を乗せて飛んでたから、力加減が思い出せなくてさ」
「……それで?」
「バランスを取るために、俺の背中に乗ってくれないか?」
「………………あたしは小熊くらい重い、ってことかしら?」
そう口では言うものの、雪女は俺の背中に回り、首に両腕を回してくれた。そしてそのまま静かに体を預ける。
「さ、早く帰りましょ」
新雪のように軽いその体は、少しだけ温かく感じられた。




