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「初日の出が見たい」
埃とゴミが部屋の半分以上を占める廃墟のような部室の中で、誰かがそう言いだした。町はすっかり雪化粧を済ませ、後はサンタと正月を迎えるのみとなった頃だった。
部室の中には、俺を含めて五人の男がいた。部屋で唯一の暖房器具である軟弱な馬力のストーブを取り囲むようにして、ゲームをしたり漫画を読んだりと、年末特有ののんびりとした雰囲気が部屋全体に蔓延していた。
「はあ?」
それに応えるように、別の誰かが声を上げた。手元の携帯から視線も離さず、反射的に聞き返しただけのようだった。
「いや、せっかくの登山部じゃん?どうせなら山頂で初日の出見ようぜ」
言い出しっぺの男の言うように、この部室はとある大学の登山部の部室で、俺たち五人はその登山部の部員だった。
しかし登山部とは名ばかりで、実際に山に登ったのは入部してからの三年間でたったの二回。それ以外の時はこの薄汚い部室で、ドブネズミのごとくコソコソと集まっては遊び呆けていて、とても登山部と呼べるような集まりではなかった。入部した時に買った登山用の道具の数々は、今やゴミの山の一部と同化してしまっている。
「何で今更?」
更に別の誰かが、読んでいた漫画から顔を上げて聞いた。提案した男は腕を組んで少し悩んだ後「なんとなく」と答えて笑った。
「俺は行きたくねーよ。面倒だし」
「ってか、道具とかもう使えないんじゃないの?」
粗大ゴミ寸前のスーファミで対戦していた二人が、画面を向いたまま気だるそうな表情で不満の声漏らした。
「そうか?俺は別に行ってもいいけど。たまには登山部らしいことするのも悪くないんじゃね」
意外にも、賛成する声が一人挙がった。これで意見は二対二。拮抗している状態だ。
俺たちの集まりでは、意見が分かれた時は多数決で決めるようにしている。つまり、最後に残った俺の意見でどちらになるかが決まる訳だ。気が付けば、軟弱ストーブよりも熱い視線が四人分、俺に向けられていた。
「俺は――――」
来たる十二月三十一日。少し早い昼食(大晦日らしく年越しそばだった)を食べ終えた俺たちは、国内でも少し名の知れた地元の山を、一列になってえんやこらえんやこらと登っていた。
「クソ寒いじゃねえか!誰だ初日の出見ようなんて言った奴は!」
山には、一昨日降った雪がたんまりと残っていた。今日は運良く快晴だったが、その雪のせいで、完全防寒で臨んだにも関わらず、手足の先から体の芯まですっかりと冷え切ってしまっていた。いっそ大雪でも降って、中止にでもなれば幸せだったかもしれない。それなら今頃は、あの部室で年末特番でも見ながらのんびりしていただろう。この場にいる全員がそんなことを思っているはずだ。
「うるせえ!誰が一番大変だと思ってんだ!さっさと登れ!」
怒鳴り声に怒鳴り声で返したのは、他でもない俺自身だった。俺は一列に並んだ隊列の先頭を歩かされていたからだ。理由は単純で、五人の中では俺が一番背が高く、風避けに最適だからという理由だった。ジャンケンで決めようと言った俺の言葉も無視して、非情なる友人どもは無理やり俺を先頭にして登山を開始したのだ。
「山頂まであとどのくらい?」
後ろからの声に応えるため、俺は軽く腕をまくって時計を見た。液晶画面に表示された数字は、既に出発から四時間後の時間を示していた。感覚としては四日くらいは歩いているような気がする。
「おい、こんなんで山頂に着くのか?全然進んでねーじゃねーか」
前に進んでいることは進んでいるのだろうが、延々と続く白い山道と変わり映えのない木々のせいで、全く進んでいる気がしない。
初めて山に登った時は、雪解けの終わった春の頃だった。その時は見たこともない鳥や花を見ながらの登山で、先輩の後ろに付いていくだけだったから楽だったし、楽しかった。
今日のはただの苦行でしかない。雪山をただひたすらに登っていくなんて、修行僧か何かが心の鍛錬のためにやることだ。せめて、この苦労に見合うだけの初日の出が見れればいいけれど。
「仕方ない。登るしかないだろ!」
「おいおい、雪降ってきたぞ……」
怒鳴る気力もなくなり、誰もが無言でただ足を動かす機械と化してからしばらくして。唯一の救いだった澄み切った青空はいつの間にか影を潜め、一昨日のように真っ白な雪が強風に乗って俺たちに襲いかかった。
事前に調べた天気予報では一日中快晴で、初日の出もバッチリ見えると天気予報のお姉さんが太陽のような笑顔で話していたが、どうやら外れたらしい。そう言えば、その後にやっていた星座占いでは最下位だったような。ラッキーアイテムは派手な色のスニーカーだった。残念ながら、今日は黒い無骨な登山靴だ。
それでも前へ前へと歩を進めていたが、次第に手足の感覚も鈍くなり、顔面にさえ雪が積もり始めた。精々、標高数百メートル程度の山に登っているだけなのに、エベレストにでも登っているような気分だ。
脳内には、『遭難』の二文字が駆け巡っていた。俺の足が動かなくなればなるほど、その言葉はより元気良くはしゃいで脳内を動き回る。さすがに心が折れそうになった俺は、四人に引き返すかどうかの多数決を取ろうと後ろを振り返った。
そこには、雪と、森と、一人分の足跡と、絶望がセットメニューになって用意されていた。メニュー表に書かれているのはそれだけで、サイドメニューの『友人』四ピースはどこにも書かれていない。
「おい……?」
状況が全く把握できず、俺はその場に立ち尽くした。目を凝らして見てもそこには誰ひとりとして存在せず、風と雪だけが視界に変化をもたらしている。
「マジですか」
さっきから後ろが静かだと思っていたら、いつの間にか後ろの四人がはぐれていた。いや、いつものように多数決的に考えると俺がはぐれたことになるのか。どっちにしても、危険な状況には変わりない。これはひょっとすると、年明け早々ローカルなニュース番組で『大晦日に遭難の大学生、奇跡的に下山』なんてテロップと共に報道されてしまうかもしれない。いや、それならまだ良い方で、下手をしたらこのまま無事に正月を迎えられない可能性だってある。
「どうすりゃいいんだよ……」
携帯電話なんて通じないような山の中だ。ライターがあるから狼煙でも上げようかと思ったが、この強風じゃかき消される。偶然登山者が通りかからないかとも思ったけれど、こんな山の中を歩いて来る人なんていないだろうし、いたとしてもそれは俺と同じ遭難者だろう。遭難した時はどうすればいいんだっけ?動くか?留まるか?今更ながら、真面目に登山部として活動していないかったことが悔やまれる。
とりあえず、凍える足を引きずってでもここから動くことにした。この場所じゃあ、とてもじゃないが風と雪に耐えられない。せめて、風でも凌げる横穴でもあればいいのだけれど。
――タン
「…………?」
轟々と、腹の底から響くような風の間をすり抜けて、何か別の物音が聞こえた……気がする。何か懐かしいような、それでいて新鮮味のあるような、そんな音だ。
――タン、タン、タン
今度は確実に、しかも三回聞こえた。もしかしたら、仲間の誰かが探しに来てくれたのかもしれない。淡い期待を胸に抱き、俺は音のする方へと向かった。
結果としては、『絶望』単品の追加オーダーとなった。音の発信源に近づいて行けば行くほど音は大きくなったが、しばらくして俺の視界に現れたのは、底も見えないような暗い谷だった。辺り一面白銀の世界から抜け出し、久々に見た別の色だったけれど、嬉しいなんて微塵も感じられなかった。
「あ、あ……」
茫然としてその場に立ち尽くし、ただ谷を見下ろしていた。ただでさえ雪で足が滑りやすくなっているのに、こんな所に一秒でも長く居座るべきではない。頭では分かっているけれど、体は少しも動こうとはしなかった。もしかすると、体はとっくに限界で、もう諦めてここから飛び降りろと言っているのかもしれない。そんな気弱な考えが、頭の片隅に生まれてくる。
「死んで……たまるかよお!」
絞りかすのような力をかき集め、自分自身を鼓舞するように大声を上げて両足に残りの力全てを集約した。今度が駄目でも次に掛ければいい。俺には、こんな所では死んでいられない、どうしても生きて帰らなければならない理由がある。
正月を目の前にして、大好物である栗きんとんを食べずに死ぬのだけは避けたかったのだ。このまま栗きんとんを食べずにいたら、死んでも死にきれないだろう。どうせ死ぬなら、せめてもう一度だけでも、あの甘さを味わってから死にたいと思う。
しかし俺のその心意気は、オセロの白と黒のようにあっさりと覆されてしまった。
ちょん、と指先で軽くつつくような風が、背負っていたリュック越しに俺の背中を押したのだ。さほど強い風でもないのにも関わらず、絶妙な力加減のその風は、俺を真っ白な雪の中から連れ出して、光も届かぬ暗い谷底へ招待したのだった。




