イマ
カレンダーを見ると、今日は三月十五日。
この三月。卒業してから大学入学までの一か月弱、おそらく俺の今後の人生の中で最も暇な時間。
掃除でもしようと思い立ったのは、季節の変わり目だからだろうか。新しい季節、生活の始まり。なんだか気後れする。それをすこしでも紛らわそうと、部屋の掃除なんて柄にもないことをしようと思ったのかもしれない。雑巾を持ち出して、彷徨うように自室の棚だとか机だとかを拭いてまわった。
ふと、甘い匂いが鼻をくすぐった気がした。見回すと、ベランダに面する窓が開いている。白いレースのカーテンが膨らんで躍った。花粉が入るのを気にして閉めようと近寄ると、ベランダの欄干の下に、梅の花が見えた。この部屋はマンションの二階だから地面が近い。甘い香りは梅の匂いだったのか。
何というわけもなく梅の花を見つめた。白い梅だ。枝に乗っかるようにして咲くそれらは、雪のように見えた。雪の季節が終わって咲くこの花は、不思議と雪に似ている。季節を惜しむような花の姿が、俺の心をそっと撫でた気がした。
自室の引き出しの中を整理しようとして、机の横にある引き出しの一番下を開けた。位置的に使い勝手が悪く、普段は滅多に開けない場所だ。中に入っていた文房具や古いプリントを捨てようと掻き分けると、藁半紙の群れには馴染まない薄桃色の小綺麗な封筒が出てきた。手に取って裏返すと、久しぶりに見る名前が女性的な丸文字で記されていた。
「神崎桜子」
俺が中学のころに付き合っていた少女の名前だった。黒髪色白で大人しく、黒目がちな瞳が可愛らしい、当時それなりにクラスで人気のある子だった。俺たちは出席番号が近く、学校行事や課外活動で接する機会が多かったからか、よく話す仲になり、メールし始めてしばらくして付き合うことになった。俺から告白した。友達に何度ものろけた。だが受験勉強が始まると自然と疎遠になって、すれ違うことも多くなって、水に落とした絵具が薄まっていくように、俺たちの仲はあやふやなものになって行って、どちらが言い出すともなく、別れた。どこにでも転がっているような話だ。寂しくはあったが、もう飽きてしまっていたのか、さほど悲しくはなかった。ああ、恋なんてこんなものかと思ったのを覚えている。高校は別々となり、以来、連絡をとっていない。
そんな女の名前が書かれた封筒。中には、これまた可愛らしい、洒落た柄の紙が入っている。手紙だろう。読んでみると、どうやらバレンタインデーの菓子に添えられていた手紙のようだった。文の最後に、次のデートの日時と場所が提案されている。俺の記憶では、このデートは桜子の親戚の法事が入ったとかで中止になったはずだ。実行されなかったデート。
気が付けば、桜子とのことを思い出していた。キスまではした。初めての相手だった。桜子の緊張した表情をおぼろげながら覚えている気がする。あるいはただの想像のような気もした。
あいつは今、どうしているのだろう。
三年前歩調を合わせた彼女は今、どんな時間を歩んでいるのだろうか。
俺は、高校の卒業式以来、自分が周囲の時間に置いて行かれているような気がしていた。俺の通った高校は進学校だったから、多くが大学へ進学するか、浪人した。高校の授業や部活動といった「共有される時間」が過ぎ去って、それぞれが新しい個々の時間を持つ。一週間前に、無理やり「個の時間」を握らされた。俺も当然例外ではない。けれど、最近になってふと思うのだ。俺の時間って何だろう。どういう速さで進んでいるのだろう。そもそも時間は、主観的なものなのではないだろうか。つまり、一つの、長さの決まった時間をみんなが共有して生きているのではなく、それぞれがそれぞれの持つ固有の時間を観測していて、表面上それらが同じ尺になっているように見えるだけなのだ。楽しい時間は早く過ぎて、つまらない時間は遅く過ぎるように感じるのはただの感覚の問題ではなく、本当に時間が伸びたり縮んだりするということ。もしそうだとすれば、今の俺の時間は止まっている。大学に進学してからについては何のビジョンもないから、立ち止まっているのだ。どんな奴と出会うのか。どんな風に四年という時間を過ごすのか。どんな職に就くのか。見当もつかない。立ち止まった場所で、時間も止まっている。
だからかつて、固有であるはずの時間を二人で共有した桜子は今どんな時間の中にいるのか、気になった。
携帯のアドレス帳にはまだ桜子の電話番号とメールアドレスが残っている。けれど、連絡を取るのは気が引けた。気軽にメールを送るには、俺たちの間に開いた三年という月日は長過ぎるような気がした。まだ十八の俺には、それは人生の六分の一に相当してしまうのだから。
桜子の家の場所は分かる。訪れるつもりなどはないが、辺りをぶらついてみるのは良いかもしれない。少し様子が知りたいだけなのだ。二人で出かけようなんて、端から思ってはいない。
財布だけをジーンズのポケットにねじ込んで、俺は家を出た。マンションのエレベーターを降りてエントランスを出ると、家で嗅いだものより強く、甘い香りが漂っていた。このマンションは植え込みに梅がある。洋風の建物に似合わないそれらは、元の土地所有者がどうしても残してくれと、建設業者に頼んだために残されたらしい。
温み始めた風が頬を撫でた。同時に、梅の花びらが泳いで、力尽きるようにアスファルトに身を委ねた。
桜子の家は学区のはずれにあって、俺の家からは近くない。一度駅まで出て、ロータリーから出るバスに乗らねばならない。
駅まで歩く道すがら、数人、私服の同級生を見かけた。なにかから解放されたように無邪気に友達と笑い合っているやつ、一人で駅に向かう商店街を早足に抜けていくやつ。
「あれ、高木じゃん。なにしてるん」
と、俺のことを呼ぶ声が聞こえた。クラスメイトの宮田だった。仲が良くも、悪くもない。機会があれば話す、という程度の仲だった。
「ちょっと、買い物」
「へー。あ、駅前の本屋なら、閉店してたぜ、文学少年。じゃ、またな」
これから待ち合わせでもあるのか、宮田は駅の方へ、駆け足に俺を追い抜いて行った。
本屋、無くなったのか。知らなかった。少しずつ小さくなる宮田の背中を見つめた。俺のものとは異質な時間がそこにある。あいつは、これからどうするのだろう。大学に入って、テキトーなサークル見つけて、それなりに勉強して、新しい仲間を見つけて、恋人が出来て、苦労しながらもなんとか就職して……。どこまで、見つめているのだろう。白く霞んだ世界のなかで、目を凝らしながら一寸先に目を凝らして、次に来るものを予想しながら、手探りで進んでいくのだろうか。白い靄は、どこまで続くのだろう。どれだけ理解して、先を見るのだろう。目を瞑って、がむしゃらに疾走するやつは良い。誰になんと言われようと、それが出来るのは才能だ。
俺は、立ち止まる。自分の手先も見えない白い世界で、じっと目を細めて、足は踏み出さない。すると、次第に時間もゆっくりと流れて、やがて止まる。
隣を、人が追い抜いてゆく。梅の花びらが、転がってゆく。
二十分ほどバスに揺られたあと、俺は久方ぶりの風景の中にいた。無個性な真新しい住宅が碁盤の目のように並んでいる。付き合っていたころ、桜子の家には何度か足を運んだ。中学生男子にお決まりな淡い期待に心躍らせながら桜子の家に行くのだが、結局俺は手も言葉も出す踏ん切りがつかず、キス止まりだったけれど。
住宅街の中を縫うように歩く。行き交う人々は、まるでそういう演技を求められているかのように一様で、家と同じく無個性な気がした。不思議なことに、この辺りにも梅の木があった。纏わりつくような甘い匂いが、ここにも立ち込めていた。
どれほど歩いただろうか。何度か桜子の家の前を通過しながら、二十分かそこらはふらついただろうか。その間、桜子には会わなかった。もう少し粘ろうかと思って、ふと自分の行動に嫌気が差してきた。思えば、自分はストーカーのようである。なんだか決まりが悪くなって、俺は帰ることにした。桜子は、また駅などで見かけることもあるかも知れない。最初から、会話しようなどとは思っていなかったから、さして後ろ髪を引かれることもなかった。
バス停へ向かう。少し赤みを帯び始めた陽光に目をそばめながら、掃除中に見つけた手紙の文面を思い出していた。デートの待ち合わせ場所。一丁目公園、十一時。一丁目公園とは、この住宅街にある小さな、滑り台と砂場とベンチがあるだけの公園だ。宅地開発に伴って整備されたのだろう。あの日は、桜子の家に行く予定だったのだろうか。今ではもう分からなかった。
行って、みようかな。
なぜそう思ったのだろう。約束は三年以上前だ。郷愁に浸りたかったのだろうか。日の赤みが、そういう感傷的な気分にさせたのかもしれない。
次の角を曲がって、公園を目指した。
久しぶりに見る公園は、俺が中学生のころとほとんど変わっていなかった。ベンチと、砂場と、滑り台。小学生らしき少年が三人、自転車にまたがって話している。甲高い笑い声が、俺のいるところまで響いていた。俺にもあんな時代があったのかと思うと、不思議な感じがした。あのころはまだ、俺の時間は友達と一緒に進んでいた。
少年たちは自転車のペダルに足をかけ、漕ぎ出した。もう公園を出るつもりらしい。彼らの背を見送って、公園の中を見回した。
滑り台の陰が伸びて、ベンチのあるあたりを暗くしている。
ああ、なぜだろう。
そこに、いた。
見覚えのある黒髪。薄桃色のワンピースを着た、桜子、だった。
こんなこと、偶然でしかない。なぜか俺は、あまり驚きはしなかった。自分でも不可解なほど冷静だった。
話しかけようか。この状況に置かれて、そう思った。でも、足が出ない。言葉も思いつかない。そもそも桜子は、桜子の事情があってそこに座っているのだ。他の誰かとの待ち合わせかもしれない。その相手は、少なくとも俺ではない。見えないなにかが、俺たちの間に横たわっている気がした。
一陣、風が吹いて、梅の香りを運んだ。
その香りに、不安になる。
俺の現在。桜子の現在。三年前に分岐したそれは、イマ、何処にあるのか。
人は、止まってはいられない。手を伸ばしても、届かない先へ、引力に引かれるように、進んでいく。自分は今、どこにいるのか。その流れに乗れているのか。自分だけ、取り残されているんじゃないだろうか。
風の吹きぬけた先には、桜の木。つぼみが、しおらしくイマを待っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。感想いただけたら幸いです。批判的なのも受けとめます。
高校卒業記念に、これは書きました。
前の作品は連載中に受験勉強が始まってしまい、中途半端(一話だけ!笑)なことになってます…… 再開できるかは、未定。