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月がきれい

作者: 月光離宮

「月がきれいだな」

 空を見上げながら彼は誰に言うともなく呟いた。隣を歩いていた彼女が、目を見開いて彼を見つめる。

 その次の瞬間、吹き出してしまった。

「何なのいきなり? 夏目漱石?」

 彼が彼女を見下ろし、その言葉の意味に耳まで真っ赤にした。

「ち、違うよ! ただ本当に、今夜は月がきれいだと思ったんだよ!」

「なんだ、そうなの?」

 いつまでもクスクスと笑い続ける彼女を横目で見て、ブツブツと言い訳をしながら歩きつづける。


 戸建て住宅が建ち並ぶベッドタウン。もう寝静まろうとしているかのように、家々に灯る明かりは少なく、ふたりの足音が響く。街灯の疎らな道を歩きながら見上げる夜空には、青白く輝く満月が浮かんでいた。

 細い通りを左に曲がると、急にそこだけぽっかりと穴が空いたように、低い植え込みに囲われた公園が現れる。どちらからともなく公園に足を踏み入れ、象の形をした滑り台の横にある、小さなベンチに座った。


 公園の入り口に植えられた桜が、ひとつふたつ咲き始めていた。再来週には満開になるかもしれない。時折吹いてくる風に、柔らかい暖かさが混じる。

「寒い?」

「ううん、平気。この前まであんなに寒かったのにね」

 彼女の髪が小さく風に揺れる。月に照らされた横顔が、とてもきれいだった。

「だけど、本当にきれいな月ね。今夜って満月だっけ?」

「う~ん、丸いからそうなんじゃないか?」

「なんかアバウトねぇ」

 ふたりして月を見上げる。こんなに静かな時間を過ごすのは、何ヶ月ぶりだろう。ぼんやりと考えていると、左肩にふと重さを感じた。見ると彼女が肩にもたれかかっている。

「悪かったな、会えなくて」

 静かに呟くと、彼女は小さく首を振る。

「仕方がないよ、忙しいのはお互い様だもん」


 出会いは大学を卒業してすぐの頃。まだ少し学生気分の残る浮かれた時期だった。

 しかしそんな暢気な時間は数ヶ月もない。右も左も解らない新卒にとって、社会というのは想像以上に厳しいものだった。それこそ毎日先輩や上司に怒鳴られながら、必死になって働いた。それは彼女の方も同じだっただろう。いや、女である彼女の方が、彼以上に厳しかったのかもしれない。それでも、お互いに励まし合えたから頑張って来られた。彼の心には、いつも彼女の笑顔が寄り添っていたのだ。

 お互いに仕事を持っていると、なかなか都合は合わないものだ。片方が一段落した頃にはもう片方が忙しく、彼女の方が休みが取れるというと、彼の方は出張に出ないといけない。

 そんな日々に文句を言うでもなく、理解を示してくれる彼女に感謝しつつも、自分の思いが一方通行なのではないかと不安を感じ始めていた。


 一度気になりだすと、止めどなく不安は膨らんでくる。

 明日は土曜日。ふたりそろって休める久々の週末だ。

 だからというわけではないが、今夜はどうしても彼女の思いを確かめたかった。それで今週は、無謀とも言えるスケジュールで仕事を片付けて、彼女の時間に合わせた。


「仕事、忙しかったんじゃないの? あんまり無理すると倒れるわよ」

 静かに話す彼女の声は、心配しながらも少し咎めるような色を含む。

「大丈夫だよ。健康管理も仕事のうちって、入社1年目に先輩に言われたから。まぁ、決まって遅くまで飲みに連れ回された時に、だったけどね」

「それを、次は後輩に言ったりしてないでしょうね」

 そう言って彼女がクスリと笑う。

「今の若者は、先輩と飲みに行ったりしないよ」

 そう言うと、オヤジっぽいと言われた。こんな些細な会話が、たまらなく心地よく感じられる。確かに年を取ったのかもしれないと思える。


 今ではそれなりの肩書きも付いた。責任が増えた分、給料も少なからずは増えた。貯金も少しずつだが貯めていった。

 いろいろ逡巡しながら、今朝からずっとポケットへ突っ込んでいたものを握りしめる。大丈夫だ、うまくできる。どんな仕事だってこなしてきたんだ。そりゃ失敗も何度かはあったが……いや、今日のこれだけは失敗させられない。うん、大丈夫だ、大丈夫。


 黙り込んで微動だにしない彼を不思議に思い、彼女が声をかける。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

 彼女に覗き込むように見つめられると、ますます言葉を失いそうになる。

 男だろ、しゃんとしろ! 叱咤するように自分に言い聞かせ、大きく息を吸い込んだ。

 心臓がつぶれそうな緊張と共に彼女の方へ向き直り、真っ直ぐにその瞳を見つめて、ポケットからそれを取り出す。


「つ……、月がきれいですね! コレを受け取ってもらえませんか!」

 ぽかんとした彼女は、彼の顔と目の前に差し出された、少し角のつぶれかけた小箱を交互に見る。

 差し出されたものは、赤いリボンのかかった小さな箱。彼の心臓はこれ以上ないくらい早く鼓動を打っている。

 彼女の小さく震える手が差し出され、彼はその手の中に小箱を乗せた。

「こ……これ…………」

 言葉を無くした彼女が、じっと手の中の小箱を見つめる。 

 一瞬が永遠にも思えるほどの沈黙。何か言って欲しいと彼は切実に願っていた。コレは何だと問い詰めてくれてもよかった。なんなら笑い飛ばしてくれても良いとさえ思った。


 小さな公園のベンチに腰掛けたまま、黙っていた彼女がゆっくりと顔を上げる。

「開けてみても……いい?」

 彼が黙って頷く。彼女の震える指先がリボンをほどき、慎重に包み紙を広げ始めた。

 白いシンプルな箱の中、紺色のベルベットのケースを開くと、まるで今夜の夜空に輝く月のように、いや、それほど大きくはない。小さく瞬く星のような、可愛らしいダイヤモンドが月明かりを受けて輝いていた。

 息を呑んだ彼女が、じっと見つめている。

「受け取って、もらえるかな」

 沈黙に耐えきれず恐る恐る呟くと、彼女の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。

 小さく頷き、少し恥ずかしそうな笑顔を浮かべて、彼女がそっと呟いた。

「嬉しい……。じゃぁ、私からの返事。わたし死んでもいいわ。……だけど、ずっとおばあちゃんになってからね」

 彼が安堵したように柔らかく微笑んで、彼女の頬に手を添えそっと涙をぬぐう。


「これから、僕の一生をかけて君を守っていく。だから、君の一生をかけて僕を見守っていて欲しい」

 桜色に染まった彼女の頬を、春風がひとなでして通り過ぎた。

 空には、きれいな満月が浮かんでいた。

とてもきれいな月が出ていたのを見た夜

夏目漱石の”I Love Youの和訳”を思い出し

こんなプロポーズ素敵なんじゃない? と思ってしまいました。

しかし、とてつもなく恥ずかしいかもしれません。


何でもない日常の1シーンを切り取れたら…

そう思って書いてみました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 描写は良く、文章も読み易かったです。 [気になる点] プロポーズに至る想いを、もう少し描写されるとより良くなる気がいたします。 『出会いは』で始まる部分の説明に、二人のこれまでの気持ちが引…
2012/05/13 19:43 退会済み
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