プロローグ(1)
彼女に出会ったのは、秋の日の夕焼けが恐ろしく綺麗な日だった。
界隈の家々や木々や電柱はその全てが金色に染まり、正直、この世の終わりでも来たのかというような美しさだった。
その時の私は、ちょっとした飲み会があって、その会場へ行くためのバス停へ向かうところだったのだが、それで思わず立ち止ってしまった。バスの時間は気にかかったが、産まれてからの21年、こんな夕方の風景は一度も見たことがなかったので、しばし呆然とした時間を過ごした。
長く眺めていると、もうひとつ不思議なことが分かった。
西の空は鮮やかな金色なのだが、東の方向へ目を移していくにつれ、空は徐々に暗いトーンへと変貌し、鮮やかな紫色なのである。
金色の空と紫の空が同じ時間に、同じ空に同居している。それはちょっと形容し難い、神秘的な空間だった。
私は放心して、その空を見上げた。
その時だった。急にこの空間に似つかわしくない、犬のけたたましい泣き声が聞こえてきた。
私は折角の貴重な時間を邪魔されたことに内心で苛立ちながら、その方向に目を移した。
住宅街の向こうの細い道路から、ベージュのダッフルコートに身を包んだ、おそらく私と然程年齢は変わらないだろうと思われる一人の女性が、甚だしく狼狽してこちらへ走ってくるのが見えた。
そのすぐ後ろを何か小さな動物が走っている。先ほどからの泣き声は、どうやらこの犬らしい。
最近流行のトイプードルだろうか。首輪がされている。リードを握っているのは、無論、先を走っている女性である。何事か分からないのだが、犬は後ろへ向かって懸命に吠え立て、リードを握る女性は一心不乱にこちらへ走ってくる。
しかし、すぐにその理由は分かった。
追われているのである。最初、それに気付いた時には、私は噴き出しそうになった。彼女たちを追っているのは、猫だった。
白と茶色の縞模様の猫で、「シャーッ」と物凄い形相で、何度かトイプードルに攻撃を仕掛けながら、またすぐに一定の距離をとって、執拗に追い立てている。
猫に追われている犬、そして、その犬のリードを握って逃げ惑う女性。
先ほどまで見ていた優美で幻想的な空と、少しも釣り合わない滑稽な状況に、私はお腹を抱えて笑い出しそうになるのを必死に堪えた。
でも、追われている女性と犬の表情は真面目そのものである。
女性が私の姿を見留めて
「お願い、たすけてー」
と、悲鳴に似た声を上げた。
可笑しくて、しばらく見ておこうかと思ったのだが、それでさすがに可哀想になって、手伝ってあげることにした。
私は、彼女たちが私のそばまで逃げてきたのを見計らって、猫に蹴りを食らわせた。
猫は後ろざまに飛び跳ねて、その私の攻撃をかわす。
ここまでは、想定内。異変はその後に起こった。
一瞬ひるんだ猫に、これぞ好機と思ったものか、トイプードルが猫に攻撃を仕掛けたのである。猫はすばやく攻撃をかわし、私の足の周りを旋回した。それを追うトイプードル。そのおかげで、あっという間に私の足は、トイプードルのリードで縛られてしまった。
私は足の自由が利かなくなって、前につんのめってこけそうになった。その時、予想もしていなかった、最後の一撃が来た。
追いつきそうになって、猫にいよいよ噛み付こうと口を開いたトイプードルの牙が、すんでのところで猫にかわされ、その牙が私の足に喰らいついたのである。
「痛ってー!!」
大声を上げて、ついに私はすっ転んでしまった。その拍子に、猫はサッと近くの塀に飛び乗り、あっという間にその向こうへと姿を消した。トイプードルはなおも興奮して、ワンワンと激しくそちらを吠え立てている。
私はかたわらでわめき散らかすトイプードルを、思い切り殴りつけたい衝動に駆られた。だが、自分の犬でもないし、飼い主がそばにいるのでそうも行かない。
すると、当の飼い主がひどく狼狽した様子で
「ごめんなさい、大丈夫ですかぁ?」
心配そうな声を上げ、私の傍らにしゃがみこんできた。
「あ、ああ、大丈夫だよ」
私は笑顔で言った。先ほどから薄々気付いていたのだが、その女性はかなり私の好みのタイプだった。無理に格好をつけて、気安い声を出してみた。
しかし、噛まれた部分は意外にズキズキとしている。
「ちょっと、ごめんなさい」
彼女はそう言うなり、私の噛まれた部分のズボンを捲くり上げた。
靴下に血がにじんでいた。彼女はその靴下をも下ろした。
内心、私はビックリした。この女性、どうやらかなり大胆な性格らしい。こんな状況になったとは言え、なかなか初対面の異性にここまで堂々とした対応はとれない。
しかし、彼女はそんな私の内心の動揺に気付く風もなく
「たいへん!」
と、大声で叫んで、私を見た。
その上目遣いが私をドキリとさせる。細面の白い顔が、心配そうに曇っている。おかげで痛みはまるでマヒしてしまった。
傷に目をやると、確かに、犬歯の後なのか、綺麗に二つ穴が開いていて血が出ていた。血は多少ショックだったが、私の見たところ、そう気にするようなものでもない。
「大丈夫だから、とりあえずリードをほどいてくれる?」
私がそう言うと、彼女は小さく「あっ」と叫んで
「ごめんなさ~い」
と、胸の辺りまで垂れ下がった髪を揺らしながら、一旦、首輪からリードを外し、素早くリードだけを私の足からするりと抜き取ってくれた。手際の良さとは裏腹に、表情は恥ずかしそうにモジモジとしている。それがまた可愛い。
こういう時、同じ年頃の男なら、キッカケとして使うのだろうが、私はその点まるでダメである。
「ありがとう」
と、お礼を言って立ち上がると、膝とお尻の汚れをはたいて、彼女に背を向け、バス停へと歩き始めた。
すると、意外なことが起きた。
彼女が私の前に回りこんで、「ダメです」と、手を広げたのである。
「え?何が…??」
「だって、怪我してるじゃないですか!病院へ行きましょう。私、付き添いますから」
「いや、大した事ないよ。普通に歩けるし」
「ダメですって、血も出てるし」
「これくらい平気だよ。あとでカットバンでも貼っておくから」
「えー、でも何かの菌が入って腫れたりしたら…」
彼女が困ったような表情で私を見つめた。
「あ、じゃあ、せめてウチへ来てください」
何か思いついたように、彼女が続ける。
「とりあえず、消毒だけでもさせてください。カットバンもありますから」
「うーん」
私は思案した。実はさっき血を見た時から、(ジーンズに血がついたら嫌だな~?)と、貧乏たらしい悩みが頭をもたげていたのである。
結局、私は彼女の言葉に従うことにした。
飲み会に行くのはやめにした。