諦観の彼女と名前のない猫
1
「あのー、すみませーん」
「はーい」
食器をおぼんにまとめ、ふきんでテーブルを拭いていたとき――入り口のほうから女の人の声が聞こえてきた。俺は五秒でおぼんを中の流しまで持っていき、Tシャツのすそで手を拭きながら、すぐに回れ右をして事務所入り口へと向かう。
両方のドアが外し取られて、完全に開け放たれた事務所入り口。そこには、不安そうに中をうかがっている大学生らしき女の人の姿があった。彼女は濡れた水着の上から白いTシャツだけをかぶっている格好で、中のピンクが透けて見えていた。足元はビーチサンダルのみで、若くて健康そうな肌が太陽の光にきらきらと輝いている。
ちなみに、彼女の足の横にはもっと若くて健康そうな小さい女の子の姿もあった。こちらは推定年齢三~五歳。Tシャツそのすそをギュッと握りしめて、いまにも泣きそうな顔をしている。どう見ても彼女の子供ではなかった。
「はーい、どうしましたー? 迷子さんですかー?」
声を出しながら近寄ると、女子大生らしき人は苦笑いを浮かべて迎えてくれた。
「はい。お母さん見つからないって泣いてたんで、連れて来ちゃいましたー」
「はーい、ありがとうございます。えーっと、どのへんにいらっしゃいました?」
尋ねると、その人は後ろを振り返って遠くの砂浜を指差して言う。
「あの、あそこの看板のあたりなんですけど……」
見えなくなるほど遠くまで続く砂浜には、一定の間隔を置いて二本足の看板がいくつも突き立てられている。
バーベキュー(日帰り) 大人一人300円 子供一人150円
テント一張り(一泊) 三人用以下2000円 四人用以上4000円
砂浜の照り返しがキツすぎるせいで目を細めないとよく見えないが――どうやら、こちらから三つ目の看板のことをいっているらしかった。
「あ、はい。わかりました。じゃあ放送でお知らせしてみます。ありがとうございます」
女子大生に背中を押されて、迷子の女の子は一歩前に出た。
俺は彼女の頭をなでて、以降、ここ――松尾海水浴場事務所で預かることにする。
改めて礼を言うと、女子大生は安心した顔になった。すぐにパタパタと太陽の下を駆けて、仲間のもとへと戻っていく。
残された俺は、いったん迷子の彼女を事務所カウンターの中へと案内し、椅子に座ってもらった。
不安げな眼差しの幼女を前に、どうやって名前を聞こうと思ったところで――後ろから声をかけられた。
「あらーん、また迷子さん?」
振り返ると、さっきの女子大生よりさらに若々しい女の子の姿があった。
身長百五十五センチ、Tシャツにハーフパンツでサンダル履き、ショートカットが似合う――俺の彼女でありバイト仲間でもある長野原アオが、目を輝かせて女の子の様子を覗きこんでいるのだ。
「あ、アオ。ちょっと、名前と歳と、どこから来たかとかそういうの聞いてあげてよ」
「うん、いいよ」
アオはカウンターの中まで入り、椅子に座って悲しげな表情をしている子供の前にしゃがみこんだ。視線の高さを合わせて、優しく手を取りながらひとつひとつ質問していく。
迷子の子の警戒心は、明らかに俺といるときより薄い。
「お父さんお母さんと一緒に来たの?」
「……うん」
「お名前、言える?」
「うぐっ……さいか。にしのさいか」
「お歳はいくつ?」
「……よんさい」
「えらいえらい。じゃあ、今日はどこから来たかわかるかな? おうちはどこにあるか」
「おうちは……おーさかのとこ」
アオは「この子えらい!」というような目で俺のほうを振り返った。自分の子でもないのに、なぜか鼻の穴をふくらませて自慢げだ。
「まあ、確かにすごいけどさ……。んじゃまあ、マイクお願い」
俺は事務所の壁際に設置されている放送用機器の電源を入れて、マイクをアオに渡した。
「え~、私がやるの?」
「うん、こういうのは女の子の声のほうがいいんだよ。ね?」
さいかちゃんにも尋ねると、彼女はわけも分からず涙目のまま頷いてくれた。
アオは「じゃあ仕方ないか」といって、マイクを受け取る。
「大丈夫だからね。お母さん、すぐに迎えに来てくれるから」
にしのさいかちゃんの肩に手を置きながら、手元のスイッチをオンする。何度かマイクの頭を叩いて音を確認し、口を開く。
「えー、大阪からお越しの西野さん。大阪からお越しの西野さん。さいかちゃんが松尾海水浴場事務所にてお待ちです。至急、松尾海水浴場事務所までお越しください」
そこまで言うと、アオはマイクに手をかぶせて、さいかちゃんの口元に持っていった。
「ほら、お母さん聞いてると思うから、なにかひと言どうぞ」
マイクの頭から手を離して、さいかちゃんの肩を叩く。
「お母さんが聞いてる」その言葉がさいかちゃんの心に火をつけたのか、彼女は一気に感情を高めた様子だった。
「……おがっ、おがっ、おがっ――ひぐっ……うぐっ――おが、おがあざーーーーーーーーーーーーん! うえーーーーーーーーーーーーーーん!」
浜辺一帯に、子供の叫び声が大音量で流される。
海側の窓と戸はすべてが外されていて、食堂、売店、事務所を兼ねる平屋の建物からは浜の様子が一望できた。水着で海に入っている家族連れが、砂浜でビーチバレーを楽しんでいる高校生が、驚いた顔をして空高く設置されたスピーカーを見上げているのが、事務所カウンターの中からでも確認できる。
アオがマイクのスイッチをオフにして、さいかちゃんの頭を撫でた。
「これで大丈夫よ。きっとお母さんがすぐに迎えに来てくれるからね。あ、アイスクリーム食べる?」
さいかちゃんは途端に泣き止む。
「ここに座ってていいよ。ほら、この中、テレビもあるよ。扇風機も回していいし。すぐお母さん来るからね、ゆっくりしていって」
アオは矢継ぎ早にそう言って、さいかちゃんの頭を優しく撫でてから売店へ。
さいかちゃんは目に涙を浮かべてはいるが、もう泣いてはいなかった。
昔ながらの冷凍庫に手を突っこんで適当にアイスを選ぶと、アオはまたすぐに戻ってきた。ぐずっているさいかちゃんにアイスを手渡す。ガリガリ君だった。
さいかちゃんはまだ椅子に座りながらポロポロと涙をこぼしてはいるが、アイスの袋を眺めて、その足をブラブラさせはじめた。
大丈夫そうだった。
アオがこちらに向かって親指を立てている。
彼女の、唯一にして最大のクセだ。オールオッケーのサイン。なにかの映画でやっていたのを気に入って真似し、わざわざクセになるまで繰り返したのだという。
と、そのとき。売店のほうから「すみませーん」という声が聞こえてきた。お客さんだ。
「あ、目が離せないね。お母さん来るかもしれないし。じゃあコウジ、しばらくこの子お願い。私レジ行ってくる」
そう言って、またパタパタと駆けていってしまう。
結局俺は、事務所に残され――喜びと悲しみがない混ぜになったとても微妙な表情でアイスクリームを食べているさいかちゃんとともに、売店で客をさばくアオの姿を眺めたのだった。
今も彼女は元気そうに笑って、お客さんと会話をしている。ポテチを袋に詰めて、お金を受け取っている。古いレジを叩いて、おつりを出している。夏休みに海水浴場でバイトをしている大学生女子そのままの姿が、そこにあった。
とても「あと半年持たずに死ぬ」と宣告されている人間の姿だとは思えない。
客だって、笑顔で「ありがとう」などと言っている。目の前の女の子が、あと半年後にはこの世からいなくなることなど頭の片隅にもない。
けれど。
彼女は確実に死ぬのだ。いつかはわからないが、半年ほど経った「その日」に。
「…………」
ピーク時のにぎやかな海の家で、俺はとても不思議な気持ちになる。
まわりからは若い男女の笑い声、子供たちのはしゃぐ声などが聞こえてくる。波の音は絶えず繰り返し、その中には人がたてる水しぶきの音も混ざっている。セミの鳴き声も止まない。太陽は周囲のすべてを光り輝かせ、なにもかもが反射板と化している。そんなクーラーもなく、じっとしているだけで汗ばむ場所で――俺はまるで夢でも見ているかのような気分に陥ってしまうのだった。
あんなにかわいくて、あんなに笑って、あんなに輝いているのに。彼女は現代医学ではどうすることもできない病巣を、その身体の中にかかえているのだ。
だってそんなの、フィクションの中でだけのことかと思っていたのに。
そしてだ。
さらにひどいことには、自分はそんな彼女の恋人なのだ。おそらくは、最初で、最後の。
その事実は、ふわふわと落ち着かない気分を倍加させてくれた。
ふと隣を見れば、さっきまで泣いていたさいかちゃんがアイスを食べながら、じっと恋人の姿を見つめる俺の顔を見上げていた。
その目は「おにいさん大丈夫?」とでも言いたげで、少し気恥ずかしくなる。
けれどやっぱり。
もう一度、レジでくるくると働く彼女を見る。そして思うのだ。これは本当に、現実に、自分の身に起きていることなのかと。
あんなにもかわいい彼女ができただけでもびっくりなのに、その彼女は半年後にはいなくなって俺はまたひとりぼっちになるのだ。
何度も考えたことだけれど、やっぱりそれは、いまになっても――しっかりと頭に馴染ませることのできない事実なのだった。もう一年以上の付き合いになるのに……。家族ぐるみの付き合いだというのに……。おかしな話だとは思うけれど。
「はい、どうぞー。ありがとうございます」
袋の取っ手を客のほうに差し出して、笑顔のアオ。
ふいに声をかけられたのはそのときだった。
「あのぉ、すみません……」
申しわけなさそうな女性の声が、事務所入り口のほうから聞こえてきた。
俺の反応よりはやく、さいかちゃんがアイスを口から離し、椅子から飛び降りていた。そのままカウンターを出たかと思えば、自分からその女性の足にアタック。
「おがっ――あぐっ」
膝にアゴを強く打ちつけていた。危うく手にもったアイスを落としかける。
女性はそんなさいかちゃんの頭をなでながら笑い、申しわけなさそうに、こちらに向かって頭を下げるのだった。
三十歳前後だとおぼしき、まだかわいらしさを残した女性だった。どうやら確認するまでもなく、さいかちゃんの母親である様子。
彼女は自分の娘がアイスクリームを持っていることに気づいて、代金を支払うと言った。
「あ、いえいえ、結構です。大丈夫です。はい。ええ、お母さんに見つけてもらえてよかったです。はい。あ、それは僕のおやつの分なんで、お金はいりません。はい、はい。ええ、大丈夫です。はい」
気にしないでくださいと、何度も繰り返さなくてはならなかった。
お母さんは幾度となく感謝の言葉を口にしていた。
俺が「お気をつけて」と言うと、彼女はさいかちゃんの手を引いて、何度も振り返り頭を下げつつ、旦那さんが待つであろう砂浜へと消えいていくのだ。
さいかちゃんはもともと俺にはなんの興味もなかった様子で、姿が見えなくなるまで一度も振り返らなかった。手にもったアイスも、そのほとんどがおなかへと消えていた。
「あ、お母さん見つかったんだ。よかったねー」
気がつけば隣には、売店の客をさばき終わったアオが立っていた。
あと半年でこの世から消えるというのに、のんきに笑顔で「よかったね」なんて言っている場合かと俺は思うのだが……。
けれど彼女は、一片の曇りもない晴れやかな表情を浮かべているのだ。こうして見ると、本当になんの問題もなく、海水浴場でひと夏のバイトに精を出している女の子――としか思えないのだ、やはり。
今度は食堂のほうに水着姿のカップルがいるとわかると、すぐにアオは彼らのもとへと注文を聞きにいく。
「オススメはなにか」と聞かれて、「水がおいしいから、ぜんぶオススメ」だと受け答えしている。
――カップラーメンでも、家で食べるのとココで食べるのとはぜんぜん味が違うんですよ。
そういいながら、笑っている。そして、最終的にはカレーライスを強くアピールしていた。
アオは、俺の彼女は……あと半年でこの世から消えていなくなってしまうというのに――夏休みの海水浴場で、水着姿の客にカレーライスを薦めているのだ。
セミの鳴き声、人の笑い声、波の音。それらは渾然一体となって俺の思考をノイズで埋め尽くしていく。
そしてやっぱり俺は、どんな心の整理もつけられないままでいるしかないのだった。
2
昼間だけやっているタイプの海の家とは違い、松尾海水浴場は深夜まで営業する。持ち込みのテントや貸しテント、さらには浜辺に設置された十棟のバンガローで一泊していくお客さんも多いので、夜になってからも浜から人の姿が消えないのだ。
みんな昼間と同じ水着姿で、日に焼けた肌を夜風にさらしている。夕食に砂浜でバーベキューをしたり、二十人ほどが座れるうちの食堂でビール片手に騒いでいったり。
夜十時までなら花火もできるので、いまも星月の浮かんだ夜空には、色とりどりの光が打ち上げられている。さきほど売店で子供用花火セットを買っていった家族連れは、赤や緑や黄色の光しぶきに照らし出されて笑顔である。キャッキャッと飛び跳ねている女の子は、昼間の迷子の子だった。名前、なんだっけ。あ、そう、さいかちゃん。
予約のお客さんは全員がやってきて、もう事務仕事はなさそうだった。食堂もピークを過ぎて、いまは誰の姿もない。ぼちぼちと売店にものを買いに来るお客さんだけを気にしていればいい、落ち着いた時間帯。
俺は建物の浜側、食堂の延長みたいになっているベランダの、銀の灰皿が置かれたテーブルに頬づえをついていた。特になにを思うでもなく、動き回る花火の光を凝視する。
視線をずらすと、ドラマかどこかから切り取ってきたような、美しい夏の光景がどこまでも広がっていた。
キャンプ慣れしたお客さんのテントは、まわりがすごいことになっている。紐を張り巡らせ色とりどりのランタンをぶら下げて、ちょっとした夏祭りのよう。
遠くでは高校生の一団がキャンプファイアーに興じていた。うちで売った薪が、いい感じでオレンジの柱を立てている。まわりで人影が、どこの原住民だというようなダンスを踊っている。
波打ち際に、昼間の喧騒はない。けれどそこには、ポツポツと間隔を置いて何組かのカップルが肩を寄り添わせて体育座りをしているのだ。いったいどんな話をしているのやら。
「タエちゃん、うちらも花火していい?」
「ええよー」
アオが大声で叫ぶと、建物の奥からおばさんの声が返ってきた。厨房や流しのあるスペースもけっこう広くて、晩ご飯はみんなして中で食べるのだ。注文のないとき、タエちゃんはそこでタバコを吸っている。
タエちゃんというのはこの海水浴場のボスだ。まあ、女将さんみたいなもの。何十年もほとんど一人で、毎年変わるバイトの面々を使い、この広大な砂浜を管理している。
普段からガラの悪い若者の相手もしている名物女将だ。その懐の広さは雇用者だとは思えないほどである。休憩時には売店のお菓子やアイスも食え食えと言うし、商品の花火だって、やりたかったらやっていいと言う。
いいのかそれで。
でもまあ、おかげで俺とアオは二人揃って隣の県から住み込みでバイトに来ているというのに、毎日なんのストレスもなく楽しく働かせてもらっているのだが。
「やったー」
アオは、さいかちゃんと変わらない笑顔で売店の花火を物色しはじめた。
そしてドラゴン一つとトンボ数個、線香花火一袋を手に持ち、俺のところまで走ってくるのだ。
「おい、コケんなよ」
松尾海水浴場の建物は、砂浜より少し高い位置にある。砂浜とのあいだには五段ほどの石段があって――ドラゴンとトンボを消費して残すは線香花火だけとなった俺とアオは、二人してその中ほどに肩を寄せ合って座りこんでいた。
小さな袋を慎重に破り、束になった線香花火を平等に分け合う。
売店に並んでいた百円ライターのうち、一番オイルが少ないものを自分たち用に持ち出していた。それで俺は、線香花火の頭に火をつけていく。二人分。
するとすぐに、パチパチと細かい火花が飛び、飛んだあとから消えはじめた。ただでさえ夏の夜なのに、さらに一段と濃い「夏の匂い」が鼻腔いっぱいに広がっていく。
隣ではアオが、嬉しそうに線香花火に見いっている。その横顔は、とても儚げで――。
俺はついつい、いつもの言葉を繰り返してしまうのだった。
「なあ、やっぱダメなの?」
アオには、手術を受けて欲しい。なぜなら、少しでも長く生きることにはそれだけの価値があると思うから。
だから俺は、ことあるごとに彼女に手術を受けてくれとお願いをしてきたのだ。そしてそれは、俺だけじゃない。彼女の家族もそう。友達もそうだ。みんな、手術や入院の世話なんて負担でもなんでもないから、ちゃんとサポートするから、だから少しでも長く生きてはくれないか――。ずっとそうお願いしてきた。
「ダメってなにが?」
けれど、本人が「うん」と言わないのだ。
「なにがじゃないだろー」
「ああ、そっち系の話?」
首を縦に振らない理由。それは、コイツが長く生きればそれでいいというものでもないと考えているからだ。いまこうやってのんきにアルバイトなんぞをしていることがその証でもある。
「確かに、手術に成功すれば少しは長く生きられるね。でも、それでも長くて何年か、でしょ? 割に合わないんじゃないかと思うわけですよ。んでさ、しかもその何年かは、いまなんかよりずっと苦しくて大変なんだよ?」
「そりゃそうだけど……でも、おまえの気持ちはどうなんだよ。ちょっとでも長く生きていたいとは思わないのか?」
「うーん、どうせ苦しまなきゃいけないなら、生きてたくなんてないかな。しかも手術とか入院とかってオオゴトだからさ。まわりにいま以上に迷惑をかけることも目に見えてるし。いまだって結構なアレなのに……ほら、ねえ」
「ねえ、じゃねえよ……」
彼女は笑う。そして続ける。
「ん、ま……だったら、みんなに迷惑もかけず、自分も苦しむことなく、ただ自然に残された時間をめいいっぱい楽しんで、さくっと死んだほうがマシだ――って思うかな。あ、そうそう、うちのおじいちゃんも常々そう言っててさ、んでホントに最後はキレイに死んだからね。立つ鳥跡を濁さずっていうか――あれが一番いい死に方なんじゃないかって思うわけよ。やっぱり私も孫だからね、同じ感じなら最高かなと思ったりなんかして」
アオはそう言って、新しい線香花火を差し出してくる。
俺はその先にライターの火をかざしながら続けた。
「いや……あのな。九十越えたおじいちゃんの大往生と、まだ若いお前とでは全然事情が違ってくるだろ。事情っていうか、まわりの気持ちの部分が、根本的に。おまえ、ちょっとはそういうところも考慮に入れろよな……」
「いやあ、他人のケースを考慮に入れるんだったらさ……だったら余計に、だよ。余計に、私の人生はここで終わってもいいと思えるよ。だって、いままでこの地球上でさ、色んな人が無念の死を遂げていってるわけじゃん。その中で、こんなにも景色のいい場所で青春を送れた人間が何人いますかって話なんだから。そもそも十九になるまで生きられなかった人のほうが多いぐらいなんじゃない? 人類の歴史的には」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
「しかもこんな素敵な彼氏までいて。最後のひと夏、ずっと一緒に働けるんだよ? 夜は満点の星空の下で夜風に当たりながらアイス食べたりできるんだよ? 線香花火したりできるんだよ? タエちゃんの晩ご飯はおいしいんだよ? すごくない? 充分じゃない?」
「で、その彼氏が手術してくれって言ってるのはどうなんだよ。おまえのこと好きだから、少しでも長生きしてくれって思ってるのはどうなんだよ。『ったく、しゃーないなー、んならちょっくら応えてやろうか』とは思えないのか? 俺だけじゃないよ。家族の人たちだって友達だって、みんな少しでも長く生きて欲しいって思ってるのに……」
「うーん、でもさ、手術してもしなくても、どうせ私はいなくなるんだよ。うちの家族も、コウジも、友達も……私がいない人生のほうがはるかに長いわけで。一年や二年私の命が長持ちしてもさ、それでどうなるのって感じじゃない? もしコウジが八十まで生きるとしても、残り六十年私のいない人生が、残り五十八年私のいない人生になるだけでしょ。そういう考え方すれば、誤差みたいなもんじゃない? であるなら、早くその“私のいなくなったあとの生活”に慣れておいたほうがいいんじゃないかって思ったりするんだけど、こんなこと言ったら怒る?」
「怒る」
「ごめん。さすがにいまのは謝るけどさ。でもやっぱり重要なのは――その日その日、なんだと思うよ。瞬間瞬間、最後まで輝けたらそれでいいと思う。どう? いまの私イキイキしてない? 幸せそうじゃない? これよりも、入院して管いっぱい巻かれてベッドで横になってうんうん唸ってるほうがいい?」
「ちょ、そんな極端な例え出すなよ……。手術しても入院しても、楽しいことぐらいあるだろ。大切な人たちはみんなまわりにいるんだから。あと、管とか唸るとかないよ……たぶん」
「ま、それはそうかもね。あ、見て見て玉くっついた!」
まだまだ説得していたいという俺の気持ちも、彼女はあっさり流してしまう。二つの線香花火の先を融合させて、さらに大くした火玉に見とれている。
十九の女の子って、みんなこんなに達観しているものなのか? これが現代っ子ってやつか? なんて思う。まあ、自分も同い年だけれど。
でもホントに……。もうちょっと悩んだりしてくれてもいいのに。物語とかに出てくる病気がちな女の子は、たいていがひどく悩んでいるものだと思うが。表面上は明るく振舞ってるくせに、実は裏ではビービー泣いてたり。
でもコイツは、そんなこともまったくないのだ。夏休みに入ってから毎日、この建物の事務所奥・六畳間で布団を並べて寝ている俺だからわかることなのだが――コイツは表面的にも飄々としていれば、その実、内心でも飄々としているのだ。
悩んでくれるなら、まだ説得のしようもあるというもの。しかし、こんなにもすべてを受け入れている人間を、説得なんてできる奴がいるのかと思う。
彼女は明確に答えを出し切っているのだ。自分の中で。それを覆すのは容易ではない。
というか、信念レベルの答えなのだから、それを覆すにはこちらだって信念レベルの言葉が必要となるのだ。
なのに俺はまだ、彼女にぶつけるだけの信念も持てていない。いや「少しでも長生きすることはそれだけで素晴らしいことなんだ」というのは頭では理解している。口にも出せる。けれど、それが信念レベルかと聞かれれば辛いところなのだ。まあ、だからこそ、ずっと説得できずにいるのだろうけど……。
確かに彼女の言うことにも一理あると思える。俺だって反対の立場だったらそう言っていたのかもしれない。でも現実には俺は反対の立場でもないし、好きな女には少しでも長く生きていて欲しいと思ってしまうのだ。それがたとえ苦しい道であるにしてもだ。長期入院することになってもだ。見舞いなんて毎日行ってやる。病院に住んでもいいぐらいだ。少しでも長くコイツと一緒に生きていきたいのだ。
そう思うのは、エゴなのだろうか。ちがう。
だけど俺は、「じゃあエゴじゃなくてなんなんだ」と誰かに聞かれても、その答えを言語化することはできないのだ。心の中にはぼんやりと答えらしきものはあるが、ハッキリと掴み取ることができないままでいる。
時間が経つごとに、どんどんと説得に費やす時間は減っていく。説得に成功した後の時間も減っていく。このままではそのうち深刻な状況になっても、いまみたいに一緒にいてやることしかできなくなってしまう気がしてしまう。それはとても恐いことのように思えた。
「あっ、終わった」
線香花火が落下して燃え尽きた。アオは立ち上がり、ショートパンツのお尻をパンパンと叩いている。そして俺のほうを向いて、親指を立てるのだ。
オールオッケーのサイン。彼女的にはなんの問題もないという印だ。
これは本当に大丈夫だと思っているときにしかやらない。逆に、本当に大丈夫だと思っているときには、どんな小さなことに対してもやる仕草だ。
しかし俺は思う。いまはオールオッケーではないだろうと。おまえ一人で完結するなよと。
まあ、それさえをも言葉にすることができない俺なのだったが……。
3
夜も十時を過ぎると、タエちゃんは自分の家へと帰っていく。山側に歩いて五分ほどのところに、彼女の実家があるのだ。
泊まり客がいる以上、浜を無人にするわけにもいかない。だから、アルバイトの俺たち二人が、事務所奥にある六畳間で布団を並べて宿直をしている。
どうせ他に寝る場所もないのだ。しかも行き帰りの手間も省ける。これはこれで楽だと思えた。
昼間は開けっ放しにしてあったドアも窓も閉め、その上からシャッターを下ろしている。
食堂や売店など必要のない場所の電気を消し、部屋の明かりだけをつけていると――ワンルームで同棲しているのとほとんど変わらないことになる。
まるで新婚生活だった。
ちなみにこの建物に風呂はない。お客さん用の「二十四時間使えるコイン式のシャワー」が建物の外に設置されているので、俺たちもレジからコインを引っつかみ、毎日そこで身体を洗っているのだ。
そして。
アオはいま、新しいTシャツとショートパンツに身を包み、バスタオルで頭を拭いているところだった。すでに布団を敷いた上で、テレビを見ながら。
もう建物には自分たち二人しかいない。外からの視線も気にしなくていい。とりあえず俺は彼女に抱きついてみた。
「おわ」
クーラーのない生活にも慣れた。それほど暑いとも思わない。俺は彼女のしっとりとした肌を、ぎゅっと抱きしめ続ける。
アオは俺に抱きつかれながらも、頭をふきふきテレビに視線を送っている。
石鹸の匂いを鼻に吸いこむと、無性に愛情がこみ上げてきた。
「好きだ」
「あ、ちょっと待って、なんかおなかすかない?」
彼女は俺の手を振りほどいて、事務所を出て行く。サンダルをひっかけて、パタパタと売店に並んでいるカップラーメンの一つを手に取ると、今度は厨房手前のテーブルに行きポットのお湯を確かめている。
ビリビリとフタを開けて、真剣な表情でお湯を注ぎこんでいく。
その姿が本当に所帯じみていて、俺はなんだか吹き出してしまいそうになった。
やっぱり、俺は彼女に少しでも長く生きてもらいたいと思う。
が、現実はその流れに乗らない。どんどん逆方向へ流れていっている。そして俺はそのことについて、まだ心の整理ができていないのだった。
アオが食堂のテーブルから割り箸を一つくすねて、口にくわえた。
その姿を見ながら、いつか急にいなくなるんだろうな、コイツは……などと考える。
葬式とかやるんだろうか?
まあ、やるに決まってるんだけど……。でも、俺ってそれに出られるんだろうか……。
想像もつかない。自分がアオの葬式に出ている姿なんて。
葬式のあいだも、どこか人のいない場所で丸まって泣いているような気がする。彼氏なのに葬式にも出られないとか酷いと思うけど……正直、うまくやれる自信なんてない。
いまも俺はアオのことをどんどん好きになっていっている。そしてその分、恐怖は大きくなっていく。彼女を失ったときの混乱は、半端なものではなさそうだった。
アオがそろそろとすり足でこちらに向かってくる。畳の上にお箸でフタをしたカップラーメンを置くと、また売店へ行って今度はペットボトルのお茶を持ってくる。
「食べる?」
「一口だけ」
三分はまだ経っていないだろうけど、充分にほぐれたカップラーメンの最初の一口を、彼女に食べさせてもらった。
「あふい」
口を開けたままお茶を求めると、彼女は笑ってペットボトルのフタを回してくれた。
それから俺は、隣で夜食のカップラーメンを食べる彼女の姿をぼんやりと眺めていた。
いろいろ思う。いろいろ思うが、まあ……一番悪いのは、中途半端な気持ちのままコイツと一緒に過ごすことなんだろうなと思う。
どちらかにキッチリと心を決めて、迷わず進むことが肝要であって……そうすれば俺だって、葬式ぐらいは出られるんじゃないかと思うわけだ。
彼女は完全に白黒つけているのだから、だったら俺も彼女に合わせなくてはいけないんだろうけど……。
だけどやっぱり、こんなにもかわいらしい仕草でそばにいられてしまうと……。俺は好きだという気持ちが止められなくなるのだ。どうしても長い時間一緒にいたいと思ってしまう。どうしても生きていて欲しいと思ってしまうのだ。
「ずるずるずる……」
テレビを見ながら、ラーメンをすする彼女。その姿は、とても病気の女の子には見えない。
実際、彼女の病気は自覚症状もなければ、身体がおかしくなったりすることも比較的少ない。場合によっては身体が麻痺したり、言葉がしゃべれなくなったり、記憶を失ったりということもあるらしいが……彼女にはいまのところそういう症状は出ていない。本当に健康そのものという感じなのだ。
脳内の血管に血が詰まって、それが破裂するのを待っているような状態なのだという。
親戚の人が一人、同じ病気で亡くなっているけれど……彼女も突然だった。それまでは普通にスポーツもしていたし、健康そのものだった。けれどある日突然倒れて、もうそれっきり帰らぬ人となったのだ。その人も女の人で、ICUで意識のない彼女を、当時中学生だった俺はわけもわからずに見つめていた記憶がある。医者が言うには、「寿命」とのこと。彼女は二十四だった。寿命という言葉が当てはまるような歳ではもちろんないが、血管の詰まりがわかっていたとしても、手術で除去するのは困難な場所にあって――そういう意味での「寿命」なのだと、母親から説明されてようやく納得できたものだ。
アオも、全く同じ症状である。これが彼女の「寿命」なのだ。生まれたときから、脳内の血管に血が溜まりやすいことになっていたのだ。
そしていま、いつそれが破裂してもおかしくない。破裂したらそれはもう「くも膜下出血」ということで、親戚のあのお姉さんのように意識不明になってICUに行くだけだ。そこから奇跡的に回復する人もいるらしいが、確率は本当に低いもの。医者は、破裂したら終わりだと思ってくださいと言っている。だからまあ、そういうことなんだろうと思う。
一応手術ができないこともない。が、リスクは非常に高い。単純に奥まった場所に問題の血管があり、その周囲はすべてが重要な神経群なのだ。手術の際に少しでもまわりの組織を傷つければ、それだけで言葉が話せなくなったり、記憶がぶっとんだり、身体が動かせなくなってしまうことがあるとのこと。
しかも手術をしても、すぐに再発する可能性が高いというのだから――絶望以外のなにものでもない。完璧に手術を成功させても、また一年二年で同じような状態になる確率が高いのだ。そして、そうなれば次はさらに絶望的な状況が待っていることとなる。
それでも彼女の主治医は手術を成功させると言ってくれているし、まわりの人間も協力すると言っているのだが……。
彼女だけが早々に諦めてしまった。
早々に諦めて、残された時間を楽しく過ごすことに全力を傾けているのだ。わざわざ彼氏である俺を連れて住み込みのバイトに来ている時点で、その覚悟のほどもうかがえるというもの。迷いなど一切ないのだ。彼女はいまここで倒れてもいいと思っている――。
ラーメンを頬張りながら、不思議そうにこちらの顔を見つめ返してくる彼女。その無垢な瞳がたまらなくいとおしくなる。
俺は目に涙を浮かべながら、そんな彼女がカップラーメンを食べ終えるのを見守っていた。
食べ終わったアオが、残った汁を捨てに、また厨房のほうへとサンダルをつっかけて歩いていく。
その後姿もかわいいなあ……なんて思っていたときのことだった。
俺の視界のその中で、彼女は紐が切れた人形のように床に崩れ落ちたのだ。
汁の残ったカップラーメンの容器が前方に飛び、アオは派手な音を立てながら床板に身体を打ちつけていた。
その倒れ方は、まるでKOを食らったボクサーが前のめりに倒れていく感じで――完全に、床に伏せる前に意識が途切れた、危ない倒れ方だった。
一瞬だけ、呆けていた時間があったと思う。
けれどそのすぐあとには、俺は事務所の電話を取って救急車を呼んでいた。
サンダルも履かずに彼女のもとへと走り寄り、意識がないことと呼吸があることを確認。シャッターを開けてすぐに彼女を運び出せるようにした。
それからあとのことは、ほとんど覚えていない。とにかく必死で、常になにかをしていた。けれど、頭が真っ白だったんだ。その行為のうちどれだけが彼女の役に立ったのかは――まるで判断がつかない。
気がつけば救急車がやってきて、俺は隊員の人に自分の知っていることをすべて話していた。彼女の病気のこと、普段の様子のこと、ぜんぶ。
タエちゃんに電話をして、鍵もかけずに出てきたことを謝る。そうして、明日の朝には絶対に戻るので、今日はこちらにいさせてくれとお願いしておいた。
アオの実家にも連絡をした。お母さんが病院に来るとのこと。
病院についてからは、自分にできることなどなに一つとしてなかった。廊下の柔らかい椅子に座っていると、どっと疲れが押し寄せてきた。
看護師さんと必要なだけの話をして、そのまま横になったところまでは覚えている。その先はわからない。
ただ、朝になって、「アオは無事である」「命に別状はない」――ということを教えられて、そのまま松尾海水浴場までタクシーで帰ってきた。
そして次の日も、俺はいつも通りの仕事をこなしたのだ。
ヘルプとしてタエちゃんの友達である近所のオバサンがやってきてくれたので、彼女たちに中のことは任せて、自分は外回りの仕事に集中した。
敷地全体の掃除をして、バーベキューの客から代金を受け取り、車が来れば駐車スペースに誘導して、バンガローを掃除する。新しい予約のお客さんにテントの位置を決めてもらい、なにか困ったことがあれば道具を持って駆けつける。
「命に別状はない」――その言葉だけを信じて、「大丈夫だ」と自分に言い聞かせながら身体を動かし続けた。
そしてその日の夕方。ゴミ掃除を終わらせて事務所に戻ったときのことだ。俺は厨房手前のテーブルに座る長野原アオの姿を目にしていた。
「――ア、アオ?」
彼女はタエちゃんとヘルプのオバサン、二人と楽しそうに談笑していた。その手にはアイスクリームが握られていて、驚くほどにケロっとした表情である。
「あ、コウジお疲れー」
俺はあごが外れるほどに口を開けて、
「おい、おまえ、入院してなくて平気なのか?」
駆け寄ってそう言ってしまっていた。汚れた手のまま、彼女の背中に触ってしまう。
「うん、大丈夫大丈夫」
アオはそう言う。声には昨日までと同じハリがあった。それだけを聞いていれば大丈夫そうにも思えるのだが……。
「だ、大丈夫なわけないだろうが……」
「いや、大丈夫じゃなかったら病院が帰してくれないでしょうに」
そうなのだ。信じられないが、どうやら最悪の事態はすでに回避できている様子なのだった。
昨日倒れた原因は例の病気とは関係がなかったとでもいうのか? 俺には、彼女が立って歩いていることだけでも奇跡のように思えてしまうのだが……。
しかも、アオは明日からまた普通に働くと言うのである。
俺は愕然としてしまった。
つまり、どうやら――。
俺が思っている以上に、残された時間は少ないということなのだ。
病気のことは全部話した。救急車の中でも、病院についてからも。それでも、彼女がいまここにいるということ。その意味するところは――。
それはもう、本当に最後の最後だということなのだ。
なにをしたところでダメで、最後は好きな場所で好きなことをして「その瞬間」を待つ。そんなレベルにいるのだ。彼女は。
残された時間は少ない。本当に少ない。それを痛感する現実が、目の前に横たわっていた。
説得する時間どころか、うじうじと悩んでいる暇すらなかったのだ。俺たちには。
――ああ……なんてことだ……。
そうであるならば、俺の気持ちなんてねじ切るしかない。少しでも長く生きていて欲しいという思いには、ふたをするしかない。それはうめきながら床を転げまわっていいぐらいの心の痛さを運んできた。
だけどもう仕方ないんだ。説得は諦めるしかない。
――俺 が 看 取 る し か な い ん だ 。
そう思うと、危うくみんなの前で悲鳴をあげてしまいそうになる俺なのだった。
4
それからは、恐怖の毎日がはじまった。
いつまたアオが倒れるかもわからない。しかも、倒れたらそれで終わりかもしれない。次は帰ってこられないかもしれないのだ。
それなのに、アオは笑顔だ。
今日も元気に売店でものを売り、あちらからこちらへと駆け回っている。Tシャツにショートパンツ姿で。
気が気ではなかった。
事件が起こったのは夜だった。午後八時。まだタエちゃんも残っていて、それなりに客も動いていた時間帯のことだ。
俺は事務所のカウンターの中にいて、アオは売店の中で椅子に座っていた。特に忙しくもなく、ぼうっと細かい作業に精を出していたときのこと。
大学生ぐらいの女の子二人が、困り果てた顔をして事務所を尋ねてきたのだ。手にはなにやら濡れたビニール袋が握られている。
「あの……すいません。これなんですけど……」
「はい、どうしました?」
彼女たちがおずおずと差し出してきたもの。それは――その濡れたビニール袋そのものだった。
アオも気がついて、売店を出てこちらへやってくる。
「猫なんです……」
一人の女の子がそう言った。
「猫?」
俺がきょとんとしていると……その彼女は、ビニール袋の口を少し開いて、中を見せてくれるのだった。
「浜辺あるいてたら、この袋が落ちてて……」
「で、鳴き声がするから……見てみたら……」
「中に、子猫が……」
彼女たちの表情から、とっさにグロいものが目に入るのではないかと顔をしかめてしまう俺。恐る恐る袋の中を覗きこむ。
が、グロではなかった。グロではないが……。
「これは……酷い……」
ビニール袋の中には、まだ生まれて間もない子猫が入っていた。黒猫だろうか、全身をずぶ濡れにして、泥かなにかで毛が固まって地肌まで見えている状態。完全に衰弱しきっていて、呼吸をするのもやっとという感じでぐったりしている。
アオも覗きこんでいる。
タエちゃんもただならぬ様子を感じて中から姿を現していた。そのタエちゃんが言う。
「猫?」
「はい」
「あらー、まーたー、誰がやったんやこんなことー。ああ、もうこれはアカンな。誰かにいたずらされたんやろ。誰や知らんが、ホンマ酷いことする奴もおるもんやで……」
アオは黙って、女の子からそのビニール袋を受け取っていた。そして、なにも言わずに中へと持って入る。
彼女たちとの会話はタエちゃんに任せて、俺もその後を追った。
アオは洗濯したばかりのキレイなタオルを五枚ほど掴んで厨房手前のテーブルに座り、子猫をビニール袋から取り出した。
大量のタオルで子猫の身体をそっと包みこみ、もう片方の手で余ったタオルを丸め、優しく優しく子猫の身体を拭いていく。
完全に水浸しだ。子猫はほとんど意識もない。寒いだろうに、震えもしない。
アオは一センチの距離まで口を近づけて、ハァハァと必死になって息を吹きかけていた。少しでも体温が奪われないようにと頑張りはじめる。
子猫の衰弱は酷いものだ。というか、虫の息なのだ。手足どころか、身体のどこもピクリとも動かない。死んだ子猫を、必死になって温め、拭いているアオ――そんな光景になってしまっている。
俺はなにも言えずに立ち尽くしていた。
後ろから、女の子たちと話し終えたタエちゃんが戻ってきた。アオの手元を覗きこんで、はっきり言う。
「ああ、これはもうアカンな……」
もう命は助からないということ。誰がどう見てもそれは同じだった。瀕死どころの話ではない。死の直前に一瞬ある、「仮死」といっていいような状態。
けれど、アオだけはまだ助かると思っているのか――休むことなく熱い息を吐きかけ、子猫に負担がかからないよう、優しく優しく身体を拭いてあげている。
「アオちゃん、もう無理やで……諦めや……」
息をしているのかも怪しい子猫。なのにアオは真剣な表情で、さっきからひと言もしゃべらず、ずっと手を動かし続けている。その顔を子猫の身体から一瞬たりとも離さない。ずっと深い息をハァハァと吐きかけて、毛の一本一本から水分を拭きとっていく。
「アオ……」
俺の目にも、救いのない状態であることは明らかだった。彼女の肩に手を置いて止めさせようとする。
が、アオは手を休めない。あまりにも真剣なその姿。
しばらくすると、アオはなぜかその場を離れた。子猫をタオルにくるんだまま一人外に出て、外灯もない場所に座って引き続き救命活動にあたる。
追いかけて、「どうしてこんな場所で」と聞こうとすると、彼女の目から涙が零れ落ちているのが見えて、俺は言葉をかけることができなくなった。
人に泣き顔を見られたくなかったからか……。
ため息を吐きながら、俺は彼女の前にしゃがみこんだ。彼氏である俺なら、大丈夫だと思って。
「なあ、もうその子無理だって……」
どうみても助からない。だから俺は、少しでもアオのショックが和らぐようにと言葉をかける。
「な? もう無駄だからさ、諦めよう。仕方ないって。かわいそうだけどさ……」
アオは言葉を返さない。ただ作業を続けながら、ブンブンと首を振るのだ。
「仕方なくない」
初めて声を発した。力強い声。普段ののほほんとしている彼女のそれではなかった。
「いやでも……万が一助かってもさ……どうしようもないって。この状態じゃ……」
正直、このまま助かったとしても、それはそれで悲劇だと思うのだ。多少命が長持ちしたところで、おそらくは体内にまで損傷はあるはずで……。命を繋ぐことこそが残酷なことなのではないかと思える。もし今日生き残ることができても、明日から痛いだろうし、苦しいだろうし。そして数日後には、結局のところ死ぬしかないのだ。
それになんの意味があるのか。
アオにしてもわからないはずがないのに。なのに彼女は、必死になって子猫の命を救おうとしている。痛くても苦しくても長生きをさせようと努力をしている。
黒猫だと思ってはいたが、いまアオの手の中にいる猫は白い毛を持っていた。黒いと思っていたのは、全身を包みこんでいた泥だったのだ。
彼女は子猫の目のあたりも拭いてあげていた。
けれど、子猫は目を開けない。というか、目は潰れているようだった。目ヤニのようなものがびっちりとまぶたにこびりついて、タオルで拭いたぐらいでは取れない。メスかなにかで切り裂かなければ、中の状態を見ることはできそうになかった。
そのとき、彼女の中で子猫が身をよじった。さっきまではぐったりとしてピクリとも動かなかったのに――いまではみーみーとかすれた鳴き声を漏らし続けている。
アオが丁寧に拭いた部分は、子猫本来の美しい白毛がふんわりと立ち上がりはじめていた。
彼女はなおも油断しない。ハァハァと息を吐きかけて子猫の身体を温めることと、丁寧に水分と泥を拭きとっていく作業を延々と繰り返し続けた。
あれだけ絶望的だった子猫が、いまや息を吹き返しているように見えた。
だけど――。
「おい、アオ……どうすんだよ……」
俺は恐怖を隠しきれない。
どうせ長くないのは明らかだ。いまちょっと鳴き声が出せるようになったからって、どうなるものでもない。子猫は死ぬ。それもすぐに。
ならばいまは、そっとしておいてやったほうがいいのではないか。このまま命をつなぎとめても、痛みと苦しみにもがくことになるだけではないのか。
「アオ、もうやめといたほうがいいって……」
俺は考えていることをすべて話して、安らかに眠らせてあげたほうがいいと進言した。
そんな俺の言葉も、アオは無視。必死で命をつなぎとめることだけを考えている。
その瞬間、雷撃のように矛盾を感じた。
なんだこれは――。
アオに対していつも「苦しくても命を繋げ」と説得をしていた俺が、いまは「もう無理だから諦めろ、楽にしてやれ」と言っていて……。
いつもは「むやみに延命することには意味なんてない」と言っていたアオが、先のことなど考えず、命だけは残そうとあがいている……。
目が回った。愕然とする。
俺はしゃがみこみ、地面に手をついたまま、言葉も出せなくなってしまっていた。
そんな前で、アオはなおも懸命に、小さな命と向き合っているのだ。
白猫はその後もどんどんとキレイになっていった。まだ手足の先や顔のまわりの取りにくい泥は落ちていないが、身体はぜんぶ元の姿に戻っている。
いままでどれだけ泥まみれだったのかが改めてわかった。泥の落ちた子猫の毛は、美しいものだったのだ。
みゃーみゃーと鳴く声にも、いままでのような死にかけた感じはない。普通の子猫が発してもおかしくないレベルへと回復している。
泣きやんだアオは、再び建物の中へ。
息を吹き返した子猫を見て、タエちゃんは驚きを隠さなかった。
「あらまあ……もう無理かと思ってたけど……」
しかし一転、次の瞬間には困り顔になるのだ。
「ちょっとアオちゃん、どうすんのよ~、長生きしたら大変やで……」
アオはぐずりながらも、無言である。
そうなのだ。もしも少しだけ長く生きられるにしても……もう目はどうにもならないだろうし……。しかも「カフカフ」とおかしな音を立てているので、明らかに呼吸器系もヤバイことになっているはずで……。体内には他にどんな問題が山積しているかもわからないのだ。
そんな猫を世話する大変さは、言わなくてもわかる。
それでもアオは、安堵の表情で猫を抱きかかえている。まわりに漂う、重苦しい空気も知らぬげに。
5
タエちゃんは日付が変わるまで帰らずにいてくれた。特になにも言わずに自分の仕事をしていたが、明らかに俺たちを心配してのことだった。ありがたいことである。
けれど彼女も、子猫がどんどんと容態を安定させていくのを見て、「また明日」と言って帰っていった。
そうなのだ。あれから、子猫は自力で歩けるまでに回復したのだ。
いまも彼は、畳の上で四つ足で立っている。目はずっと閉じたままでふらふらとした足取りだが、自分の力だけで後ずさりをしている。目の前が真っ暗だから「なにかが頭を覆っている」とでも思っているのか――白猫はずっとお尻を先頭にしてずりずりと後退していくのだった。
さらに、痛いのか苦しいのか悲しいのか――みゃーみゃーとよく鳴いた。特にそれは、アオが肌を離しているときによく見られた。アオが「大丈夫だよ」と言って手を当ててやると、安心したように鳴き止むのだ。
彼女を呼ぶ声なのかもしれなかった。
それは、切なくも微笑ましい光景だった。
俺たちは、朝一番で動物病院に連絡し、診てもらえるというのならすぐにでも連れて行ってやろうと決めた。それまでは寝ずに看病することも。
「あ、見て見ておなかすごい……模様があるよ」
敷いた布団の上で、子猫を持ち上げてそのおなかを見ていたアオが俺を呼ぶ。
子猫の元気と比例するように、アオも明るくなっていった。いまはもう泣いてはいないし、普通に喋ってくれている。
「模様?」
安心した俺は、近づいて彼女の手元を覗きこむ。すると、たしかに子猫のおなかにはかわいらしいハートマークが浮き出ているのだ。そこだけ毛の色が微妙に濃くて、けっこうキレイなハートの形が作り上げられている。
「あ、すごい」
「すごいでしょー。テレビに出られるかもよ」
こんな薄汚れた子猫を映すテレビなんてないのだけれど、アオは久々に歯を見せて笑っていた。なら、それだけで充分な気がする。
子猫も今日は寝るつもりがないらしい。アオだって寝ろと言っても寝ない気がする。ならば自動的に俺も寝ることはできないのだった。
売店に行き、ダンボールケースから冷えてもいない缶コーヒーを一本取って一息つく。
そして結局、俺はアオと子猫が親子のように身体をくっつけている姿を、朝まで見守るしかなかったのだ。
しかし、まあ疲れてはいるといっても、けっして嫌な徹夜ではなかった。
ちなみに、この建物は平屋で、基本的には昔ながらのトタン屋根なのだが――新しく修繕した部分などには透明なポリカーボネートの板が使われていたりする。おかげで、朝日が昇りはじめると天井からは木漏れ日のように光が降り注いでくる。それはなかなかに幻想的な光景となるのだ。
翌朝、清冽な光の中で動物病院に電話をすると、「診てやる」との返事がもらえた。
俺たちは支度をし、まだ浜が忙しくなる前に、子猫を抱いて動物病院に向かった。
タエちゃんには連絡して、すぐに帰ってくると伝えておいた。
浜で使っているボロボロの軽トラで、アオと二人、動物病院を目指した。
国道沿いにある真四角の二階建ての建物に、『わたぬき動物病院』の看板が見えた。
前の駐車スペースに車をとめて、急いで中へ入る。
ドアを開けると、さっそく中年の男性獣医さんが出迎えてくれた。電話で事情を聞いてくれた人だった。四十代ぐらいだろうか。黒いひげをもじゃもじゃと蓄えて、人のよさそうな感じである。
「野良猫なんだって?」
「はい。お客さんが見つけてくれて……」
「ああ、目は……潰れてるのか……ああ、これは酷い。ダメそうだな」
彼はアオから子猫を受け取ると、すぐに「目は諦めなければならない」と言った。
アオと手を握り合う。わかっていたことだとはいえ、ハッキリ言われると辛いものがあった。これで、万が一長生きできることになっても……両目が見えないという、なかなかにハードな状況が確定したのだ。
先生は奥の診察台にまで白猫を運んで、そこでいろいろな器具を使って慎重に診察を続けていた。
俺はアオと手を握り合ったまま、立ち尽くしているしかなかった。なんと言われるのか、そしてなんと言われたいのか――。不安定な気持ちのままで成り行きを見守る。
やがてけっこうな時間が経ち、やることをやり終えた先生は俺たちのところまで戻ってきた。
そして言う。
「これはもう、そっとしておいてあげたほうがいいかもしれない。野良なんでしょ?」
「はい……ですけど……元気になったら、私が飼おうと思ってます。だから……なんとかなりませんか」
先生は腕を組んで眉間に皺を寄せている。彼の言いたいことは、その表情を見ればすべてわかった。
けれどアオは食い下がる。
「どうにかして助けてあげることはできませんか」
先生は肩を落として、困った様子だった。「手の施しようがない」だとか、そういうハッキリとした言葉は使わないものの――「手術でもなんでもして助けてくれ」というアオを、やんわりと丸めこもうとしている。
五分以上は話していた気がする。
途中から、アオは泣いて懇願していた。
最後には、「私の主治医は難しい手術でもやると言っていた」とも口にした。
「お金は私がぜんぶ出すから。だから助けてください。せっかく生まれてきたのに。まだこんな子猫なのに。一日でも長く生きられるようにしてあげてください。苦しくても、痛くてもいいですから。一度でも多く息をさせて、心臓を打たせてあげてください――」
「それは辛いことだよ。子猫は楽になりたいと思ってるかもしれない」
「地獄になら私が行きます。この子に未来永劫恨まれてもいい。責任は私が取るから、だから――せっかく生まれてきたんだから、一秒でも長くこの世にいさせてあげてください。じゃないと……こんなにすぐ死んだら、なんのために生まれてきたのか、わかんないじゃないですか。せめて時間だけでも与えてあげてください――」
こんなにもしつこいアオ、こんなにも無理を言うアオは初めて見た。
俺は隣で、ただ見守っているしかなかった。口を挟むこともできない。信念と呼べるレベルで結論を持っていない俺には、言えることなどなにもなかったのだ。
最後は先生のほうが根負けした。
結局、手術はしてもらえることになったのだ。できるだけのこと――という前置きはついていたが……。
「――午後から手術をして、夕方には終わると思う」
その言葉を聞いて、ようやくアオの涙は止まった。
タエちゃん一人に浜を任せるわけにもいかないので、俺たちは夜にまた来るということで、いったん帰って仕事をすることに。
先生にお礼を言い、アオが子猫の背中をなでて「大丈夫だからね」と言葉を残す。
そして俺たちは二人して、軽トラで来た道を戻った。
本来ならすぐに尽きる命だ。ああなった以上は、できるだけ早く楽にしてあげたほうがよかったのかもしれない。
「ありがとうございました……」
もちろんアオだってそのことは考えただろう。しかし、ああするしかなかったのだ。
売店で客に声をかける彼女にも、いつもの笑顔はなかった。
彼女は明らかにおびえている。
もしも子猫になにかあればどうしよう……。それは自分の責任ではないのか……。そんなことを考えているのだろう。
時計を見ると、午後の四時。手術は終わっているのかもしれない。
失敗したらそれまで。成功しても子猫は苦しむことになる。あの子に恨まれるかもしれない。呪われるかもしれない。
もちろん、一番恨まれるのはあそこまでの状態にした誰かさんだ。けれど、もし二番目がいるとしたら……それは苦しい日々を与えた彼女、ということになるかもしれないのだ。
でも、そんなことは重々わかった上で――それでもなお、アオはあの子に生きていて欲しかったのだ。
もしも彼女が病気などではなく元気な女の子だったら、「そんなのは残酷だ、かわいそうだから楽にしてやれ」と言っていたのだろうか。俺やタエちゃんのように――。
ありえない話ではないように思われた。
事務所のカウンターに肘をつき、俺は頭を抱えるしかなかった。
夕方には子猫の様子を見に行きたかったが、手が空いたのは夜になってからだった。
午後八時。タエちゃんに留守番をお願いして、俺たちは再び動物病院へと軽トラを走らせた。
車の中でも、アオは元気がなかった。最悪の場合を想定していたのかもしれない。
病院に着くと、もちろん手術はすでに終わっていた。
ひげもじゃの先生が出迎えてくれる。
「できるだけのことはしたよ」
先生はそう言ってくれた。
手術は成功したとのことである。
しかし同時に、「もう長くはない」とも宣告されてしまった。
目と同じように、身体の内部にも、いまの医学ではどうしようもないことが多すぎるのだという。
ため息が漏れる。
それでもアオは顔を上げて、しっかりと頷いていた。
「――あとなにか問題が起こっても、どうすることもできないから。つぎになにか問題が起これば……そうだね、それはもう寿命だと思ってもらうしかないよ」
「寿命」。それは俺たちにはとても馴染みの深い言葉だった。
「わかりました」
俺たちは頷く。
こまごまとした説明を受けて、手続きを済ませ、
「ありがとうございました」
二人して深々と頭を下げた。
とりあえずその日は病院で預かってもらうことになった。明日また迎えに来ると言って、俺たちは浜へととんぼ返りした。
翌々日も、俺たちはギラつく太陽の下でアルバイトに精を出していた。
お盆休みの真っ只中。忙しさはピークに達していた。
「たえちゃーん、カレーライス二つお願ーい!」
「あいよー」
厨房のタエちゃんに大声で注文を届けて、売店で缶ビールを売るアオ。
浮き輪が売れていけばエアーコンプレッサーでバリバリバリバリと新しいものを膨らませて補充していく。
彼女は元気をすっかり取り戻している様子だった。
俺はそんな彼女の姿を、汗みずくになりながら横目で確認。そしてまた、新しいお客さんのところへと走っていく。
お盆期間中だけはヘルプのオバサンたちもやってきてくれるが、なお一瞬も立ち止まれないほどの忙しさだった。
アオは売店と食堂を行ったり来たりしている。
そしてみーみーと事務所奥の六畳間から声が聞こえると、その忙しさの隙を見計らって――さっと子猫の身体に触りにいくのだ。
初日に比べればずいぶんキレイになった子猫は、畳の上で大人しく寝たり、後ろ向きに歩いたりしていた。
ときおり鳴き声をあげてアオを呼ぶ。そして、彼女と肌を触れ合わせると、また安心して大人しくなるのだった。
「ありがとうございましたー」
そう言って客を見送ると、アオはまた売店からすっとんできて、鳴いている白猫の身体にタッチする。
すると子猫は、彼女の手に身体をこすりつけて嬉しそうにするのだ。アオのことを母親だと思っているのかもしれない。
少しでも離れると「みーみー」とうるさいので、アオは仕事をしながらも、たびたび事務所から子猫のほうへと手を伸ばさなければならなかった。
それでも彼女は、嫌そうな顔一つ見せない。まるで本物のお母さんのように、子猫の顔に鼻を当てて「大丈夫大丈夫」と言っている。
「どうすんのアオちゃん~。長生きしよるで~」
タエちゃんはさっき、猫がいることに気づいた女子高生二人組に「あの猫は死にかけてた。うちの子が必死になって身体拭いてやって息を吐きかけて助かったのだ」と自慢げに話していたのだが……予想以上に長生きしそうだということを知ると、嫌そうな声を上げた。
そりゃあ、毎日この調子だと大変だ。夏が終わって俺たちが帰ることになったら、そのときはどうするのか……。
けれどまあ、そんな心配もする必要がなかったのだ。子猫はそのあと、一週間しか生きられなかった。
6
結局最後まで、子猫に名前をつけようとは言い出さなかった。俺も、アオも。
それは、すぐにこうなってしまうのだということを予想してのことだったのだ。
俺たちは二人とも、子猫が名前に慣れるまで生きてくれるとは思っていなかったのだ。
その日の仕事が終わって、夜。ぽつぽつと現れる売店の客はタエちゃんに任せて、俺たち二人は敷地の端までやってきていた。
子猫はタオルに包まれて、アオの手の中にある。
その身体は、すでに冷たくなっている。
幸い、この海水浴場の敷地は広い。砂浜だけでなく、道路を挟んで山側にもスペースがあるのだ。そこは一部が駐車場になっていたり、一部が手つかずの土手になっていたりする。
俺たちはスコップ片手に、その土手に立ち尽くしていた。
穴は俺が掘った。もう誰かにいたずらされることのないように、できるだけ深く。いま、その穴は俺たちの前にぽっかりと口を開けている。
アオが黙って地面に膝をつく。
ゆっくりと慎重に、子猫の身体を穴の真ん中に横たえた。
手を離しても、彼女は泣かなかった。そのかわり、神妙な顔をつきをしていた。
俺はそんな彼女に向かって聞く。「なあ、こいつは幸せだっただろうか」と。
アオは子猫の頬を撫でながら答えた。
「死んだらなんにもなくなっちゃうんだよ。苦しいとか、悲しいとか、そんなことも感じられなくなる。もし苦しいとか悲しいとかを感じないために死ぬほうがいいなら、この世の全員が死ななくちゃいけなくなるよ」
涼しい風が吹きぬけた。もう、秋も近い。
「誰だって苦しいよ。そんなに幸せに生きれる人なんてめったにいないよ。もし苦しむから死ななきゃいけないなら、そもそも生まれてくる意味もぜんぶ、なくなっちゃうよ」
それは俺が見つけたかった言葉そのものだった。
まさか彼女を説得するための言葉を、彼女の口から聞くことになるだなんて。
答えは、そこにあった。
他のどこでもない、彼女の心の中にあったのだ。
きっと、巧妙に隠されていただけだったのだ。彼女はちゃんと、知っていた。
俺は静かな気持ちだった。
いまこそ言うべきときだった。自分の本心を。彼女の本当の心を。
「――じゃあさ、それが答えなんじゃないの」
アオは動かしていた手をピタリと止めた。
「お前は、こんな子猫には苦しんでも生きろといい、自分は苦しむぐらいなら死ぬというのか」
アオの沈黙が重くなっていく。必死でなにかを考えている。
「なあ、俺……お前のこと、好きだ。一日でも長く生きていて欲しい。苦しんでもなんでも、生きていて欲しいと願うのは――俺が病気じゃないからか?」
彼女は首を振った。その目からは、涙がこぼれていた。
涙はどんどんどんどん溢れてくる様子だった。
しばらくすると、彼女は号泣――といっていいほどの状態になっていた。
子猫のことを考えているのだろうか? 泣きながら「手術を受ける」と言っていた。
そして、「お金もかかるし、迷惑かける、苦しい姿を見せるのも無理だけど」と口に出してはさらに泣く。「怖い」とも言っていた。
そりゃそうだ。手術のリスクは非常に高い。下手をすると、自分が自分であると思うことすら、できなくなる可能性もある。
だけど俺は厳しいのだった。アオを叱る。
「この子には恐怖を強制しておいて、自分は乗り越えられないというのか。そんなことが許されるはずないだろう。お前はこの子の手術代を出してなにか後悔してるか? してないだろ? お前のまわりにいて、お前に生きていて欲しいと思ってる人たちだって同じだよ。俺のバイト代も全部出す。みんな協力する。だから――頑張ってくれよ」
それは、最後の説得だった。
「お前はこの子に間違ったことをしたと思っているか? この子にしたことを後悔してるか?」
彼女はしゃくりあげながらも、首を振ってくれた。
「どんなに苦しい日々が目の前に広がっていても、それでも生きることこそが尊いのだと信じているんだろ? 絶望の中でだって、一回でも多く息をして、一回でも多く心臓を鳴らす、それにこそ価値があるんだろ?」
しゃくり上げながらも頷くアオ。
「だったら!」
俺が肩を抱き締めると、彼女は「でも怖い」と言って泣いた。
だから俺は言う。
「なにも考えるな。抗ってさえいればいいんだ。どうせダメなときはダメになる。簡単なことだ。生きろ。抗え。少しでも前に進め。それだけでいいんだ。馬鹿でも弱虫でもできる。ビビらなくていい。負けてもいいんだ。一発KO食らってもなんでもいい、ただ、リングには上がらなきゃ! 逃げてちゃ後ろにしか倒れられないぞ、勢いよく走ってたら、ぶん殴られたって自然と身体は前に吹っ飛ぶもんなんだよ。あんな子猫にもできたんだ。お前にもできるだろ!」
彼女は泣きながら、「うん」と喉を震わせた。
満月の光が俺たちを包みこむ。その中で、アオは泣き疲れた顔をしているように見えた。
俺はその表情にほっとした気持ちになる。
「そうだ。それでいい。生きていれば、疲れるまで泣くこともできるんだ。そうすれば、いつか涙が止まる日も来る。もしも最後まで止まらないなら、それでもいい。俺が付き合ってやる。お前の家族だって、友達だって、みんなが付き合ってくれる。それって悪いことか? 不幸な人生だと思うか?」
「――うううん……おぼわだい……」
鼻水ぐじゅぐじゅで答える彼女のその笑顔。月光に照らされたその笑顔には、確かな力があった。希望を追い求める意地のような力が、確かに芽生えはじめていた。
7
九月に入ると、一気に秋らしくなってしまった。夜なんて寒いぐらいだ。もうすぐ台風が来るらしい。それが過ぎれば、また一段と夏は過去へと押しやられてしまう。
夏休みはあれだけはっちゃけていたというのに――すっかり落ち着きを取り戻した今日の太陽から目を離し、俺は病室のベッドで横になるアオに視線を戻した。
手術の日。
俺は朝からアオの病室にお邪魔していたのだった。うす緑色の帽子をかぶった彼女の手を握り、とりとめもない話をしている。
「あの子もこんなに怖かったのかな」
突然、アオが脈絡もなく子猫の話をしはじめた。
「あの子にこんな怖い思いさせたのなら、それだけで私は地獄行き確定かも」
落ち着いた声。しかしどこか物憂げで頼りない。
「ん? それは弱気?」
彼女の手を両手で包み、笑ってみせた。
アオは俺の目を見つめ返して返答する。
「いや、弱気じゃないけど……。悪いことしたんだなって、いまになって思った」
「じゃあ、いまお前をこんなにも怖くしてる俺も地獄行きだから。三人で地獄で仲良くしようぜ」
そう言うとアオは吹き出した。
「ちょっと、あの子にはなんにも罪ないよ。あの子は天国だよ。勝手に地獄行きにしないでよ」
「あ、そっか」
俺も笑った。
「じゃあ二人でアイツのいる天国を羨ましく見上げようぜ。地獄の底から」
「ふふ、そうね、おなかのハートマークがよく見えていいかもね」
また笑い合う。
そんなことをしているうちに、時間はやって来た。看護師さんがバタバタと病室に入ってきて、アオの家族や友人の姿も揃っていた。
彼女はストレッチャーに移されて、いよいよ手術室へと向かう。
「じゃ、行ってくるよ」
「おう、アイツだって成功させたんだからな。お前だってできる」
「うん」
「絶対大丈夫だからな!」
最後は家族の人たちに任せた。俺は病室の中から、アオの出発を見届ける。
親指ぐらい立ててくれるかと思った。けれど、彼女は最後までなにをすることもなかった。
アオの友人たちと、病室に残される。あとはもう、できることはなにもなかった。
俺はさっきまでアオが寝ていたベッドに肘をついて、ただひたすらに祈っていた。
彼女の友人たちもいる部屋だが、恥ずかしくはなかった。みんな気持ちは同じだったから。中には泣いている子もいた。
不吉だからそういうことはやめておいたほうがいいのでは――と言いたくもなるが、気持ちがわからなくもないので口にはしない。
かくいう俺もずっと、アオが親指を立てなかったことが気になっていたのだ。
いつだってやっていたあのポーズがないということは、はたして凶兆なのか、それとも単純に彼女が不安だっただけか。未来の見えない俺には、判断がつかなかった。
とにかく、俺にできるのは祈ることだけだった。自分なんかが祈ったところでなんになるものか、という思いはあったが――それでもどんな間違いが起こるともしれない。祈らずにはいられなかった。
もし神様がいるのなら、ちょっとぐらいサービスしてくれてもいいと思う。
というか、もしも神様がいるのなら、聞いてみたい。
――俺たちは間違っていましたか? と。
――あの猫を助けることがそんなにもいけないことでしたか? と。
――彼女を助けようとすることが、彼女が生きようとすることが、そんなにもいけないことですか? と。
もしも違うと言うのなら、どうかチャンスを与えてあげてください。
幸せなどいりません。そんなものはこちらから願い下げです。そんなたいそうなものはいりませんから。
だから、どうか。
ただの一度でも多く、彼女に息をさせてやってください。ただの一度でも多く、彼女の心臓を動かしてやってください。
痛くても、苦しくても、悲しくても、なんだって構いません。
ただ、彼女に生を。
「ただ生きている」というかけがえのない一瞬を、一つでも多く与えてやってください。
万が一、彼女が後悔するようなことになったら……。そのときは、すべての恨みを俺が背負いますから。地獄には自分が行きますから。
だから、どうか。
どうかお願いします。
*
「もし成功してもさ……それでもあんまり長くないんだよね?」
「うん……すぐ再発して、次は手術もできない可能性があるって……」
「今日成功してもさ、明日から大変なんだよね……」
「まあ、いままでみたいに普通には過ごせないだろうね……」
「けっこう、キツいんだよね……いろいろ……」
「うん。だろうね……」
待っているあいだ、まわりの会話は嫌でも聞こえてきた。
けれど、ぜんぶ問題のないことばかりだった。
いくらキツくても、アオはもう迷わないし、絶対に負けたりしない。俺はそう固く信じていられたのだ。だって、アオはあの子が最後の瞬間まで生きたのを見ているのだ。痛くても苦しくても悲しくても、最期まで生きていたのを見ているのだ。実際に手の触れられる距離で。
手術の時間は思ったよりも短かった。大きな臓器を移動させたりはしないから、短時間で済んだのかもしれない。
アオの女友達の一人が、病室に飛びこんできた。
「手術、成功したって!」
そう言いながら。
俺たちは彼女の後を追って、病院の廊下を早足で駆けた。
ストレッチャーがこちらに向かって進んでくる。そばにはアオのお母さんの姿がある。
アオはマスクをつけて、頭をしっかりと包帯で巻き、意識もない様子だった。腕には点滴が打たれ、鼻からもチューブが伸びている。
これで生きているのかと思える、痛々しい姿である。
一瞬にして、手術なんて受けさせてよかったのかという迷いが生じる。友人たちが近づいていく中、俺は遠巻きにその姿を眺めていることしかできなかった。
けれど、ストレッチャーが俺の横を通り過ぎていくとき。
薄目を開けたアオと目が合った。
それは一瞬のことだった。ストレッチャーは俺に構わず、病室ではない別のどこかへと向かう。俺との距離は、また離れていく。
けれど俺は見たのだ。
アオが自由になる右手を弱々しく上にあげ、親指を立てている姿を。
――ああ。
そのとき、すべてが赦された気がした。
無限の勇気が湧いてくる気がした。
彼女はやる気だ。戦う気だ。つまりは、生きる気なんだ。
「……アオ――」
ならば、もうなにも恐いものはない。そんな気になれた。
俺は彼女が人に囲まれて廊下を進んでいくのを、黙って見送っていた。