握ったその手は暖かかった
女が俺の日常に組み込まれ、ろくでもない人生の中でかつてないほど安寧とした日々を過ごしていると気がついたのは、寝室でナイフの手入れをしていた時だった。
ベッドの縁に寄り掛かり、前のドアを挟んだ向こう側で食事の支度が出来るまで暇を潰している。
時折、包丁を動かす音やパタパタと歩き回る音が聞こえてくる。
一旦それを自覚してしまうと、胃が軋むように痛んだ。
気持ち悪い違和感に吐き気がして、手当たり次第すべてを壊したくなった。
手の中にあるナイフが頼りなく震える。
存在を確かめるように強く柄を握った時、ドアが開いてひょっこりと頭だけ覗かせて女が上機嫌に笑った。
「ごはん出来たよ、待たせてごめんね」
「あぁ……」
一度合わせてしまった目線を伏せてナイフを見た。
研ぎ澄まされた鉛の表面は俺の顔を写しとり、少ない光を反射して鋭く光る。
「早くねー」
軽い音をたててドアが閉まり、パタパタと部屋を遠ざかる。
不思議と俺の中にいた衝動が溶けていった。
これは何だろう。
感情の起伏が示す答えが見つからないまま、その日の夜は仕事に出掛けた。
殺しは濁った感情を発散させるのに一役買ってくれた。
いつもより多い返り血から発する鉄臭い匂いに顔をしかめながら玄関に立った。
感情がコントロール出来ないせいで、現場は悲惨だ。
依頼人がなんとかしてくれるはずだが、明日の報道に取り沙汰されるかもしれない。
まあ、俺にとってはどうでもいいことだ。
家の中に入って廊下を歩いていると、いつもとは違う空気を感じて不審に思う。
どうやら原因は女が寝ている部屋みたいだ。
気配を消してドアノブに手をやると、女が苦痛の表情を浮かべ、うなされていた。
肩を揺らして起こすと、ぼおっとした顔でうっすらと瞼を開けた。
何かあったのかと聞いても女は頑なに口を閉じて首を横に振るだけだった。
なんでもないと言い張るのでそれ以上何も言わなかったが、俺が風呂からあがると案の定、女はまたうなされていた。
今起こしても先ほどの二の舞になるであろうことを思えば、起こすことは躊躇われた。
明るい表情が曇るのが嫌で、目についた手を何気に触れた。
細かく震える手をそっと握る。
すると女が目に見えて落ち着いたので一層力を込めた。
手を握ったまま横でうたた寝をしていると、そっと起こされる。
カーテンの隙間から朝日が漏れていた。
眩しさに目を細めた中で女は嬉しそうに破顔した。
「貴方の手は暖かい」
俺の手に暖かさがまだ残っているんだと始めて知った。