ヌヴェル25 世界がぜんたい幸福にならないと
いつも畑仕事に精を出しているおじさんを僕たちは“じぞろうさん”と呼んでいた。
お地蔵さんのような毬栗頭でいつもニコニコしている姿から、誰からということなくそう呼ぶようになっていた。
野良仕事の合間、じぞろうさんは、宗教の話や神仏の話など難しい話を分かりやすく話してくれた。
僕たちは、じぞろうさんのそんな話を聴くのが好きだった。
ある日、じぞろうさんはこんな話を聴かせてくれた。
日本は今でこそ宗教の自由を背景に多宗教文化となり、どんな宗教でも受け入れているよね。
受け入れ過ぎて困った宗教団体に翻弄されたりするけどね。
昔は、なかなか理解が得られないときがあったんだ。特にキリスト教。
江戸時代のキリスト教弾圧の流れからか明治大正と時代を経ても理解が得られず、そのため迫害を受ける人もいた。
キリスト教のことを耶蘇教と呼んで、差別ならまだしも暴力をふるい、結果命を落とした人もいた。とても悲しい時代があったんだ。
今も世界では宗教に絡む戦争が起こっているよね。自分たちが信仰している宗教の神が唯一無二であり、それ以外の神は偽りだという思想だよね。
神はどう思っているんだろう?私だけを信じなさい、他の神は偽りだという神がいたら、それこそ偽物なんじゃないかな。
信仰する側も、自分に合っているからいい神で、合っていないから悪い神だと決めつけるのは可笑しいよね。
仏やお経と言われるものもそうだよね。これはよくて、あれは悪いと決めつけることなんてできないよ。
どんな神がいてもいいんだ。
どんな仏がいてもいいんだ。
それを信じて救われる人がいるなら、いくらいてもいいんだ。
金儲けとか闇の野望みたいなものを持っている神や仏はだめだけどね。
そうやって、たくさんの神と仏に囲まれて、皆が幸せでいられたら、世界は平和になるんだろうね。
それから月日が立ち、大人になった僕たちは、久々に村に帰ってきた。
じぞろうさんは、鬼籍に入っていた。
棚田のはずれに、祠があった。
こんなところに祠などあっただろうかと言いながら中を覗くと、地蔵さんがいた。
どことなくじぞろうさんに似た顔をしていた。
ちょっと寂しそうなじぞろうさんの顔に。
遠い空の下では、今日も戦争が行われている。
タイトル “世界がぜんたい幸福にならないと”は、宮沢賢治作「農民芸術概論綱要」の序論の一節“世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない”より引用




