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大晦日の夜、我が子が奇妙に消滅!狂いそうな私に夫が突きつけたのは『俺たちは10年もディンクスだろ』という絶望の嘘!

作者: 熾星
掲載日:2026/07/12



プロローグ



 今日は大晦日だった。


 東京では珍しく雪が降っていた。細かな白い粒が、港区の高層マンションの外に並ぶ街灯の下で、夜の底に薄い灰をかぶせたように舞っている。


 遠くの寺から除夜の鐘が聞こえ始めたころ、陽翔はまだ窓辺に張りついていた。神社の参道の先に見える灯りを指さし、初詣の屋台を見に行きたいと何度もせがんでいた。


 部屋の中は暖房がよく効いていて、年越しそばのつゆの匂いがまだ残っている。テレビでは年越し番組が流れ、芸人たちの笑い声が明るすぎるほど響いていた。


 私は陽翔に赤いダウンジャケットを着せ、手編みの赤いニット帽をかぶせた。特撮ヒーロー柄のその帽子は、縁が少しだけ歪んでいる。それでも陽翔は、世界でいちばんかっこいい帽子だと言ってくれていた。


「ママ、甘酒飲みたい」


「子どもでも飲めるやつだけね。勝手に走っちゃだめ。パパの手、ちゃんとつないで」


 蓮司は玄関で黒いダウンを羽織り、陽翔のマフラーを整えていた。顔を上げて私を見ると、目尻に少しだけ笑みを残した。


「大丈夫。温かいのを一杯買って、すぐ戻る」


「ママも待っててね!」


 陽翔は小さな手を伸ばして、私とハイタッチをした。


 私は笑って、父子がエレベーターへ向かうのを見送った。扉が閉まる直前、陽翔は隙間から手を振っていた。


 鐘の音が、ひとつ、またひとつと夜に沈んでいく。


 私は窓辺に寄り、下を見下ろした。神社へ向かう人の流れはそれほど多くない。雪のせいで、街全体が奇妙なほど静まり返っていた。


 十分ほど経ったころだった。


 コンビニ脇の路地から蓮司が出てくるのが見えた。


 ひとりだった。


 陽翔の手を引いていない。


 蓮司は雪の中に立ち、うつむいて煙草に火をつけた。


 心臓が、凍ったように縮んだ。


 私はスリッパも履き替えず、コートだけつかんで部屋を飛び出した。エレベーターは氷づけにされたみたいに遅い。階数表示がひとつ下がるたび、手のひらから熱が抜けていった。



1.除夜の鐘が鳴る空白


 外に出た瞬間、冷たい風が顔を打った。足元がふらつき、私はほとんど転びそうになりながら蓮司のもとへ走った。


「蓮司、陽翔は?」


 蓮司は煙を吐いた。白い煙が雪の中にほどけていく。


 彼はゆっくりこちらを向いた。眉間に深いしわが寄っていた。


「何の話だ?」


 私は彼の袖をつかんだ。


「さっき、あなたが連れて下りたでしょう? 甘酒を買いに行くって。すぐ戻るって言ったじゃない。陽翔はどこ?」


 蓮司は私をじっと見た。


 その目に浮かんでいた戸惑いが、すぐにうんざりした色へ変わった。


「晴香、また薬を飲んでいないのか?」


 私は一瞬、言葉を失った。


「薬って、何?」


「俺たちは三年前に離婚している。結婚前から子どもは作らないって決めていただろ。どこに息子がいるんだ」


 雪がまつげに落ちた。


 針みたいに冷たかった。


「蓮司、冗談はやめて。陽翔はさっきまでここにいた。赤いダウンを着て、あの特撮ヒーローの帽子をかぶって、あなたと手をつないで下りていったの」


「晴香、もういい」


 蓮司は煙草を足元で消し、半歩下がった。私に触れられるのさえ嫌だというように。


「大晦日に騒ぐな。煙草を買いに来ただけだ」


 彼はそのまま隣のコンビニへ入っていった。


 自動ドアが開き、白い蛍光灯の光が雪の上にこぼれる。


 けれど扉が閉まった次の瞬間、店内の照明が半分ほど暗くなった。


 私はコンビニのドアに駆け寄り、ガラスを叩いた。


 開かない。


 レジの奥にいた店員が顔を上げ、ガラス越しにぼんやり私を見た。それから奥を回って、横の小さな扉を開けてくれた。


「どうされましたか?」


「今入った男の人は? 黒いダウンを着た背の高い人です。私の夫なんです」


 店員は空っぽの通路を見て、それから私を見た。


「お客様、先ほどから誰も入っていませんよ」


「そんなはずない!」


「今日はお客様が少ないので、ずっとレジにいました。防犯カメラも動いています。さっきから店に入ったのは、お客様だけです」


 私はその場に凍りついた。


 コンビニの冷たい白い光がガラスを照らしている。


 そこに映っていたのは、髪を乱し、顔を真っ青にした女だった。口を開けているのに、声は出なかった。


 店員はためらうように言った。


「警察、呼びましょうか?」


 警察。


 そうだ。通報しなければ。


 私はスマホを取り出した。指が震えて、画面をうまく押せない。


 通話履歴を開いた瞬間、血の気が引いた。


 何もなかった。


 十分前、私は確かに蓮司に電話をかけた。陽翔の子ども用ウェットティッシュをついでに買ってきてほしいと頼んだ。


 その通話履歴が消えている。


 LINEを開いても、家族三人のグループがない。


 私は踵を返し、マンションへ走った。


 雪で地面が滑る。途中で転び、膝を強く打った。目の前が白くなるほど痛かった。


 痛いならいい。


 痛いなら、これは夢じゃない。


 家に帰ればいい。


 家には陽翔の絵がある。おもちゃがある。蓮司のスリッパがある。私たち三人が暮らしてきた痕跡が、必ず残っている。



2.写真に残らない部屋


 玄関のドアを開けると、部屋の暖房はまだ動いていた。


 人感センサーの灯りがつく。


 私は靴箱に目を落とした。


 そこにあったのは、私の淡いピンク色のルームシューズ一足だけだった。


 蓮司の灰色のスリッパがない。


 陽翔の、歩くたびに光る小さな靴もない。


 私は裸足のままリビングへ駆け込んだ。


 ローテーブルの上には、蓮司がさっき飲んだほうじ茶がまだ湯気を立てていた。ソファの肘掛けには、彼のニットカーディガンがかかっている。襟元には、かすかな煙草と洗剤の匂いが残っていた。


 帰ってきていた。


 蓮司は、確かにここにいた。


 私はそのカーディガンをつかみ、顔を埋めた。


 その瞬間、笑い出しそうになった。


「やっぱり……」


 部屋はあまりにも静かだった。


 テレビではまだ年越し番組が流れている。司会者の笑い声が画面の向こうから落ちてきて、床の上で軽く跳ねた。


 私は蓮司の番号に電話をかけた。


 機械的な女の声が耳元で響いた。


『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』


 私は画面を見つめ続けた。


 目が痛くなるまで。


 その番号は、蓮司が十年近く使っていたものだった。付き合い始めたころ、彼はこの番号から最初のメッセージを送ってきた。陽翔が生まれた日も、この番号で病院に電話をかけていた。


 使われていない番号になるはずがない。


 私は母に電話をかけた。


 三回のコールでつながった。


「お母さん、すぐ来て。蓮司と陽翔がいなくなった。蓮司に連絡がつかないの。二人に何かあったのかもしれない」


 電話の向こうは、長く沈黙した。


「晴香……薬、ちゃんと飲んでる?」


 スマホを握る指が、少しずつ白くなっていく。


「どうしてみんな薬の話をするの? 陽翔がいないの!」


 母の呼吸は重かった。


 電波の雑音越しに、押し殺した嗚咽のようなものが聞こえた。


「落ち着いて。あなたは三年前、久我さんと離婚したの」


「ありえない」


「彼の浮気が原因だった。離婚届にサインしたのは、あなたよ。それからずっと、ひとりで暮らしている」


「じゃあ、陽翔は?」


 母はすぐには答えなかった。


「晴香、あなたは子どもを産んでいない。医師にも言われたでしょう。自然妊娠は難しいって。あなたは家族が欲しすぎて、そういうものを本物だと思い込んでしまったの」


 スマホが手から滑り落ち、カーペットに落ちた。


 私は立ち上がり、リビングの写真の壁へ走った。


 そこには私たちの写真が何枚も飾ってあるはずだった。


 陽翔が生後一か月で、しわくちゃの顔をして私の腕の中で眠っている写真。


 初めて歩いたとき、蓮司に向かって倒れ込むように駆け寄った写真。


 鎌倉の海で撮った家族写真。


 写真の中の蓮司の目尻には、小さなほくろまで写っている。


 これが偽物だというなら、あの光はどうしてあんなに本物みたいに見えるのか。


 私は子ども部屋のドアを開けた。


 足の裏にレゴブロックが刺さり、痛みが走る。


 それなのに、私はほっとした。


 壁には陽翔が先週、幼稚園から持ち帰った絵が貼ってあった。ゆがんだ三人の人間が手をつないでいる。真ん中の小さな人には、青い王冠が描かれていた。


 床に落ちていた変形ロボットを拾う。


 蓮司が先月、大阪出張の帰りに陽翔へ買ってきたものだった。


 証拠がいる。


 証拠さえあればいい。


 私はスマホを構えた。


 壁の絵、床のおもちゃ、リビングの写真。


 一枚ずつ撮っていく。シャッター音が静かな部屋にやけに大きく響いた。


 撮り終えて、アルバムを開いた。


 一枚目には、真っ白な壁が写っていた。


 二枚目には、何もない床。


 三枚目には、リビングの壁に見覚えのない風景画が数枚かかっているだけだった。


 私は勢いよく振り返った。


 絵はそこにある。


 おもちゃもある。


 家族写真もある。


 なのに、スマホの中には何も残っていない。


 足元から寒気が這い上がってきた。


 私は床にしゃがみ込み、変形ロボットを抱きしめた。硬いプラスチックの角が手のひらに食い込むまで。


 これは幻覚じゃない。


 誰かが陽翔を消している。


 残せるものを全部、私にしか見えない幽霊に変えている。



3.誰もが私を病気だと言った


 雪乃のことを思い出した。


 森川雪乃は私のいちばんの友人で、公認心理師だった。新宿の心療内科クリニックで働いている。昔から私と蓮司が喧嘩をするたび、間に入ってくれたのは雪乃だった。


 陽翔が生まれたあと、最初に抱いてくれたのも彼女だった。


 雪乃なら知っている。


 陽翔が存在していたことを、必ず知っている。


 私はスマホを拾い、LINEを送った。


「雪乃、助けて。蓮司と陽翔がいなくなった。みんな私が離婚したとか、子どもなんていないとか言うの。お願い、陽翔は本当にいたって言って」


 送信してすぐ、画面が光った。


「晴香、今どこ? 動かないで」


 続けて、もう一通。


「あなたは三年前に離婚している。そのことは、あなた自身が私に話してくれた」


 指先が冷たくなった。


「雪乃まで私を騙すの?」


 雪乃は一枚のスクリーンショットを送ってきた。


 日付は三年前の五月二十日。


 アイコンも名前も私だった。


 そこにはこう書かれていた。


「雪乃、やっと解放された。これからはひとりでも大丈夫。子どもを持てないのは残念だけど、浮気した男から離れられた。私にとっては、それだけで生まれ変わったみたい」


 言葉の癖も、改行の仕方も、私に似ていた。


 でも、私はこんなものを送っていない。


「偽物だよ」


 私は力任せに文字を打った。画面を叩く指先が、硬い音を立てる。


「晴香、すぐ行く。座って待っていて。刃物には触らないで。外にも出ないで。薬を飲んでいないんでしょう? 妄想症状と解離が戻っているのかもしれない。お願い、今回は私の言うことを聞いて」


 届いた音声は、普段の雪乃とは違うほど切迫していた。


 私はスマホを裏返してカーペットに置いた。


 彼女を待っていたら、陽翔はもう見つからない。


 雪乃は母と同じ目で私を見る。


 哀れみと恐怖が混ざった目で。


 そして私は、病院へ送られる。


 蓮司の会社だ。


 彼がそこへ行っていたなら、必ず記録が残る。


 蓮司は虎ノ門にある外資系投資会社の日本法人で執行役員をしていた。あのビルなら、大晦日でも警備員がいる。入退館システムも、防犯カメラもある。


 誰にも、すべての痕跡を消すことなんてできない。


 私は車の鍵をつかみ、コートを羽織った。靴下もろくに履けないまま、雪の中へ飛び出した。


 大晦日の東京は、普段よりずっと空いていた。


 タクシーは少ない。通りには初詣へ向かう人影がぽつぽつあるだけだった。


 虎ノ門のオフィスビルに着いたときには、指先の感覚がなくなっていた。


 警備室にはまだ灯りがついていた。


 当直の田村さんは、以前にも私を見たことがある。蓮司に弁当を届けたこともあるし、彼に温かい缶コーヒーを渡したこともあった。


「田村さん、蓮司は上にいますか? さっき入ったでしょう?」


 田村さんは窓口から顔を出し、私を見るなり明らかに戸惑った。


「久我様は、先ほど確かに入館されました。ただ……失礼ですが、どちら様でしょうか」


「妻です」


 田村さんの表情が慎重になった。


「久我様は三年前に離婚されています。現在の奥様は神崎様です」


 また三年前。


 また離婚。


 自分の呼吸が、喉の奥でざらつく音を立てていた。


「入れてください。急ぎなんです」


「申し訳ありません。ご予約のない方をお通しすることはできません。本日は休館日ですので、なおさら――」


 田村さんが無線を取ろうと視線を落とした。


 その隙に、私はゲートをすり抜けて中へ走った。


 背後で田村さんの声がしたが、振り返らなかった。


 エレベーターは一階で止まっていた。


 私は二十八階のボタンを押す。


 数字がひとつずつ上がっていく。


 鏡面の扉に映った私は、髪が乱れ、唇に血の気がなく、セーターの裾に雪がついていた。


 エレベーターの扉が開くと、フロア全体は暗かった。


 奥の執行役員室だけに明かりがついている。


 ドアは完全には閉まっていなかった。


 中から蓮司の声がした。


「いい子だ。怖がらなくていい。パパがここを片づけたら、あとで新年のイルミネーションを見に行こう」


「うん。パパは陽翔がいちばん大事だから」


 目の奥が熱くなった。


 張りつめていたものが、その瞬間いっせいに崩れた。


 陽翔は無事だ。


 蓮司は、陽翔と電話している。


 私は勢いよくドアを押し開けた。


「蓮司、陽翔をどこに隠したの?」


 蓮司はデスクの向こうに座り、スマホを手にしていた。


 私を見た瞬間、顔に浮かんでいた柔らかさが消えた。表面を拭き取られたみたいに、あっという間に。


 彼は通話を切り、スマホを伏せて机に置いた。


「どうやって入った」


 私は駆け寄り、彼の襟元をつかんだ。


「聞いたの。今、陽翔と話してた。どうして嘘をつくの? どうしてみんなに私を病気だと言わせるの?」


 蓮司は私の手を振り払った。


 私は数歩後ろに下がり、肩を本棚にぶつけた。痛みで腕がしびれた。


「病気なら治療を受けろ」


 蓮司は引き出しから一枚のコピーを取り出し、私の前へ投げた。


 東京地方裁判所の接近禁止の仮処分命令だった。


 そこには、私が元夫とその婚約者へのつきまといを繰り返したため、久我蓮司から五百メートル以内に近づくことを禁じる、と書かれていた。


 紙面の文字を見ているうちに、胸が少しずつ詰まっていく。


「私が、あなたにつきまとったって言うの?」


「三年前に離婚してから、君はずっと現実を受け入れなかった。半年前には、俺の婚約者を傷つけようとした」


「婚約者?」


 蓮司はデスクの内線ボタンを押した。


「警備を上げてください。不法侵入者がいます」


 ほどなくして、二人の警備員が駆け込んできた。


 左右から腕をつかまれる。私はもがきながら蓮司を見た。


 彼は背を向けていた。


 私に目を向けることさえしなかった。


「蓮司、こっちを見て。陽翔が初めてパパって呼んだとき、あなた泣いたじゃない。忘れたの?」


 返事はなかった。


 私はオフィスから引きずり出され、階下のロビーを抜け、雪の積もった外へ放り出された。



4.赤い帽子の知らない子


 黒いレクサスがビルの前に停まった。


 後部座席のドアが開き、ひとりの子どもが飛び降りてくる。


 赤いダウンジャケット。


 頭には、特撮ヒーロー柄の赤いニット帽。


 心臓が、一瞬止まった。


 私は雪の上から這い上がるように立ち、子どもへ駆け寄った。


「陽翔! ママはここよ!」


 車のそばにいた女が、すぐに子どもを背後へかばった。


 米白色のカシミヤコートを着て、髪を低い位置でまとめている。全身が冬のガラスみたいに清潔で、冷たかった。


 蓮司がビルから早足で出てきた。


 彼は女の前に立ち、私を押しのけた。


「晴香、何をするつもりだ」


 私は車のドアにぶつかった。腕にしびれるような痛みが走る。


 女は私を見た。


「蓮司、この人が例の前の奥さん?」


 蓮司は低い声で言った。


「怖がらなくていい。ずっと俺に執着しているだけだ」


「陽翔、ママよ。こっちを見て」


 私は雪の上に膝をつき、子どもの顔をのぞき込もうとした。


 その帽子は間違いなく私が編んだものだった。


 赤い毛糸。


 少し歪んだ縁。


 左側には、私が縫いつけた小さな星の刺繍がある。


 けれど帽子の下にあったのは、まったく知らない顔だった。


 大きな目。


 すっと通った鼻筋。


 陽翔には少しも似ていない。


 その子は怯えたように蓮司の脚にしがみついた。


「パパ、このおばさん、怖い」


 周囲の通行人が足を止め始めた。


 大晦日の夜、少しでも異様なものはすぐに見世物になる。


「前妻らしいよ」


「ちょっと精神的に不安定なんじゃない?」


「相手はもう新しい家庭があるのに、会社まで来るなんて」


 蓮司は子どもを抱き上げ、もう片方の腕で女の肩を抱いた。


 私を見る目は、ひとかけらの温度もなかった。


「よく見ろ。これは俺の息子だ。こっちは妻の蘭。俺たちはとっくに終わっている。もう俺の生活に関わるな」


 彼らはそのままビルの中へ戻っていった。


 私は雪の上にうずくまった。


 耳に残るのは、通行人のささやきと、遠くの除夜の鐘だけだった。


 雪乃が着いたとき、私はもう立ち上がる力もほとんど残っていなかった。


 彼女は私を路肩まで引きずるように連れていき、タクシーに押し込んだ。運転手に何度も頭を下げている。


「すみません。強いショックを受けていて。白金台までお願いします」


 ドアが閉まる瞬間、私は見た。


 雪乃が複雑な表情でビルの入口を振り返ったのを。


 彼女は私の隣に座り、耳元に顔を寄せた。


「もう調べないで。あなたのためなの」


 タクシーの中は暖かかった。


 それなのに、私は震えが止まらなかった。


 雪乃の横顔を見つめる。


「今、あなたのためって言った」


 雪乃の体が、ほんの少し硬くなった。


「聞き間違いよ。これ以上、自分を傷つけないでって言ったの」


「もし本当に私が妄想を見ているだけなら、蓮司も陽翔も存在しないなら、どうして警告するの?」


 雪乃はバッグから茶色い封筒を取り出し、私の膝に置いた。


「本当は、見せたくなかった」


 封筒の中には、書類が何枚も入っていた。


 新宿の心療内科クリニックの診断書。


 患者名は佐久間晴香。


 診断欄には、重度の被愛妄想、解離性記憶障害を伴う、と記されている。


 署名は精神科医。


 その後ろには、公認心理師による面談記録もあった。


 日付は三年前。


 処方記録、面談概要、再診予約。


 そして私の署名。


 筆跡は、確かに私のものだった。


「晴香、離婚のあと、あなたは一度壊れたの。離婚していないと思い込んで、子どもがいると思い込んだ。私はずっと治療を手伝ってきた。でもあなたは薬を拒んで、症状が何度も戻った」


 雪乃の目は赤かった。


 けれど、それ以上の説明はしなかった。


 私は書類を見下ろした。


 あまりにも整っていた。


 整いすぎていた。


 まるで、私が開く日を待って、ずっと用意されていたみたいに。


 私はゆっくり顔を覆い、体を折った。


「ごめん。私、本当に間違えていたのかもしれない」


 雪乃が私の肩を抱いた。


 彼女は小さく息を吐いた。


「帰って、ちゃんと寝よう。明日起きたら、少し楽になる」


 私はもう反論しなかった。


 マンションの前に着くと、雪乃は上まで送ると言った。


「雪乃、少しだけひとりになりたい」


 彼女は長く迷ったあと、うなずいた。


「じゃあ、部屋に入ったら連絡して。ベッドサイドの引き出しに薬があるから、飲んで」


 雪乃の車が遠ざかってから、私は頬についた雪を拭った。


 そしてマンションとは反対方向へ歩き出した。


 行くべき場所が、もうひとつある。


 私と蓮司が、本当に最初に暮らした家だ。



5.旧い部屋に残された破れた絵


 旧居は北区にある築四十年ほどのマンションだった。


 結婚したばかりのころ、私たちは貯金も少なく、無理をしてその部屋を買った。エレベーターはなく、壁はところどころ古びていて、階段の踊り場には鍵開けや引っ越し業者のチラシが何枚も貼られていた。


 その後、蓮司が昇進し、私たちは港区へ引っ越した。


 それでもあの部屋だけは売らなかった。


 ここは俺たちの始まりだから、残しておいてもいいだろう。


 蓮司はそう言った。


 五階まで上がったころには、足に力が入らなくなっていた。


 ドアの表札は替わっていた。昔、私が貼った小さな熊のシールもない。


 バッグの内ポケットから予備の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。


 回らない。


 錠前が替えられている。


 何年も空き家のはずの部屋で、どうして鍵を替える必要があるのか。


 私は壁に貼られた鍵開け業者のチラシをはがし、電話をかけた。


 大晦日の夜なので料金は上がった。業者は私を一瞥しただけで、深く尋ねてこなかった。


 私は登記情報を伝え、身分証は家に置いてきたと嘘をついた。


 彼は早く代金を受け取って帰りたかったのだろう。


 ほどなくして、ドアは開いた。


 中の匂いが変わっていた。


 かつてのベージュの壁紙はなく、壁は冷たい白に塗り替えられている。


 リビングには、蓮司と蘭の写真が飾られていた。箱根の湖畔に立つ二人は、まるでここに本当に住んでいる夫婦みたいに笑っていた。


 私は次の部屋へ向かった。


 そこはもともと陽翔の古いおもちゃを置いていた場所だった。彼の秘密基地にするつもりで、私が少しずつ片づけていた。


 今は書斎になっていた。


 棚には英語の経済書が並び、机にはノートパソコンが置かれている。


 陽翔のものは、ひとつもなかった。


 私は床に膝をつき、部屋の隅、引き出しの中、机の下を探した。


 指先に埃がつく。


 膝が床に当たって痛い。


 机のそばのゴミ箱に、丸められた紙が入っていた。


 私はそれを拾い、ゆっくり広げた。


 破られ、くしゃくしゃにされた絵だった。


 紙は何枚にも裂けていた。


 それでも、私は陽翔の筆跡を知っている。


 歪んだ三人の人間が、手をつないでいた。


 真ん中の小さな人は、大きなハートを掲げている。


 横には、たどたどしい字でこう書かれていた。


 パパ、ママ、だいすき。


 先週、幼稚園で描いたものだ。


 担任の先生が園の連絡アプリにも載せてくれていた。


 陽翔が家族の絵を描きました、と。


 私はその破れた絵を胸に押し当てた。


 玄関のほうで足音がした。


 蓮司の声が聞こえた。


「ドアが開いている」


 続いて、蘭の落ち着いた声。


「誰か入ったわね」


 私は隠れなかった。


 蓮司と蘭がリビングへ入ってきたとき、二人は散らばった本と、部屋の真ん中に立つ私を見た。


 蓮司の視線が、私の手の中の絵に落ちる。


 その顔色が、一瞬で変わった。


 彼は駆け寄ってきた。


「それを渡せ」


 私は絵を胸に抱え込んだ。


 蓮司の手首に噛みつく。


 彼は痛みに顔を歪め、私を強く突き飛ばした。


 蘭がスマホを取り出して通報した。


「警察ですか。住居侵入です。室内の物も壊されています」


 私はソファのそばに倒れた。


 その視線の先に、蓮司の手首があった。


 彼はあのパテック・フィリップをつけていた。


 私が結婚後初めて受け取った大きなボーナスと、一年分の貯金を合わせて買った、蓮司への誕生日プレゼント。


 裏蓋には、小さく刻印を入れた。


 R & H。


 Renji and Haruka。


「三年前に離婚したって言うなら、その時計はどうしてまだつけているの?」


 蓮司の手がわずかに引いた。


「これは自分で買った」


「自分で買った時計に、私たちの名前を刻むの?」


 リビングが静まり返った。


 蘭がスマホを下ろし、蓮司の前に立った。


 彼女は時計のベルトを外し、蓮司の手首から時計を取った。


「そんなに気になるなら、よく見て」


 蘭は時計を裏返し、私の目の前に差し出した。


 裏蓋は、傷ひとつないほど滑らかだった。


 R & Hはない。


 そこに映っていたのは、照明と、蒼白く歪んだ私の顔だけだった。


「これは私が彼に贈った婚約祝いよ」


 蘭はもう一度、蓮司の手首に時計を戻した。


「佐久間さん、病院に戻りましょう」


 階下からサイレンが近づいてきた。


 私は床に押さえつけられても、もう暴れなかった。


 冷たい床に頬をつけたまま、手の中の破れた絵を誰かに抜き取られるのを感じた。


 蓮司を見た。


 彼は蘭の後ろに立っている。


 その目の奥で、何かが一瞬だけ揺れた。


 けれどすぐに、その揺れも押し殺された。


 私は警察車両に乗せられた。


 雪の夜の東京は、誰かに拭き取られた紙みたいだった。


 存在していたはずの痕跡が、少しずつ白く塗りつぶされていく。



6.身体だけは嘘をつかない


 警察署に着くころには、私はかえって冷静になっていた。


 叫んでも意味はない。


 写真は変わる。


 記録は消える。


 紙の書類は作れる。


 時計の裏蓋でさえ、すり替えられる。


 ならば、必要なのは彼らが変えられないものだ。


 私は精神科の診療記録があり、住居侵入と傷害の疑いもあったため、当直の警察官は精神科救急への連絡を検討していた。


 閉鎖病棟に送られたら、もう陽翔を探す機会はない。


 書類にサインする前に、私は机を押さえた。


「久我蓮司に会わせてください」


 警察官は私を見た。


 すぐには答えなかった。


「会えたら、あとは協力します」


 声があまりにも落ち着いていたからか、警察官は最終的に蓮司を面会室へ呼んだ。


 蓮司は眉をひそめて入ってきた。


 顔には疲れと苛立ちが浮かんでいる。


 蘭も一緒だった。


 彼女は蓮司の隣に腰を下ろした。


 透明な仕切り越しに、私は受話器を取った。


 そして蓮司の目を見た。


「蓮司。あなたの左の肩甲骨の下には、三日月みたいな傷痕がある」


 蓮司の体が固まった。


 蘭の指も、膝の上で止まった。


「あれは、新婚旅行でモルディブに行ったときの傷よ。ダイビング中に珊瑚礁へぶつかった。傷が深くて、私が手当てをしている間、手がずっと震えていた。あなたは笑って、海がくれた結婚の刺青だって言った」


 私は受話器を握りしめた。


「あの場所は、かなり隠れている。枕を並べた相手でもなければ知らない。健康診断にもわざわざ書かれないし、普通の友人が見る場所でもない」


 蓮司は動かなかった。


「もし私が、三年前に離婚しただけの、あなたにつきまとう元妻なら、どうしてその傷を知っているの?」


 面会室が静まり返った。


 担当の警察官は入口に立ち、私たちを見比べていた。


 彼は愚かではなかった。


 妄想だと言われている女が、元夫の体のそんな場所にある傷を言い当てることなど、普通はできない。


「久我さん、確認にご協力ください」


 蓮司の顔色は、恐ろしいほど白くなっていた。


 そのとき、蘭が立ち上がった。


 バッグから黒い身分証ケースを取り出し、開いて警察官の前に置く。


「ここまでです。警視庁公安部、保護対策班の神崎蘭です」


 警察官は身分証を受け取り、表情を変えた。


 先ほどまでの態度をすぐに収め、ドアを閉める。


 蘭は室内の録音を止めるよう示し、廊下を確認した。


 部屋には、私たち三人だけが残った。


 蓮司はうつむき、両手で顔を覆った。


 肩が強くこわばっている。


 ずっと張りつめていた糸が、ようやく切れたみたいだった。


 蘭が私を見た。


「佐久間晴香さん。あなたの勝ちです」


 意味がわからなかった。


「何を演じていたの?」


 蓮司が顔を上げた。


 目が真っ赤だった。


「晴香、ごめん」


 その謝罪は、刃物みたいに胸をゆっくり裂いた。


 彼はもう佐久間さんとは呼ばなかった。


 元妻とも、病気とも言わなかった。


 晴香と呼んだ。


 私は机の縁をつかんだ。


 そうしなければ、その場に倒れていた。



7.消された家族


 蘭は座り直し、声を低くした。


 蓮司が勤めている投資会社は、ただの外資系金融機関ではなかった。


 日本法人は長年、海外拠点型詐欺グループ、違法カジノ資金、暴力団のフロント企業の資金移動に関わっていた。


 蓮司はもともと内部リスク管理を担当していた。


 ある企業買収の審査中、彼は暗号化された裏帳簿を見つけた。


 そこには資金の流れ、ペーパーカンパニーの一覧、政治献金の迂回口座、そしてすでに行方不明になっている証人たちの名前が記録されていた。


 蓮司がその資料を警察へ渡したあと、彼は重要な内部告発者になった。


 相手側が気づくのに、それほど時間はかからなかった。


 最初は交通事故を装った脅しがあった。


 次に、陽翔が狙われた。


 幼稚園の送迎ルートが尾行され、マンションの玄関には登録されていない宅配便が置かれた。


 陽翔のお気に入りの絵本には、差出人のない写真が挟まれていた。


 写真には、公園を歩く私と陽翔の後ろ姿が写っていた。


 蘭はそこで一度、言葉を止めた。


「相手は普通の犯罪グループではありません。証人本人が死んでも、事件の立件は進められる。でも家族を捕まえられたら、証人は崩れます。残りの証拠を渡さざるを得なくなる」


 私は蓮司を見た。


「だから陽翔を連れて行って、私だけ置いていったの?」


 蓮司の手が、強く握られていた。


「君も一緒に連れて行きたかった。でも……」


 蘭が続きを引き取った。


 保護プログラムの評価段階で、専門家は私にすべてを直接知らせるべきではないと判断した。


 そのころ、私は産後うつのため心療内科に通っていた。睡眠も感情も不安定だった。


 もし突然、夫と子どもが身分を変えて消えなければならないと知らされれば、私は必ず取り乱して二人を探す。


 私が探し始めれば、相手は私をたどって安全な場所を突き止める。


「もっとも安全な方法は、あなたに捨てられたと思わせることでした。場合によっては、自分の記憶のほうがおかしいと思わせることも含めて。あなたは傷つく。でも、相手から見れば脅威ではなくなる」


「だから、みんなで私を騙したの?」


「あなたのお母様、雪乃さん、ビルの警備員、旧居の管理記録。すべてこちらで調整していました。精神科の資料には本物の部分もあります。ただし、診断結論は書き換えられています。あなたが治療を受けていたのは事実です。でも、彼らが言っていたような重度の妄想症ではありません」


 母の電話越しの沈黙を思い出した。


 雪乃がタクシーの中で言った、あなたのため、という言葉を思い出した。


 あの刃物みたいな言葉の裏で、きっと誰かも血を流していた。


 それでも、理由が正しければ痛みが消えるわけではない。


「陽翔はどこ?」


 自分の声は、ひどく軽かった。


 蘭はタブレットを開き、私の前に差し出した。


 動画の中で、陽翔は窓のない部屋に座っていた。


 手にはクレヨンを持っている。


 記憶の中より少し痩せていて、帽子は脱いでいた。額の髪が少し乱れている。


「ママ。パパがね、今はスーパーヒーローのかくれんぼをしてるって言ったよ。ちゃんと隠れていたら、ママがスーパーヒーローになって見つけに来てくれるんだって」


 陽翔はカメラに向かって笑った。


 前歯が一本抜けていた。


「ママ、ちゃんとごはん食べてね。泣かないでね。陽翔、ママのこと大好き」


 画面が少し揺れた。


 蓮司が映った。


 彼は床に膝をつき、目を真っ赤にしていた。


「晴香。もし君がいつか真実を知ったとして、俺を許さなくていい。一生恨んでもいい。それでも俺は、君が遺体になるより、恨まれるほうを選ぶ」


 動画はそこで終わった。


 画面が暗くなる。


 面会室は静かだった。


 私は口元を押さえ、長い時間をかけてやっと息を吸った。


 夫は私を裏切っていなかった。


 息子も消えていなかった。


 でも二人が生きているという事実は、私が世界中から捨てられることでしか守れなかった。


 蓮司が机越しに私の手を握った。


「君が知ってしまった以上、危険は増した」


 蘭はタブレットをしまい、一枚の書類を私の前へ置いた。


「選択肢は二つです。ひとつ目は、新しい身分と住居を受け入れて、東京を離れること。比較的自由に生活できます。ただし、自分から彼らへ連絡はできません」


 彼女は淡々と続けた。


「ふたつ目は、低レベルの安全施設へ入ること。ネットは使えず、行動も制限されます。期間は三年かもしれないし、それ以上かもしれません。それでも、すぐに陽翔くんに会うことはできません」


 私は蓮司を見た。


 彼の目には願いがあった。


 けれど、私の代わりに選ぼうとはしなかった。


 彼は私に、陽の当たる場所で生きてほしいのだ。


 たとえその光の中に、蓮司と陽翔がいなくても。


 私は目を閉じ、そして開いた。


「一つ目にします」


 蓮司の指が震えた。


「ただし、雪乃に会わせて」


 蘭はうなずいた。


「できます」



8.新しい名前


 三十分後、雪乃が来た。


 警察署の廊下の奥に立っていた彼女は、目を腫らしていた。私を見ると足を止める。近づきたいのに、近づく資格がないと思っているみたいだった。


「晴香……」


 私は歩み寄り、彼女の頬を打った。


 乾いた音が廊下に響いた。


 雪乃は避けなかった。


 弁解もしなかった。


「これは、あなたたちに自分まで疑わされていた私の分」


 雪乃はうつむいた。


 涙が床に落ちる。


 私は腕を伸ばし、彼女を抱きしめた。


「こっちは、蓮司の妻として。私を守ってくれて、ありがとう」


 雪乃はようやく声を上げて泣いた。


 私を強く抱き返す。


「晴香、ごめん。毎日言いたかった。でも、言えなかった」


「わかってる」


 私は母にも電話をかけた。


 できるだけ落ち着いた声で、少し場所を変えて暮らしてみようと思う、と伝えた。


 母は電話の向こうで、何度もよかったと言った。


 けれど声は、だんだん低くなっていった。


 私は何も暴かなかった。


 母も、この計画の中で最も苦しんだ人のひとりだった。


 娘に向かって、あなたには夫も子どももいない、と言わなければならなかった。


 その言葉を口にしたとき、母のほうがずっと引き裂かれていたのかもしれない。


 その夜のうちに、蘭は新しい身分証明と航空券を用意した。


 私の新しい名前は、林希。


 希望の、希。


 私は蘭に尋ねた。


 赤いダウンを着て、陽翔の帽子をかぶっていたあの子は誰だったのかと。


 蘭は少し沈黙した。


「別の事件で保護を受けている協力者の子どもです。彼と母親も、身分を変えて生活しています。あの帽子は複製品です」


 私はそれ以上、尋ねなかった。


 この世界には、暗闇の中で名前を変え、家族の形を隠して生きている人たちが、こんなにもいる。


 午前四時。


 東京はまだ完全には目覚めていなかった。


 車が羽田空港へ向かうころ、道路脇の雪はタイヤに踏まれて灰色になっていた。年越しのイルミネーションはまだ光っていて、昨夜がまだ終わっていないように見えた。


 蓮司は見送りに来られなかった。


 蘭は私をVIP通路の入口まで連れていき、ひとつの箱を差し出した。


「安全確認は済んでいます。彼からです」


 私は箱を開けた。


 中には額縁が入っていた。


 あの破れた絵が、丁寧につなぎ直されていた。


 裂け目は残っている。


 けれど透明なテープで、細く、慎重に貼り合わされていた。


 三人の小さな人間が手をつないでいる。


 真ん中のハートは少し歪んでいて、今にも紙の上から飛び出してきそうだった。


 絵の裏には、蓮司の字があった。


 次の大晦日、除夜の鐘が鳴るころ。俺たちは家に帰る。


 私は額縁を抱きしめ、蘭に深く頭を下げた。


「二人を、お願いします」


 蘭は初めて、本当の笑みを見せた。


「それが私の仕事です」


 私は搭乗口へ向かった。


 一歩進むたび、記憶を踏んでいるようだった。


 陽翔が初めてママと呼んだ日。


 産室の外で、蓮司が目を赤くして笑っていた顔。


 旧いマンションで、二人並んでコンビニのおでんを食べた夜。


 いくつもの場面が浮かび上がり、私はそれをひとつずつ胸の奥へ沈めていった。


 振り返らなかった。


 今いちばん大切な愛は、探さないことだった。


 連絡しないことだった。


 危険を、二人のそばへ連れていかないことだった。


 飛行機が離陸すると、東京の灯りは窓の外で小さな光の群れになった。


 私の家族は隠された。


 けれど、消えたわけじゃない。


 陽翔がママを覚えているかぎり。


 蓮司があの三日月形の傷痕を覚えているかぎり。


 あの破れた絵が残っているかぎり。


 私たちはいつか必ず、同じ灯りの下へ帰る。




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