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隣の家のミツキちゃん~昼下がりに出会った、不思議な初恋の女の子~

作者: 奈津 蜜柑

 母校の小学校での教育実習も半分過ぎたころ。

 実習生全員に新聞委員から『先生にしつもん!』というアンケート用紙が配られた。


『質問10)先生の初恋について教えてください。』


 ずいぶんプライバシーなことを聞いてくるなと苦笑しながら、目を閉じる。


 俺の初恋は、”ミツキちゃん”という隣の家に住んでいる女の子だったと思う。――たぶん、そうだった。


 最初に会った時は、小1。

 小学校に入ってすぐ、俺は学校に行かなくなった。


 理由は学校に行くのが馬鹿らしく感じたからだ。

 入学してすぐから「友達100人できるかな」なんて歌を歌わされて、白々しく先生たちに「よくできましたねえ」なんて猫なで声で褒められて、恥ずかしくて嫌になってしまった。

 授業だって退屈だった。ひらがなの練習なんて、俺は年少の時には母親にドリルを与えられて1人でやってたし、それがわからないやつと同じクラスにいるのが嫌だった。


 直接のきっかけになったのは、授業中に席を歩き回るクラスメイトにムカついて、そいつを筆箱で殴ったことだ。猿みたいなぼさぼさ頭の男子が教室内をふらふらふらふら歩きまわってるのが目障りで、俺の横を3回目に通り過ぎた時に立ち上がって頭を筆箱で殴った。びええええと泣き出したそいつを前に教室は大騒ぎ。俺は職員室に隔離され、母さんが飛んできた。


 母さんは頭をひたすら下げて、俺の手を引っ張って学校を出たところでつぶやいた。


『あなたと違って、馬鹿な子ばっかりで辛いよね。でも、気に入らないことがあったからといって、いきなり殴るのは頭の悪い子がすることよ。あなたは賢いから、わかるわよね?』


 俺はうなずいた。俺はあの空間で『悪者』になってしまった。

 それは、母親の言うとおり、確かに頭の悪いやり方だった。


『馬鹿な子は無視すればいいの。関わらなければいいの』


 それから深くため息を吐いた。


『私立に行かせた方が良かったわね……』


 そして俺は、学校に行くことをやめた。

 母さんの言う通り、あんな猿みたいなクラスメイトとは『関わらなければいい』んだ。

 それなら、学校に行く必要もないと、小1の俺は思った。


 ◇


 家では母さんが契約したタブレットで勉強し、冷凍食品を温めて食べ、食器を洗い、また勉強した。ドリルはいつも満点。それを見せると、母さんは、ニコニコ笑ってその赤丸がたくさんついたドリルを写真に撮り、SNSにアップしていた。


(あおい)くん、また百点? すごいじゃない!』


 パシャリ。

 

『ねえ、みてみて! 『いいね』がこんなに。『#天才小学生』ってタグもつけてみちゃった』


 俺に画面は見せてるけど、母さんの顔も画面を見つめてた。

 母さんの笑顔の向こうに、俺はいなかった。


 当時の俺は、母さんのSNSに『いいね』が何個つこうがどうでも良かったけど。

 母さんが嬉しそうにして褒めてくれるし、俺はすごいんだなって勝手に思ってた。


 俺の家族構成は、父さん・母さん・俺。

 

父さんは仕事が忙しく、海外出張も多かったし、家にはあまりいなかった。

 けど、父方の祖父や祖母は、俺は『父親に似て頭が良くて良かった』って顔を合わせるたびに言ってたから、なんとなく父さんはすごいんだ!と思って尊敬してた。母さんは家の近くにある小さな会社で事務のパートをしてた。

 

 「ミツキちゃん」と最初に会ったのは、昼下がりのぼんやりとした午後だった。

 俺は、小1から小3までの長い昼間の時間を彼女と一緒に過ごした。



 うるさいクラスメイトのいない、日中一人きりの家は静かで、快適だった――最初は。

 タブレット学習を済ませ、ドリルを解いて、ひと息。

 数日経つと、クーラーの音や冷蔵庫の稼働音ばかりが響くリビングに、俺は息が詰まるような感覚を覚えた。思わず窓を開け、庭に出た。

 

 6月のじめじめとした暑さのある曇り空の午後。

 窓辺に腰掛け、大きく息を吸った俺は、自分を見つめる視線に気づいた。

 顔を上げると、隣の家と俺の家を仕切るフェンスの向こうから、白いワンピースを着た同い年くらいの女の子が俺を見つめていた。


 日に当たったことがないような白い肌と、大きい瞳にどきりとして、思わず息を呑んで俺も見つめ返した。しばらくの沈黙の後、俺が最初に口を開いた。


「誰?」


「――ミツキちゃん」


 保育園児のような幼い口調に、俺は首を傾げて、立ち上がった。

 彼女の身長は俺と同じか、少し高いくらいだった。


「『ミツキちゃん』って名前なの?」


「うん。ミツキちゃんはミツキちゃんだよ」


 同い年くらいなのに、やたらと幼い口調に、俺はイラっとした。

 当時の俺は、ガキっぽいやつが大嫌いだった。


「お前、いくつなの?」


「7さい」


「オレと同じじゃん。自分の名前に『ちゃん』付けなんて、保育園児みたいだな!」


「おおきいこえ……うるさい……」


 ミツキちゃんは、耳を塞いで俺を睨んだ。

 俺は恥ずかしくなって、余計にカッとしてしまった。俺はガキだったから。


「うるさいな!」


 ミツキちゃんは、俺の真似をするように声を大きくした。


「『うるさいな!』」


「真似すんじゃねえよ!」


「『真似すんじゃねえよ!』」


「……お前、ムカつくな!」


 ミツキちゃんは、くすくす笑いながら俺を見た。


「『お前』じゃないよ、ミツキちゃんだよ」


 何だこいつ、会話が成立しない。俺はそう思って座り込むと、彼女を睨んだ。

 ミツキちゃんは、俺を見つめて聞いた。


「――名前は、何?」


「俺の名前、を聞いてんの?」


 こくり。


「――俺は、アオイだよ」


「アオイくん」

 

 ミツキちゃんはにっこり笑った。


「お歌うたうと、たのしいよ」


 そう言うと、ミツキちゃんは急に歌を歌い出した。

 保育園で歌ってたような、童謡だった。

 俺は呆気にとられたけど、ミツキちゃんの歌がすごく上手だったので思わず聞き入ってしまった。


 歌い終わって、何だか得意げな様子のミツキちゃんに、俺は思わず拍手をした。


「ミツキちゃん、歌、じょうずでしょ」


 ミツキちゃんは得意げに柵ごしに俺を見下ろした。

 

「アオイくんも、一緒にうたおう」

 

 さんはいっと勝手に掛け声をかけて、同じ曲をまた歌い出す。

 けれど、俺が黙っていると、黙って俺を見つめて『歌え』という無言の圧力をかけてきた。

 俺は仕方なく、歌い出した。

 それは保育園で歌ったことのある童謡で、俺も知ってる曲だったから、歌えた。

 

「あああ、一緒に歌っちゃったじゃんよ……」


 日中に童謡を家の庭で歌うという行為は、俺にとってとてつもなく恥ずかしい行為で、その時俺は頭をかかえてしまった。――けれど。


「アオイくんも、じょうず!」


 ミツキちゃんはとんでもなく笑顔でぱちぱちと拍手をしてくれた。

 その笑顔があまりに眩しかったので、俺は思わず顔を上げて見入ってしまったことを覚えている。


 ――俺とミツキちゃんの出会いは、こんな感じだった。


 ◇


 それから、俺は昼ご飯を食べ終わると、なんとなく庭に出るようになった。

 そうすると、隣の家のフェンスのところにミツキちゃんがふらりと現れる。


「アオイくん、こんにちわ!」


 俺を見つけると、ミツキちゃんは大きい声で挨拶をして、にっと歯を出して笑う。

 

「おうた一緒にうたうよ!」


 それから、何故か童謡を一緒に歌わせられる。

 ミツキちゃんは押しが強かった。


 俺が知らないようなマイナーな歌もよく知っていて、俺が一緒に歌えないと、


「アオイくん、知らないんだぁ」


 と勝ったような顔で縁側ふうのデッキに座る俺をフェンス越しに見下ろしてきたりする。

 最初はイラっとしたりしたけれど、ミツキちゃんと過ごすうちに、彼女のくるくると変わる表情が癖になるというか、かわいいなと思うようになっていた。


「知らない相手を馬鹿にするのって、ガキのやることだぜ」


 そう言うと、ミツキちゃんは頬を膨らませた。


「わたし、ガキじゃないもん。今年8歳のお姉さんなんだから!」


 ミツキちゃんは、俺が『名前にちゃん付けなんてガキっぽい』と言ったのを気にしたのか、途中から自分のことを『わたし』と言うようになった。


「――え、俺の1つ上じゃん」


 俺は驚いた。確かに、最初に同い年だと言っていたけれど。俺は4月生まれで、まだ6月だったから、確率としては、確かに1つ上の可能性の方が高い。けれど、1つ上だとは思わなかった。


「そうだよ。アオイくんより、お姉さんだよ」


 ミツキちゃんはまた、得意げに俺を見下ろした。


 ある日、ミツキちゃんは俺に聞いてきた。


「――アオイくんは、なんで学校に行ってないの?」


「――学校行ったって、意味ないから。動物園みたいなんだもん」


「動物園たのしいよね。いろんな動物がいて。わたし、行ったことあるよ」


 ミツキちゃんは俺を見つめた。


「学校も、きっと、たのしそう」


「『動物園みたい』ってのは、悪いたとえだよ。うるさいってこと」


 それから俺は、首を傾げた。

 ――なんとなく、そんな気はしていたけど。


「ミツキちゃん、学校行ったことないの?」


「――行ったことないよ。病気だから」


 ミツキちゃんはしゃがみこんでしまった。落ち込んでいるみたいだった。

 外に出たことがなさそうな白い肌に、妙にずれた様子から、そんな気はしていたので、あまり驚かなかった。


「別に行かなくてもいいよ。だるいだけだし」


 俺は首を傾げた。


「昼間、何してんの?」


「ママがお歌歌ってくれたり、絵本読んでくれる。あと、先生もたまに来て、絵本とか読んでくれる」


「ミツキちゃんのお母さんはずっと家にいるの?」


「うん。ママはずっとわたしの隣にいるよ」


一拍、間があいた。


「げえ……」

 

 思わず声が漏れた。母さんがずっと横にいるなんて、息が詰まりそうだと思ったから。ミツキちゃんは嫌そうな顔をした。


「ママといっしょ、たのしいよ」


「ごめん。ごめん。ミツキちゃん女子だし、病気だもんな」


 俺とミツキちゃんは状況が違うので、失礼だったと思い直して俺は謝った。


「俺は男子だし、しっかりしてるから、お母さんもお父さんもいなくなって、ぜんぶ自分でできるんだぜ」


 そう得意げに言うと、ミツキちゃんは顔を輝かせた。


「すごいね!」


 褒められて俺も得意になってしまった。


「勉強だって自分でできるし、お昼ごはんだってひとりで食べれるし、お風呂だって1人で入れるし、寝るのも1人でできるんだ!」


 そう言うと、ミツキちゃんはぱちぱちぱちっと手をたたいてくれた。

 でも、それから下を向いてしまった。


「わたし、ぜんぶできない……」


「俺だから、できるんだぜ。ふつうは、もっと上の学年にならないとできないってお母さん言ってたもん」


「ずっとできないかも……」


 ミツキちゃんは、そうつぶやいて、フェンスの向こうにしゃがみこんでしまった。

 

「ミツキちゃん……」


 俺はどうしていいかわからなくて、おろおろするばかりだった。

 そうしているうちに、彼女はふっと姿を消してしまった。

 いつもミツキちゃんは急に現れて、急に帰って行くのだ。


 ◇


 それからしばらくの間、お昼になって庭に出てみても、ミツキちゃんは現れなかった。

 俺は、もしかして嫌われたのかと落ち込んでしまった。


 『何でも自分でできる』って言ったのが、馬鹿にしたみたいに聞こえたのかな。

そんなつもりじゃなかったのに。


 ぶくぶくと1人湯船に沈みながら考える。

 考えても考えても答えは出なかった。


 お昼、ベランダに出てみる。ミツキちゃんは今日もいない。隣の家を見上げた。

 空いた窓から、ピアノの音と、歌声が風に乗って聞こえてきた。

 ピアノの音は、小学校の体育館にあったような本物の大きなピアノの音だった。

 ミツキちゃんがよく歌っている童謡の曲だけど、歌っているのは、ミツキちゃんの少し弾んだ明るい声ではなく、大人の女の人の落ち着いた声だった。


(歌ってるのは、ミツキちゃんのお母さんかな……)


 どうして、ミツキちゃんの声はしないのかと、俺は首を傾げた。

 ――と同時に、歌を歌ってるときの、ミツキちゃんのニコニコした顔を思い出した。

 俺はミツキちゃんの、あの笑った顔が見たかった。

 落ち込んだ顔をさせたいわけじゃなかった。


「俺も歌ったら、笑ってくれるかな……」


 そうつぶやいたけど、俺は歌には自信がなかった。

 歌はミツキちゃんの方が上手だし、ミツキちゃんはきっと、お母さんと歌う方が好きかもしれない。

 俺はミツキちゃんのお母さんに、よくわからないが対抗心を燃やした。


 俺だから、ミツキちゃんにできること……。

 俺は自分の得意なことを必死で考えた。

 計算ドリルや漢字ドリルは得意だけど、それを見せても、ミツキちゃんは喜ばない気がする。――あと、俺が得意なこと。


「俺は、お絵描きが得意だ!」


 最近描いてないけど、俺は絵を描くのが得意だった。

 俺が描いた教育番組のキャラクターのイラストは、2回もテレビのイラスト紹介コーナーに掲載された。


 俺は学習机の椅子に飛びのり、保育園の時に使っていたお絵描帳と色鉛筆を取り出した。そして、ミツキちゃんの顔を書いた。得意げに笑った顔や、嬉しそうに笑った顔を、何枚か描いてみた。


「まだ寝てないの?」


 母さんが部屋をのぞきこんできたので、俺は「寝るよ!」と強い声を出した。

俺は電気を消して、机のライトだけつけた。

紙の上に、またミツキちゃんの笑顔を描いた。我ながら、よく書けたと思った会心の一枚ができた。それを破ると、二つに折った。


 それから数日。折り曲げた絵を手に持って、朝から庭で待機して、隣の家を見上げる生活を続けた。家に直接持っていこうかとも思ったけれど、ミツキちゃんの親に会うのは気恥ずかしかったし、自然な感じで渡したかったから、俺は庭で待った。


 ミツキちゃんの家の2階からは、朝から彼女のお母さんが歌う童謡の歌が聞こえていた。

 ミツキちゃんの声がしないのが不思議だった。


 俺は彼女が「病気」と言っていたことを思い出して、ひやっとした。

 ――もしかしたら、ミツキちゃんに何かあった?


 そう思った時、


「アオイくん!」


 と待ちに待った声がした。

 振り返ると、ミツキちゃんがいつものように、にこにこと笑っていた。


「ミツキちゃん!」


 俺の声にミツキちゃんは驚いたように目を丸くした。


「最近いなかったじゃん。どうしてるかなって、心配してた」


 そう言って指をくるくると回すと、ミツキちゃんは笑った。


「ちょっと、しばらく病院に入院してたの」


「そうなんだ。大丈夫?」


 風が、フェンスの向こうのミツキちゃんの長い髪をふわりと揺らした。


「うん。戻ってきたよ」


 『入院』という言葉が心配だったけれど、俺は自分が嫌われて彼女が姿を消していたわけではなかったことにほっとして、息を吐いた。それから、頑張って書いた似顔絵を、彼女に渡した。――教育実習で教壇に立つのなんか、あの時のどきどきに比べたら何でもない。それくらい胸がどきどきした。


「わあ!」


 俺が描いた絵を見せると、ミツキちゃんはぴょんぴょんと何度もその場に飛び跳ねた。


「アオイくん、じょうず!!!! わたし、かわいい!!!」


 そして、ぱちぱちと手をたたいてくれたので、俺は上機嫌になって、ミツキちゃんに似顔絵を渡そうとした。けれど、ミツキちゃんは首を振った。


「……でも、もっとかわいく描けると思うの。そしたら、もらうね」


 そして、悪戯っぽく笑った。馬鹿な俺は、その表情にどきっとして、うなずいた。


 それからも、俺は何度もミツキちゃんに似顔絵をプレゼントしようとチャレンジしたのだけど、ミツキちゃんはその度「もっとかわいく描いて」と言って受け取ってくれなかった。

 写実的すぎてミツキちゃんの好みに合わないのだろうかと、流行っていた女の子向けのアニメ寄りの画風にしてみたり、服装を可愛くしてみたりと工夫はしてみたけれど、駄目だった。おかげで、俺は女の子の絵を描くのが異様に上手くなってしまった。教育実習の現場でもイラストを黒板に描いてみたら児童ウケが良かったのでありがたい。


「まだ、もらってくれない?」


「うん。ママもパパも『ミツキちゃんが世界で一番かわいい』って毎日言ってるし、もっとかわいく描いて!」

 

 ――それは『親目線で』ということではないだろうかと、俺は思ったけど言わなかった。

 ミツキちゃんの機嫌を損ねたくなかったし、ミツキちゃんは実際かわいかったから。

 ミツキちゃんの特徴は、右目の下に泣き黒子があることだった。

 その黒子がちょっと大人っぽく見えて、幼い印象とのギャップが俺をドキドキさせた。

 お絵描き帳にはいろんな描き方のミツキちゃんが描いてあったけど、どれも黒子だけはしっかり描いていた。


 そんなこんなで、俺とミツキちゃんの交流は、小学校3年生くらいまで続いた。


 ◇


 俺は新聞委員会からの質問用紙に目線を戻した。


『質問11)先生の大しっぱい!を教えてください』


 大失敗ね……。俺は自分の左腕を見た。よく見ないとわからないが、ミミズが這ったような跡が残っている。――火傷の痕。ミツキちゃんとのある意味『別れ』のきっかけ。


 小3の4月。まだ少し肌寒い日で、俺は昼ご飯にカップラーメンを作ろうとしていた。『お湯は使わないで』と言われていたけれど、父さんの夜食のカップ麺がちょうど視界に入って、俺は急にカップ麺を作ろうと思い立った。


 電気ケトルでお湯を沸かして、カップ麺の蓋を開け、入れる。ここまでは良かった。

 ――俺は、時計を見た。12時。ミツキちゃんが庭に出てくるかもしれない。

 『カップ麺を作ったぜ』と報告しなければ。

 そんな謎の使命感に駆られた俺は、お湯を注いだばかりのカップ麺を持って、そのままベランダに移動しようとした。――そして、手を離してしまった。


「あっつ!!!!!!」


 思わず叫んだ。左腕から左半身にびしゃっと熱湯がかかった。

 呆然とする中、熱が皮膚の下に食い込むようなじんじんする痛みで、息が止まった。

世界が一瞬、真っ白になった。


「……」


 俺は尻餅をついたまま、呆然とその場に座り込んだ。

 痛みで涙が出そうになるのを、唇を噛んでこらえる。

 泣いたって、家には俺以外誰もいないんだから、自分でなんとかしないといけない。

 俺はしっかりしてるから、やればできる! 火傷は、冷やす!

 俺は痛みに耐えながら、冷凍庫に向かって床を這った。

 冷やす=冷凍庫という図式が頭にできてしまったんだと思う。


 冷凍庫を開け、中に手を突っ込む。凍った肉や氷の匂いがした。

 ――けれど、痛みはひどくなるばかりで、全然なくならなかった。当たり前だ。

 ――その時、後ろから声がした。


「アオイくん!!! どうしたの!!!」


 振り返ると、ミツキちゃんが青い顔をして俺をのぞき込んでいた。

 ベランダの窓は開けていないはずなのに。なぜか、彼女は俺の後ろにいた。

 そんなことを気にする余裕は俺にはなかったけれど。


「ミツキちゃん……」


 俺は唇を噛んだ。ミツキちゃんの前で泣きたくなかった。

 ミツキちゃんは俺の真っ赤になった左腕を見て、目を丸くした。


「い、痛いよね……? それ?」


「痛い……」


 答えたらミツキちゃんの頬を涙がぽろぽろと頬をつたった。

 

「何でミツキちゃんが泣くんだよぉぉぉ、痛いのオレぇ……」


 言いながら、俺の頬にも目からも涙があふれてきた。もらい泣きだった。


「わたし、痛いの嫌だもん……、すごい痛そう……」


「痛いよおおおおお」


 いったん認めてしまうと、涙が止まらなくなってしまった。

 キッチンではミツキちゃんと俺がそろって号泣していた。

 ミツキちゃんは俺の腕をひっぱった。


「アオイくんのパパとママいないんでしょっ? 外に行こう」


「――なんで、嫌だよぉ。外に出ても、痛いの変わらないだろぉおおお」


 俺は号泣しながら彼女の腕を振り払おうとした。

 けれど、ミツキちゃんは予想外の力で俺を引っ張って、ずるずると玄関へ向かって行った。


「だれか、大人の人を呼ばないと……!」


「いいよぉ、オレ、自分でなんとか、でき……」


「できないよ! 死ぬよ!」


 ミツキちゃんは泣きはらした目で、強く言った。その言葉があまりに強くて、俺は言葉を失った。『死ぬ』という言葉が頭の中を支配して、パニックになった。


「うわああああ、死ぬぅぅぅ!!!!」


 腕の痛みで本当に死ぬ気がしてきて、オレは大声で泣きながらわめいた。

 そんな俺を引っ張って、ミツキちゃんは玄関を開けると、路上に俺を突き出した。

 

「うちのママいるから、ピンポンして!」


 ミツキちゃんに言われるがまま、俺は泣き叫びながら、隣の家――ミツキちゃんの家の玄関チャイムを連打した。


 そうしたら、ミツキちゃんのお母さんだと思われる女の人が出てきて、俺を見て血相を変えた。


「君! どうしたの!?」


「カップラーメン、ひっくりかえしました……」


「お母さんとお父さんは!?」


「いない……です……」


「救急車呼ぶから! とりあえず中に入って!!!」


 ミツキちゃんのお母さんは俺を浴室に連れて行くと、シャワーで冷水を俺の腕にかけながら、救急車を呼んでくれた。そのあと到着した救急隊の人たちが俺を救急車へ運び込んだ。ミツキちゃんのママは「娘がいるので」と隊員の人達に言っていた。ミツキちゃんはそんなお母さんの後ろから、俺を心配そうに見つめていた。



 近くの大きめの病院に搬送された俺は、手当を受けた。親の連絡先を聞かれたけど、電話番号が登録された子ども用携帯は家に置きっぱなしだったので、番号はわからなかった。「どこの小学校?」と聞かれたので、学校名を答えた。「1年の5月から行ってない」と付け加える余裕はなかった。薬を塗って包帯を巻いてもらうと、少しずつ痛みは落ち着いてきた。看護師さんは、俺を職員用の部屋に入れてくれて、テレビをその時間にやってるアニメ番組に変えてくれた。そして母さんより先に、小学校の1年の時の担任が病院に駆け付けた。「お母さんには連絡しといたから、すぐ来ると思うよ」と言って、担任は俺に自販機でジュースを買ってくれた。手が包帯でぐるぐるだったので、紙パックにストローで飲むやつ。ストローをさして俺に差し出してくれたので、俺は先生とテレビを見ながら、ジュースをちゅーちゅー吸って母さんを待った。


 ――そして、母さんが来た。

 母さんは俺を見ると号泣し、駆け寄ってきた。

 その頃には泣き止んでいた俺だったが、また涙腺がゆるんで、「うわあああ」と声を上げて泣いてしまった。――そして、俺は家に帰った。タクシーが家の前につくと、玄関の外に立っていた父さんが、俺に大きく手を振った。


 それから数日。俺は何度か病院に行きつつ、家で安静に過ごした。

 母さんは仕事を休んで日中ずっと家にいた。

 何度か、市役所の人やら警察の人やらが家に訪ねてきた。

 ――今思うと、病院から役所に何か通報かなにか行っていたのかもしれない。

 

 痛みが少し収まってきたころ、俺は母さんにミツキちゃんのことを話した。


「隣の家の女の子が、助けてくれたんだ」


 けれど母さんは首を傾げた。「隣の家に女の子なんて、いたかしら」と。

 首を傾げつつ、「お礼を言いにいかないとと思っていたのよ」と、火傷から2週間後、菓子折りを持って、俺と一緒に隣の家の玄関ベルを押した。


「――はい」


 出てきたミツキちゃんのお母さんは、俺を見て顔を明るくし、母さんを見て厳しい表情をした。


「――息子さん、無事で何よりです」


 母さんは背中を小さくすると、「ありがとうございました」と何度も頭を下げた。

 俺はきょろきょろと、ミツキちゃんの姿を探したけれど、彼女はどこにもいなかった。


「あの、ミツキちゃんは……」


 そう言った途端、ミツキちゃんのお母さんは、言葉を失ったように俺を見つめた。


「どうして、ミツキの名前を?」


 最初は意味がわからなかった。

 俺は、事情を説明した。


「オレが痛がっていたら、ミツキちゃんが大人に助けてもらえって……」


「そんなはずが、ないわ」


 おばさんは何度もそうつぶやいてから、俺たちを2階へと案内した。

 2階の、いつもピアノと歌が聞こえていた部屋。

 その部屋に足を踏み入れたとたん、俺と母さんは驚いて息を呑んだ。


 壁際に大きなグランドピアノが置かれた部屋の窓辺にはベッドがあって、そこに、女の子が寝ていた。身体からは管がたくさん出ていて、何かの装置のようなものにつながっていた。閉じられた瞳は寝ているようだった。


 ――けれど、白いふっくらとした頬と、目の右下にある大人っぽい黒子。

 彼女は確かに『ミツキちゃん』だった。


「ミツキちゃん!!!」


 俺はミツキちゃんのお母さんを見た。


「ミツキちゃん、病気って言ってたから――、何かあったんですか?」


 そう聞くと、おばさんは首を振ってつぶやくように言った。


満喜(ミツキ)ちゃんは、ずっと、生まれた時から、こうなのよ」


 ミツキちゃんのお母さんの話では、隣の家のミツキちゃん――満喜(ミツキ)ちゃんは、生まれた時の事故で、ずっと意識がないそうだった。


 俺は、信じられなくて、母さんとミツキちゃんのお母さんを部屋に置いて、そのまま自分の家へと駆け戻った。部屋に置いてあるお絵描き帳を全部つかんで、ミツキちゃんの部屋へ駆け戻ると、それをミツキちゃんのお母さんに見せた。そこには、俺がずっと描いてきた、ミツキちゃんの姿があるから。彼女は確かに、俺と昼下がりの時間を一緒に過ごしていたから。


 俺が渡したお絵描き帳を一枚一枚めくって、ミツキちゃんのママはその場にへたりと座り込んだ。ぽたぽたと俺が描いた笑顔のミツキちゃんの上に、水滴が落ちた。


「これは――、確かに、ミツキちゃんね――」


 そうつぶやいて、ゆっくりと全てのページをめくっていった。

 俺と母さんは、何も言えず、それをただ見守っていた。

 全部のページを見終わってから、ミツキちゃんのお母さんは俺を見た。


「こんなことは、信じられないけれど――、ありがとう」


 俺はベッドで眠るミツキちゃんを見た。

 ミツキちゃんは、ベッドに横になったまま、瞳を閉じた横顔を俺たちに向けていた。ミツキちゃんの『バレちゃった』というような、おどけた声が聞こえた気がした。俺は、その瞬間に、自然と、俺が会っていたあのミツキちゃんには、もう会えないことを悟った。


 俺はミツキちゃんのお母さんに、お絵描き帳を押し付けると「あげます!」と言った。

 結局、ミツキちゃんは受け取ってくれなかったのは、こういう意味だったのだろう。

 ミツキちゃんのお母さんは「ありがとう」と言うと、俺の手を握って、


「また何か、困ったことがあったら、いつでも言ってね」


 とささやいた。


 ◇


 それから、俺はあの『ミツキちゃん』に会うことはなかった。

 けれど、時々、隣の家に行って、眠る満喜ちゃんの様子を見に行くようになった。


 満喜ちゃんのお母さんは、もともとピアノの先生をしていたそうだ。

 俺は、隣の家に行くついでにピアノを習うようになった。

 それからしばらくして、学校にも行くようになった。

 どうも母さんは俺が家にいると、仕事に行けなくなってしまったようで、母さんと日中ずっと家にいるのは嫌だったので、学校に行ってみることにした。


 俺が少し大人になったからか、学校は、以前よりも過ごしやすく感じた。

 以前はうるさかった教室も、にぎやかに感じるようになっていた。

 俺が頭をたたいた男子――菅谷(すがや)は、復学した俺の隣のクラスだった。

 俺は、菅谷を呼び止めると自分の筆箱を渡して、『俺の頭もたたいてくれ』と頭を下げた。


 菅谷は「やだよ」と首を振ったが、俺が泣きそうになると、困ったように相変わらずのぼさぼさ頭を掻いて、『じゃあ、後ろ向いて』と言って、俺の尻を『ていっ』という気の抜けた声とともに、軽くたたいた。俺はその優しいたたき方に、その場で号泣してしまって、菅谷は『痛かったか?』と困惑していた。俺はあの火傷の一件以来、涙もろくなってしまった。


 菅谷は騒がしいし、ぼさぼさ頭だけど、優しいやつだった。菅谷とは教育実習が終わったら飲みに行こうと約束している。『ムカつく生徒がいても、殴るなよ』と実習前には連絡をくれた。


 俺が中学に上がるころ、満喜ちゃんは施設へ移った。満喜ちゃんのお母さんは、満喜ちゃんのいた部屋で、本格的にピアノ教室を始めた。俺は高校を卒業するまで、生徒としてそこに通った。


 だから、俺は今でもピアノが弾ける。

 実習中も朝の集会で校歌を弾いてみたら、生徒ウケが良かった。


 年に1回は、満喜ちゃんのいる施設で、発表会をやった。俺は、ミツキちゃんの好きだった童謡を練習し、弾き語りで歌ったりした。それは、ぜんぜん恥ずかしく思わなかった。

 

 勉強はそれなりにできる俺だが、進学校に入ってすぐに悟った。俺より頭のいい奴なんて、いくらでもいる。けれど、かわいい女の子の絵をいろんなテイストで書けて、童謡を山ほどピアノで弾けるのは俺だけだった。それは、俺がミツキちゃんに会ったから身についたことだ。


 ――満喜ちゃんは、俺が高校2年の時に、施設で亡くなった。

 今でも、俺が会ったミツキちゃんが一体何だったのかは、よくわからない。

 けれど、彼女と過ごした小さい頃の長い昼下がりの時間は、今も俺の中にはっきりと思い出として残っている。


 俺は最後の質問に目を通した。


『最後の質問)みんなにひとこと!』


 俺は少し考えて、ペンを走らせた。


『人という字は支え合ってできている』


「カッコつけすぎかな……」


 そうつぶやいてから、照れ隠しのように、“人”の字みたいに背中を預け合う男の子と女の子のイラストを添えて、ペンを置いた。

 音楽室の方から、児童の歌う歌が聞こえてきて、俺は目を閉じた。


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